09 6月

6月のハーグ ~まちに賑わいが戻ってくる~

オランダでは、6月1日月曜日から、大幅な緩和策が始まりました。第一弾は飲食店などの営業再開です。予約を入れること(テラス席はその限りではない店が多い)、お客さんは一度に30人まで、席と席の間は1.5mあけること、なるべくPin(デビットカード)支払いなど、いろいろ制約つきですが、ともかく、いつもの街がもどってくる第一歩。インテリジェンス・ロックダウンが始まったのが3月半ばですから、約2か月半ぶりのことです。

ベンチに作られた新しいパテーション

とはいえ、感染者がゼロになったわけではありません。これを書いている6月9日現在、毎日更新されるRIVM(オランダ公衆衛生環境研究所)のウェブサイトでは、以下の数字が報告されています(かっこ内の数字は前日からの増加数)。

陽性反応者:4万7903人(+164)
入院者:1万1800人(+6)
亡くなった方:6031人(+15)

過去一週間を振り返っても、陽性反応者は毎日約100人単位で増えています。この増加は6月1日から検査が受けやすい態勢が整ったことに起因すると思われます。いずれにせよ、2か月前の4月9日の陽性反応者は1213人、5月9日では289人ですから、かなり少なくなりました。記録を見返すと、3月下旬から4月上旬が最もシビアだったことが分かります。

ショップなどは飲食店再開の前からすでにオープンしており、マスク率が1%にも満たないこともあって新型コロナウイルスは実は壮大なトリックなのでは?と思う日もしばしば。天気がよいとショップ前に列ができ(入場制限があり)、公園はピクニックを楽しむ人で混んでおり、運河では夏恒例のボートタイム(まるで居間にいるかのように寛ぎながらボートを操縦)を楽しむ人が出ていたし、みなさんもすでに貪欲に(笑)、レジャータイムを満喫しています。そうであっても、飲食店再開はやはり格別なものがあります。

ボートの中がリビングルーム化します

 

6月1日はPinkstrenという聖霊降臨祭の翌日で休日にあたり、しかも夏日。夕食後、よく通っているアイスクリームパーラーでアイスを食べた後、街はどんな風になっているか、デンハーグの中心を散策してみることにしました。

いきつけのアイスパーラーは「Florencia」といいます。イタリア人家族が始めた老舗で、デンハーグ下町を象徴するドローカルショップです。ハーグは国会議事堂や大使館が多くあることで「洗練」「エキスパット」のイメージがありますが、どっこいローカル色のつよい街です。そして、地元ハーグゼナーは口の悪いことでオランダ国内でも有名で、単刀直入なオランダ人でさえ涙がちょちょぎれるきつさなんだそうです。

Florenciaで、お気に入りの組み合わせ、Aardbeien(イチゴ)とCakeijs(ケーキアイス)。ケーキアイスはスポンジケーキ味なので、合わせるとイチゴケーキ味になります

 

ところで、Florenciaでは営業再開とはテラス席解禁を意味します。ここに通う人の大半が寄りあい所としてFlorenciaを利用しており、ほぼ毎日、決まった時間に集まってくっちゃべるのを日課にしていた人が大勢いました。なので、6月1日以前も営業はしていたのですが、常連さんにとってはアイスは買えてもテラス席がないというのは、閉店と同じこと。2か月半ぶりの再会に、嬉しそうに肘ごつき挨拶をしているのを見て、こちらまで和みました。

今のFlorencia(上)と1年前(下)。テーブルの間隔がとられています

 

中心街はというと……。相当な人出です。レストランによってはかなり混みあっているように見えますが、テーブル同士が不自然に空いていて、妙なスカスカ感もあり、本当に混雑しているのかがよくわかりません。そんな距離を保とうねという努力も虚しく、再会を喜ぶ友人らが次々と現れて人で山盛りになっているテーブルもありました。

密なんてなんのその、再会を喜ぶ人たちで混みあうテーブル。

裏路地風の狭い通りには合唱団が繰り出し、嬉しそうに聴く人たちでひとだかりができています。そんな混みあう道を横切るインドネシアのおばさんは、サンダル&ゆるゆるな服にマスク着用で強烈な違和感を放っています。ヒップなレストランのヒップな店員はフェースシールドをかぶってお客さんにVサイン。

道路にはいつの間にか片道通行と1.5㍍空けようね表示がつくられており、でも、守って歩く人はほぼ皆無。ある広場ではカフェの横にあるジムがマシーンを屋外に出しており、ランニングに黙々と取り組む人の横で、楽しそうにごはんを食べている人たちがいます。通りを走るトラムを見れば、乗客全員があんなに嫌がっていたマスクをしています(6月1日から公共交通利用の際はマスク着用が義務になっています)。

食事をしている人の横で黙々とエクササイズに励んでいます。

 

警戒している人、すでに終わったと思っている人、最初っから頓着していないと思われる人、つい忘れちゃった人、それなりに気を付けている人。同調圧力とは真逆の主張王国ならではの「あるある」なのでしょうか、それぞれの対処法が個人単位ではっきりくっきり際立ち、しかもそれぞれかなり違うために、久しぶりのにぎわいは警戒と喜びがサイケデリックに入り混じってどこかシュールでした。これがオランダ風「ニューノーマル」なのでしょうか。

おしゃれなカフェのベンチでは密に座らないよう×印がついています。さすがに座らない…と思います。

いつの間にかできていた、距離をあけつつ、右側通行の指示。

トラムの停留所の指示。1.5mあけて、ここで待とうねという指示ですが、気にしている人はあまりいませんでした。

 

 

 

 

 

10 5月

5月のハーグ

こんにちは。オランダのデン・ハーグにいるFAN世話人の水迫です。デン・ハーグはアムステルダムから南へ約1時間、南ホラント州の州都です。国会議事堂などがあることから国内政治の中心都市であり、各国大使館や国際司法裁判所などの国際機関もあります。国王もお住まいです。活気のあるアムステルダムと比べて、どこかのんびりした雰囲気があり、森が多いのも魅了です。

光栄にも『ハーグ便り』というページをいただきました。月一度くらい、オランダからお便りをお届けしたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

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リレーブログにオランダの新型コロナウィルス感染のことを書いてから、はや2か月弱がたちました。今でも外出制限令は解除されていません。一時は一日1000人単位で陽性反応者が増加し、外に出るのも覚悟がいるほど緊迫した日々が続きましたが、2週間前くらいから陽性反応者、入院される方、お亡くなりになった方の数が減少に転じており、5月6日、政府は新たな施策を発表。緩和へと舵を切り始めました。

美容室やエステ、マッサージ、図書館などは5月11日から営業OK、6月1日からカフェ、レストランやバー、美術館、映画館もOK、中高等学校も再開。ただし、美容院などは予約、カフェは1.5mの間隔を保ったテラス席のみ、レストランやバーは予約制で従業員も含めて30人までというルールが設けられています。さらに7月、9月と段階を設けて緩和に進むようです。

外出制限令が発令された3月中旬以来、オランダでは珍しく晴天が続いています。雲がたれこめる鬱陶しい冬がやっと終わり、これから日光浴の季節!と心待ちしていたところに、この制限令。そもそも真冬でさえ、太陽が差すとダウンジャケットを着こんでテラス席でコーヒーを楽しむほど、日光を渇望する人たちです。夏と冬の日照時間の差がそれほどなく、冬でも穏やかな晴れ日がある日本では、ちょっと想像しにくいかもしれませんね。

春からの素晴らしい季節を心待ちにしていたオランダ人にとって、ずっと家の中で過ごすのは、そろそろ限界(厳しい時も、3人以下、距離保つというルールの元、散歩は許されていました)。緩和策が発表されてから初めての週末、友人と森や公園を散歩しましたが、人出は普通の休日。ただ、狭い道ですれ違うときにはお互い道をゆずりあったり、にっこり微笑みかけながらざざっと避けあったり。なんとなく、みなさんどことなく嬉しそうでした。

日本でも外出が憚られる日々が続いているようですね。他県ナンバーの車を白い目で見たり、営業している店に張り紙はったり、嫌な空気が漂っていると友人から聞きました。こちらでもルールを無視して傍若無人にふるまう人もいたりしますが、他人に関心がないのか、目くじらたてることはなく、基本、スルーです。

むしろ、注意したら「嫌なら、そっちが避ければいいじゃないか!」と、逆切れされるかもしれません。というのも、ルールがグレーゾーンなエリアですから、その人の「権利」に抵触する可能性があるからです。

以前、知り合いのオランダ人の娘さん18歳の誕生日会に呼ばれたことがありました。オランダでは18歳になるとナイトクラブなどに出入りすることが許されます。「セックス、ドラッグ、ロックンロール」の扉が開かれる年齢です。娘の成長を喜びながら、父親は心配そう。「家のルールでまだダメは?」と尋ねたら、「それは無理。親だからといって、子どもに与えられている権利は奪えないよ」。その人のもつ権利は親と子の関係であっても、犯すことができない神聖なものだと考えているのだと感心したことがあります。

多少、社会モラル的にはどちらかというとアウトであっても、個人の権利を主張する。
「私も守っているんだから、あなたも守りなさいよ」
は、オランダでは通用しなさそうです。正義よりも個人の権利が勝ると考えているからなのかもしれません。

だからといってルールを守らず、好き勝手にふるまっているわけではないですよ。

待ち合わせ時間は正確だし、約束はきちんと守ります。そんな行動規範が「迷惑をかけない」よりも、「自分も相手もそのほうが快適」と合理的に考えるのではないか?と思います。

 

16 3月

新型コロナウィルスでオランダは今?!

今回は、オランダに住む広報担当の水迫から、新型コロナウィルスが拡大してるオランダの現状報告です。今、彼の地はどうなっているのでしょう?

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こんにちは。ハーグ在住の水迫です。WHOがパンデミックを宣言、震源地は今や欧州に移ったと報告しました。イタリアの全面封鎖(Lock downと言われています)にはじまり、スペインも、フランスもレストランや映画館など多くの商店が閉鎖、3月15日、ついにオランダも全学校休校、レストラン、カフェが4月6日まで休業となりました。2月中旬から一か月のオランダの変化を、生活目線でお伝えします。

 

2月中旬……差別の噂が飛び交う
ちょうど日本で感染者が拡大して大騒ぎになっていた頃。オランダは感染者数ゼロで、ハーグの中華街では旧正月の爆竹が盛大に鳴り響き、しばらくしてオランダ南部では恒例のカーニバルが例年どおりに始まりました。すでに北部イタリアで感染拡大が話題にはのぼっていましたが、まるで他人事。3月初旬に一時帰国する予定にしていた私は、帰るかか否かで迷いまくり、情報を集めまくっていたので、自分と世間との温度差は、極寒と亜熱帯くらい違うものでした。

その頃、ポツポツと中国人(ひいてはアジア人)が差別されるという噂が入ってきました。とある日本人ご家庭では、子どもが学校でばい菌扱いされて泣いて帰ってきたそうです。確かにその頃は、コロナウィルス=中国を発端にアジアが広めた迷惑なモノという扱いでしたから、マスクなぞして外出しようもんなら「危ないアジア人」認定されそうな空気感がありました。

私も、友人とアムステルダムを歩いていたら、向こうから歩いてきたオランダ人にすれ違いざまに「xxxxJapans」と言われました。「xxxx」が聞き取れなかったのですが、笑っていなかったし、若干捨て台詞っぽかったので、よいことではなかったと思います。いい気持ちはしませんが、そういった人たちを相手に一喜一憂するのは時間の無駄。その後に入ったカフェの店員さんのとびっきりの笑顔が全てを帳消しにしてくれました。

関東にいる兄家族から「マスクがなくて困っている」という話を聞いていたので、帰る気でいた私は、マスクをお土産にしようと思い立ちました。

さて。どこで買えばいいのだろう? オランダにもマツキヨのようなドラッグストアがありますが、マスクを見かけたことがありません。というか、そもそもマスクをつけた人を街中で見かけたことがありません。花粉症がないからでしょ!という声が聞こえてきそうですが、白樺やヤナギの花粉症はあります。春に日本に遊びに来たオランダ人から「なんでみんなマスクしてるの? 病気なの?」という質問をよく受けたものですが、それだけマスクに馴染みがないわけで、「マスク着用で危ない人認定されそう」は、そういった背景があります。

オランダ人夫から、”DIYショップに行け”アドバイスをもらい、DIYチェーン店ショップ「Karwei」に行くことにへ。

DIYショップでは粉塵マスクしかなく、1つ€4は下らないお値段。高いなあ、でも30個くらいは送りたいかなあと、ぽいぽい買い物かごに入れていたら、かさばることもあってあっという間に山盛りに。コロナウィルス=アジア人の図式が目立っていた時期だけに、顔から火がでるほど恥ずかしく、レジに並ぶ後ろのカップルも、その量に目を丸くしています。キャッシャーのおばちゃんに聞かれもしないのに「日本にいる家族がね、マスクがないらしくてね」と言い訳をすると、おばちゃんは「そうよね、日本は大変よね~」といたく同情してくれました。オランダ人にとっては、そのくらい遠い話でした。

 

2月下旬……初の感染者1人。手洗いソープが棚から消える
2月27日、オランダで初感染者が報告されました。ゼロなはずがないというのが世間の見方だったので、やっと報告があったと、どちらかといえばほっとした印象でした。というのも、近隣国でこれだけ拡大しているのに地続きのオランダでゼロであるはずがなく、ゼロが続けば隠蔽しているのではと政府への不信感が高まる可能性がありました。感染者第一号はすでに感染が広がっていた北イタリア帰りのオランダ人でした。

その後からオンライン上でマスクの売り切れが目立ち、スーパーでもある商品が品薄になり始めます。その商品とは、ハンドソープ。消毒用ジェルではなく、いわゆる普通のハンドソープです。

うすうす気づいてはいましたが、オランダ人の多くは手洗い習慣がないようで、ADという新聞のアンケートによると、お手洗いの後、なんと50%のオランダ人が石鹸で手を洗わないと答えたそうです。外出後の手洗いも言わずもがな。在蘭日本人の間では「これでオランダ人に手洗い習慣が根づくね」と、この傾向を喜び合っていました。幼い頃から手洗い習慣を叩き込まれていた日本人にとって、手を洗わないオランダ人は密かにストレスだったのですね。

2月28日……感染者2人
3月1日……感染者10人
3月2日……感染者18人
3月3日……感染者24人

 

3月4日頃……感染者38人。パンは自分で焼こう
感染者オランダでは、公衆衛生研究所であるRIVM(Rijksinstituut voor Volksgezondheid en Milieu)が毎日、感染者の数を報告しています。27日の1から6日後の3月4日、38人の感染者が確認されました。ほとんどの人が北イタリア帰りです。結局、私は日本行を断念しましたが、情報収集に余念がなかったため、危機意識が他のオランダ人より少し先をいっていました。

今後に備え、保存食を余計に買っていたほうがいいかなと思うようになっていました。私よりも百倍用心深いオランダ人夫は、すでに外出する度にせっせとストックを買うようになっていました。缶詰(豆類)、パスタ、大量のタマネギ、乾燥豆、ミューズリー、そして小麦粉。それも全粒粉、スペルト、薄力粉、強力粉とバラエティ豊かに取り揃えています。普通のスーパーでもこれだけの種類が普通に買えるのだと妙なところに関心しながら、そうだパンが焼けるな。ならイーストだとスーパーに行くと、なんとドライイーストが品切れ。小麦粉は日本人の米にあたる存在なのだということを改めて認識しました。

教訓。”非常時はパンは自分で焼け”。

3月5日……感染者82人
3月6日……感染者128人、初の死亡が確認される。
3月7日……感染者188人
3月8日……感染者265人

 

3月9日……感染者321人。握手は自粛しましょう
感染者は382人になりました。つい一週間前の38人から10倍です。1日前にはイタリアでは全土封鎖宣言がでましたが、オランダでは特に動きなし。これでいいのだろうか……。「EU諸国のみなさん、私たちと同じ道をたどらないよう、どうか自衛してください」とイタリアの首相が言っていたのに。

その夜、ルッテ首相から新しい対策の発表がありました。それは「今後しばらくは握手しないように」でした。宣言直後にRIVMの所長とうっかり握手を交わし、「あ、いけね!」と手をひっこめ、肘をごつきあう新しい挨拶を紹介して、その後、肩をポンポンと叩くというおまけつきでした(笑)。

その数日前、テレビでハーグの国会議事堂にいる政治家に「入口に備え付けた消毒ジェル、使ってる?」とレポーターが突撃取材したり、トークショーのゲストが「俺ね、手術用手袋、持ち歩いてるよ、ほら! がはは」という笑う様子が放映されたりしてました。

それらを観て、どんな時でもジョークを忘れないオランダ人と好意的にとらえていたら、横で一緒に観ていた夫の顔がみるみる険しくなりました。「真剣に向き合っていない。ふざけすぎている」。夫に言わせると、オランダ人は何事でも大したことじゃないよ、フツーだよというポーズをとる癖があり、それは「贅沢を好まず、地に足のついた生活をしろ」という国民的傾向からきているかもしれないが、非常事態においてはそれは違うのではないか。また、ジョークを交えることで「深刻じゃない」と間違ったメッセージを視聴者に送ることになる、あるいは本当に大したことないと捉えているなら、そんな政府に自分の生活を脅かされるのはまっぴらだ。

真剣すぎてジョークを飛ばそうもんなら首が飛ぶ(最近、飛びませんが)日本の政府と、あ、握手しちゃった、いけね!と余裕のオランダ政府。あまりにも違いすぎるし、どちらがいいのか悪いのか、正しいのか、正しくないのか考えをまとめることができませんでした。

3月10日…感染者382人、死亡者合計4名

 

3月11日…感染者503人
毎日、午後過ぎにRIVMからアップされる「本日の状況」をチェックするのが習慣になりました。10日の382人から一挙に100人以上超えの503人を見た時は軽いショックを覚えました。増加が著しいのは北ブラバント州です。その多くは経路が追えないとのこと。カーニバルのせいではないか?という説もありますが、確かではありません。

 

3月12日……感染者614人。国民、ハムスターになる
午後4時に新たな対策が発表されました。

● 風邪をひいたり熱があったりする人は家から出ないこと。症状が重くなったらホームドクターに連絡をとること。
● 100人以上の集まりはキャンセルすること。
● 可能なら在宅勤務に切り替えること。
● お年寄りや身体の弱い人は集まりや公共交通機関の使用を避けること。そのような人の訪問を極力避けること。
● 大学、高等教育機関閉鎖

やっと真剣に取り組みだした。が、遅すぎないか、まだゆるくないか?という声が私の周りでは多く聞かれました。ちなみに、その頃は私の行動範囲は徒歩圏内のみで、友人との約束も次々と延期、キャンセルとなりました。

用心深い夫のおかげで家には1週間外出しなくてもすむくらいの食料の蓄えができていたのですが、スーパーがどんな感じになっているのか知りたくて、夕食後近くの大型スーパーに行ってみました。ない。イモも、野菜も、肉も、パンも、トイレットペーパーも。棚がすっからかんです。国民スナック、ポテトチップもほとんどゼロ。買いだめ行為を差すオランダ語の動詞は「ハムスターする/hamsteren」です。新しい対策を発表するルッテ首相も、「みなさん、ハムスタらないでください!」と怒りながら言っていました。

 

3月13日……感染者804人。子どもたちは?
大学は休校となりましたが、子どもたちはどうしているのでしょう? 親御さんたちは? 子どもがいないので子持ちのご家庭の様子を知りたく、アイントフォーフェン在住のフリーランスライター山本直子さんの許可を得て、彼女のブログを紹介します。ちなみに、山本さんは先月、オランダの何もしない豊かなライフスタイルを紹介した書籍『週末は、ニクセン』(大和出版)を上梓されています。
新型コロナウィルス:感染防止はゆるゆる、ハイテク措置はばっちりのオランダ

 

3月14日……感染者959人、合計12名の死亡を確認
まちにはひとっこ一人いません。……とレポートしたいところですが、ショップはまだオープン、混んではいませんがカフェにも人が入っています。スーパーは品薄が続くものの、普通に営業。店内はクリスマス休暇前のアグレッシブな雰囲気が若干あるものの、目が合えばにっこり、道ですれ違えば「ハロー」は変わらず健全です。ジャムコーナーでは、ハチミツがとびぬけて品薄になっていました。ちなみに、お隣の国ベルギーでは13日夜からカフェ営業中止になったそうで、隣接するゼーラント州にベルギー人が越境してお茶を楽しんでいる姿が数多く目撃されたそうです。

 

3月15日……感染者1,135人、そして6時に追い出される
毎日家にいるのが苦痛になり、友人と一緒に森を散歩することにしました。電車やバスを使わなくても、そんな森や公園に行けるのがオランダのいいところ。同じように考える人がいるもので、家族連れ、友人同士でそぞろ歩きをしながらくっちゃべる人たちがあちこちにいました。林床には可憐な白い花を咲き乱れ、カイツブリが川をすいすい泳ぎ、木々が芽を吹き始めています。これからいい季節なのになー。

ひとしきり歩いた後に、カフェへ。オランダでは極寒の冬でもテラス席が用意されており、みんな着込んだままお茶を楽しみます。そういったわけで、私たちもテラス席へ。お隣のオランダ人グループは、「あ、ハグ禁止だった!」と、ひじ、お尻でごつきあって挨拶していました。

「6時には締めるから、お会計してくれる?」と突然店員が言ってきて、急き立てられるように店を後にしました。家に戻って、政府からさらに対策が発表されたことを知りました。

● 16日から4月6日まで小学校、保育園、MBOの学校休業
● 飲食店は本日6時から4月6日まで休業
● スポーツクラブ、フィットネスクラブ、サウナ、セックスクラブ、コーヒーショップも同様に休業
● 4月6日まで人と人の距離は1.5mを保つ

政府高官が、サウナ、フィットネスに続いて淡々とセックスクラブに言及する姿に面食らいながら、ついにここまできたかと思いました。明日からまちの風景ががらっと変わってしまうのは間違いありません。不便かもしれませんが、感染者が倍増していること、隣国と足並みが揃ったことで、ちょっとほっとしたという気持ちも正直あります。

この6時閉鎖の通達は、30分前の午後5時30分に発表されました。その特急っぷりは、日本の突然の一斉休校タイミングどころではありません。ちょっと急すぎません?とブツブツ文句を言いながらも、押しなべてみなさん受け入れているようです。

普段の生活では個を大切にするオランダですが、時にトップダウンを強行するときもあります。政府の命令に従うというよりも、それが社会の益になるなら協調しようと考えるようです。細かくは色々あるようですが、政治は国民のために存在しているという信頼感と、市民の参加意識の高さのおかげだと思います。ちなみに、あ、握手しちゃったルッテ首相はこの非常事態を冷静に対処しているとお株を上げています。また、お子さんがいるご家庭では、政府からのクリアなメッセージにどのように行動すべきかが分かって安心できたという意見も聞かれます。

ところで。新しい対策の発表直後、長い列ができたショップがありました。それは、コーヒーショップです。コーヒーショップとは、大麻が吸える/お持ち帰りできるカフェです(一定の量のマリワナを持ち帰って家で吸うのはOK)。4月6日まで休業??そりゃ大変!と、大麻をハムスタりたい人々が大挙して押し寄せたのでした。

 

3月16日……感染者1,413人。トータルロックダウンはしない
新しい対策が発表された翌日、感染者は278人増えました。深刻さは日に日に増しています。テレビもコロナウィルスの話題でもちきりです。

今晩夜7時にルッテ首相から国民に向けての10分間のスピーチがありました。外務省のウェブサイトに概要が和訳されているので、ぜひご覧になってください。

「コロナウィルスを最大限コントロール」「コントロールできず感染が広がる」「国を停滞させる」の3つのシナリオがあり、オランダは最大限コントロールのシナリオをとるというものでした。つまりイタリアのような全面封鎖(トータルロックダウン)する道を選ばないという意味なんだと思います。

そして、ワクチンがないなか、オランダに住む多くの人が感染する可能性があることにも触れています。お年寄りなど弱い人を最大限に守りながら医療のキャパシティを確保することに注力し、同時に経済支援も行うということでした。

世間は押しなべて好意的にとらえているようです。素晴らしい、力強いスピーチだったという声も聞こえてきます。

放映中、残念ながら私はスピーチの80%が理解できなかったので、もっぱら声のトーン、ボディーランゲージに目が向きました。両手をテーブルに置き、冷静に伝えるよう指示があったのだと思いますが、身体を前後にゆすり、ネクタイがゆれ、使いたいところをぐっとこらえいるのか、たまに手がテーブルから浮いていました。伝えたいという気持ちが全身から伝わってきました。

私の隣にいる人(夫)は、オーソリティーを全く信じていないので、一定の評価をしつつ、「集団免疫を得ることで感染拡大が抑えられるっていうけど、インフルのように感染後に免疫ができるってなんで言える?」「なんで隣国に先駆けて言わない?」

オランダがとった道が良策だったかどうかは、多分、数年後でないと評価できないと思います。そして、私は自戒を込めて、礼賛方向に気持ちが振れないようにしています。

というのも、日本とあまりにも違うからです。オランダと日本を比べると日本は迷走しているように見えます。力強く伝える胆力がないのか、責任をとりたくないからか、風土になじまないのか。あまりにも振り幅が大きいため、思考停止に陥り、オランダの声明を盲目的に信じるという極端に走ってしまうかもしれないからです。信頼する、しないという意見を醸成するには、社会への参加意識があまりにも低かった自分を自覚しています。

オランダにきて強烈な違いを感じるもののひとつが、市民の社会への参加意識の高さです。オランダ政府が力強い声明が出せるのは、政府の性格によるのではなく、国民が強いから。強くいられるのは社会を成しているのは自分に他ならないという自覚があるから。お上の言うことを自分なりに咀嚼して意見を形成するプロセス、つまり社会参加意識をもたずにきてしまった自分に、冷静な判断ができるとは思えません。

そんな私でもひとつはっきり言えるのが、トップからのクリアなメッセージは、次に何をすればいいのか、その中でどんな行動をとればいいのかという指針を国民に与えてくれるということ。それによって、粛々と暮らす基盤ができるのだと思います。

追伸:一転してコーヒーショップは再開となりました。ストリートギャングによる売買を避けるためだそうです。

10 3月

2020年FAN新年会

新型肺炎の流行で、春近しなのに気分が晴れない毎日が続いていますね。気兼ねなく出かけられる日が早く戻ることを祈りつつ、2月初旬に行われたFANの新年会の様子をお届けします。

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FANのイベントレポートを愛読して下さっている皆さまはご承知のことと思いますが、FANのイベントは本当に毎回お天気に恵まれ、もはや「FAN晴れ」という言葉を作っても良いかと思うほどです。

去る2月2日(日)もまさに「FAN晴れ」の中、恒例の八重洲プロントでの新年会に28名が集まりました。

未だ終息の見えない新型コロナウイルスの感染拡大が徐々に深刻化し始めた当時、会を開催してよいものかという考えも一瞬よぎりましたが、手指消毒を徹底することで開催を決定。例年なら体調を崩される方もある時期ですが、今年は特に気を付けられたおかげか、皆様ほぼ全員がいつも以上に元気に参加されました。

 

先ずは村岡会長から新年のご挨拶。事務局より会計・監査報告、昨年の活動報告。その中には事務局長から「最近FANに対して海外や日本の放送局からオランダに関する問い合わせが増えている」という報告もありました。FANの活動が世間一般にも広まっているという喜ばしい傾向です。

さらに世話人鈴木さんから、次回イベント、魅力的なチューリップをめぐる横浜日帰り訪問のご案内を。こちらは鈴木さんのプランが練られたらまた別途お知らせします。

さて事務的なご報告に引き続きましては本日のメインイベント、今や新年の恒例となりましたお馴染みの花伝亭長太楼師匠に落語をご披露いただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の演題は「転宅」。

間抜けな泥棒が女の一人住まいに盗みに入ったものの、女は海千山千の芸妓で泥棒はころっと騙されて……という笑い噺。笑い噺ではあるものの、騙された天涯孤独の泥棒が女と夫婦になって送る新しい人生を夢見るくだりは泥棒への共感を誘う語り口で、騙されたことに気付いた泥棒はその後どんな人生を送ったのだろうかなぁと思わせる、軽妙な中にも余韻を残す見事な師匠の話術を堪能しました。

長太桜師匠は4月10日に開催される「シニア社会人落語会」に東京代表で出演されるそうですので、こちらもどうぞ、要チェックで。

初笑い後は田中監事による乾杯。

 

 

 

 

 

 

そしてお食事、歓談、初めてご参加の方のご紹介、自薦他薦によるご活動のトークタイムを経て、会員からの差し入れによるオランダグッズのプレゼントタイム。

特賞は、風の国オランダから来た『相当な強風にも耐えられる折りたたみ傘(しかもオレンジ色!)』。多数の希望者による熾烈なじゃんけん勝負の末、ご夫婦でご参加の会員がゲットされました。次点の日めくりカレンダーは、これまた熾烈な勝負の末、「じゃんけんマスター」こと世話人の鈴木さんが自らゲット!平服に戻られた長太桜師匠と仲良くパチリです。

その後は、『もらってほっこり可愛いオランダグッズ』が事前に引いたくじの番号順に全員の手に納まっていきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

プレゼントタイムの後も懇親の花は咲き続けます。「オランダ」をキーワードにあちらでもこちらでも大輪の花が。前回のプロントでのイベントより導入した食事のビュッフェスタイルも功を奏したようです。お食事を取って戻る途中、あちらへお邪魔、こちらへお邪魔。新しい方とお知り合いになるチャンスが広がりました。そして今回もあっという間に予定時間が過ぎ去り、散会となりました。

 

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<FANからお知らせ>

新年会から一か月が過ぎ、現在新型コロナウイルスの影響は当時よりずっと甚大となっています。このような状況に鑑みまして、次回のイベントは大変残念ですが、来年の春に延期することにいたしました。その間、感染症の動向を見ながら別途イベントを企画しご案内させていただきたいと思っていますのでよろしくお願いいたします。皆さまにはくれぐれもお体ご自愛され、元気にご一緒できる日を楽しみにしております。

23 2月

アイスランド旅の百聞一見歌

令和元年は、奇しくも金婚の年でした。その記念の旅としてアイスランドに出かけることにしました。狙いはオーロラと火山島の地形探訪です。

人生を終えるまでに見ておきたいこととして、『皆既日食』『ロケットの発射』そして『オーロラ』と言われています。皆既日食は、インドネシア、オーストリア、中国、アメリカと3度経験しましたが、ロケットはケープカナベラルまで行ったものの、スペースシャトルの事故の後で体験できず、アラスカでのオーロラも見られずに終わっていました。

今回はオーロラ再挑戦の意味合いもあったのですが、相変わらず太陽の活動が低調続きで満足できる状況ではなく、カメラのシャッターを20秒ほど開放してやっと緑色が映るという状態の弱いものでした。往復の飛行機の窓から見た淡いオーロラがせめてもの慰めとなりました。

しかし、アイスランドの火山地形や氷河の姿は十二分に満足できるものでした。

雪化粧をした広大な溶岩台地の荒々しさと地球の割れ目が続くギャオ、巨大な氷柱を両脇にして台地から流れ落ちる雄大な滝の数々、そして青い輝きを放つ巨大な氷河もまた印象に残るものでした。

氷河湖から海に流れ出たたくさんの氷塊が黒い砂浜に打ち上げられて巨大なダイヤモンドのように見えるのも圧巻でした。

何よりも寛げたのは、地熱発電を活用した湖のような露天風呂(ブルー・ラグーン)でした。程よい温泉に浸かり、サービスされる生ビールの喉越しの良さは格別でした。毎回食事時に出されるサーモンとニシンの酢漬けを食べていると、オランダでの生活が思い浮ぶ旅でもありました。

私はこれまで、旅の思い出を短歌に読み込んで記録してきました。その名も「旅の百聞一見歌」。これまで作った冊子は7集となります。先の、105日間南半球世界一周の船旅では300首を詠み、乗船者からの希望もあり本格的に出版しました。 9集目の今回、訪れた主な場所の主なものをご紹介します。

 

強風の中踏ん張り続けカメラ持ち  流れ落ちゆくぐるとフォス撮る

 

延々と割れ目が続くギャオの中雪降り積もる底を歩めり

 

両袖に氷柱従え流れ落つ裏見が出来るセリャランス滝

 

溶岩の大地を流れ落下するスコガの滝を見上げ佇む

数百段登りて眺むスコガ滝流れの奥に滝は連なり

 

氷河去りモレーンが残る山筋は採石場を思い起こせり

 

氷河湖に崩れ流れし氷塊のブルーの光感動を呼ぶ

 

黒砂の浜に残れる氷塊の連なる様はダイヤのビーチ

 

広大なヴァトナ氷河に立ち尽くし自然の為せる驚異味わう

 

氷上をジープで走り辿り着く氷の洞窟スーパーブルー

氷穴の艶やかなりし表面にブルーの輝き目に飛び込みぬ

昼食の前菜に添えられしパフィンの肉を食したるかな

店先にパフィンのグッズ並びしも肉もあるとは夢に思わず

 

古に食糧難の時代ありパフィンで凌ぐ記録あり

 

 

白鳥や鴨がひしめき戯れるチョルトニン湖の冬景色

冷戦の終結会談行われしホフジハウスはホワイトハウス

 

聳え立つハトリグリムス教会の形は正に柱状節理

 

今日もまたオーロラ出でず  気落ちして深夜の空を見渡せるかな

車にてオーロラ求めて一時間雲と見紛う姿あり

 

露出かけ浮かび出ずるはオーロラの写真と同じ緑の姿

 

 

8K でアイスランドのオーロラをペルトランにて鑑賞せり

 

朝まだきブルー・ラグーンに入りたる  冷たきビール喉越しの良さ

 

巨大なるアイスランドの露天風呂チュナの温泉思い起こせり

広大な溶岩台地見渡せり改めて知る火山の驚異

ごろごろと冷え固まりし溶岩流鬼押出しの警官覚ゆ

飛行機の窓越しに見るオーロラもレベルが低く淡き色なり

機内よりオーロラハント試みてやっとの思いで撮影終えり

金婚の記念に来たる旅終わり想い出糧に人生歩む

 

06 12月

11月17日六義園と東洋文庫訪問

11月17日、日曜日の午後、絶好の秋日和のなかFAN今年最後のイベントとして六義園と東洋文庫を訪問しました。

 

第一部 六義園散策
1月17日(日)秋の穏やかな陽ざしの中、駒込にある「六義園」を散策しました。


正面の入り口に参加者26名が集合し、3つのグループに分かれて、それぞれに庭園ガイドがついて河越藩主の柳沢吉保が下屋敷として造られた「池泉築山回遊式庭園」を巡りました。

六義園は、江戸中期に河越藩主の柳沢吉保が直接指揮して7年かけて完成させた、小石川後楽園と並び称される江戸の2大大名庭園です。六義園の「六義」は、中国の詩の分類に由来しており、「和歌の庭」といわれるようにその広大な園内は、もともと平地だった土地に「池をうがち、山を築いて起伏を持たせ、藤代峠と呼ばれる人工の丘は、紀州(和歌山)にある同名の峠から名付けられたものです。

これらの景勝地を和歌に詠んだ88か所の石柱が建てられましたが、現在はその32か所のみが、残されています。園ガイドからその石柱の和歌の説明を受け、その情景を思い描くように詩の解釈を聞いて、趣の違った「庭園巡り」となりました。また、庭園の枝折り戸の入り口に植えられたモッコクの葉が本来4枚であるところ、明治時代に三菱の創業である岩崎財閥の紋にちなみ、植木職人の手で、3枚にされていることも驚きのひとつでした。

モミジの紅葉には、少し早いようでしたが、ハゼの木は、真っ赤に彩られて見事でした。もう少し時間をかけてゆっくり巡りたかったのですが、次のセミナーの関係で、後ろ髪を引かれる思いで、東洋文庫へ移動しました。

 

第二部 東洋文庫ミュージアムと田仲一成先生のセミナー
秋の六義園を堪能したあとは、会場を東洋文庫に移して、東洋文庫ミューミアムを見学し、田仲先生のセミナー受講いたしました。

東洋文庫は、今から100年ほど前に、三菱第三代当主の岩崎久彌氏が設立した、東洋学分野の日本最古、最大の研究図書館であり、その蔵書は国宝が5点、重要文化財が7点を含めて、約100万書に及んでおります。ミュージアムでは、その基盤となっている「モリソン文庫」をはじめとする書物が展示され、照明等も工夫されており、見上げるまでの高さに並べられたライブラリーの空間は、本当に息をのむほどの美しさで、参加者の皆様は感銘を受けられたご様子でした。

その後、セミナー室に移り、東洋文庫の研究員で、元図書部長であり、日本学士院会員、東京大学名誉教授でおられる田仲一成先生に、東洋文庫のご説明と、その歴史的意義と重要性、オランダゆかりの蘭学関連の蔵書などのご説明をいただきました。日曜日にもかかわらず、図書館員の方にも2名ご足労いただき、シーボルトの日本植物誌や日本動物誌、また、大地図帖に描かれたオランダなど、貴重なページを、眺めさせていただきました。

 

第三部 懇親会
セミナーの後は、夕闇の中を、ライトアップされた知恵の小径の回廊を通って、東洋文庫ミュージアムに併設されたオリエントカフェでの懇親会。

オリエントカフェは、岩崎家と三菱ゆかりの小岩井農場が経営されており、カフェの前面に広がる庭園はシーボルトガーデンとして、シーボルトの日本植物誌にみられる木々やお花を楽しむことができます。田仲先生にもご参加いただき、オードブルを食しながら、杯を傾け、参加者の皆さん全員が自己紹介をして、親交を深める場となりました。
名残を惜しみながら、17時半を回ったあたりで、秋のFAN文化イベントはお開きとなりました。

 

第四部 二次会
懇親会ではオードブルとワンドリンクという上品なメニューでしたので、これでは物足りないと幹事が忖度、近くの居酒屋でニ次会を行いました。ご都合の良い方20名にご参加いただき、お酒を酌み交わし、更に親しくなったところで名残を惜しみながら再会を期して散会と致しました。

次回のイベントは2020年新年報告・懇親会を予定しています。企画が具体的になりましたら改めてご案内させていただきますので、皆さま奮ってご参加くださいますようお願い申し上げます。

 

 

30 9月

6月30日開催・講演&懇親会

日々、秋が深まるなか、大変遅くなりましたが、初夏に行った講演と懇親会のご報告です。

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暑い夏を前にした6月30日(日曜日)の午後、FANの仲間たちと英気を養おうと懇親会を開催いたしました。会場はいつもの八重洲プロント(日本橋3丁目店)です。

懇親会の前に1時間程、当協会の事務局長、寺町氏による講演「オランダで長崎に出会う」を行いました。

VOC時代、長崎から漆器、陶器、絵画などの美術品がオランダに渡りましたが、それらは現在、美術品や歴史資料として価値が高く評価されています。

講師は2000年代初め、商社マンとしてオランダに駐在していました。そこで古美術商のギャラリー(Roell Fine Art)で時空を超えた美術品を目の当たりにして、不思議な魅力に囚われました。

定年退職後、古美術商としてオランダからこれら美術品の里帰り輸入を行っています。里帰り先は、長崎歴史文化博物館や九州国立博物館です。講演ではこの仕事に携わることになったきっかけや、これまでに取り扱った古美術品約30点について解説いただきました。

 

仕事を始めた頃、日本古地図を風呂敷に包んで飛び込みで神田界隈の古書店を訪問したことなどのエピソードや、博物館の蒐集資料として最終的に里帰りを実現させるには学芸員との信頼関係を築くことに尽きるとのこと。そのために学芸員と一体となって資料の由来や背景などの調査を行うことが必要で、それがこの仕事の醍醐味だそうです。

 

講演会終了に引き続き懇親会です。

先ずは日頃親しくお付き合いさせていただいている佐倉日蘭協会・山岡副会長の乾杯の音頭でビールを飲み干し、食事を取りながら皆様と親しく懇談させていただきました。

お互い話も弾んだところで、初参加の方を皮切りに、皆さまから自己紹介やご挨拶をいただき、貴重なご経験などを聴かせていただきました。

なかでも、今回オランダからご参加いただいた後藤猛氏には、オランダに長く住んで活動されていることから、NHKの依頼でこれまでオランダに関係する色々な番組制作に関わってきたこと、司馬遼太郎がオランダ紀行を書く際に案内役などで活躍されたお話などを聴かせていただきました。皆さまからもっとゆっくりお話を聴きたいという希望も多かったのですが、何しろオランダ在住で超ご多忙の身、本件はこれからのFANのイベントの課題としてご相談させていただきたいと思っています。

(後藤猛氏には2018年4月にFANのオランダの窓に「孤独も不安も無い明るく楽しい高齢者」というタイトルでご寄稿いただいていますのでご覧ください)

予定の3時間はあっという間に過ぎ、今回会場のプロントのご厚意で提供いただいた素敵なムーミン絵柄のお皿の争奪戦を恒例のジャンケン大会で行いました。

ゲットされた幸運の13名の方は嬉しく、その他の方は悔しくと、和気あいあいの雰囲気のなかで集合写真を撮り、散会となりました。

次回のイベントは11月中旬に予定しています。素晴らしい企画を温めていますのでご期待いただき、皆さま奮ってのご参加をお願い申し上げます。

 

講師寺町豊氏について
FAN事務局長。商社でオランダ勤務。定年退職後、桃山・江戸時代に平戸、出島からオラんンダなどヨーロッパに渡った美術品の里帰り輸入に取り組み中。

04 9月

オランダ人作家との交流         

今回は、マーストリヒトをこよなく愛する事務局長の寺町さんから。オランダ人の仕事のパートナーから、一通のメールがやってきます。そこから、推理小説顔負けの大捜索が!
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~謎の失踪を遂げたイタリア画家ロムアルド・ロカテリ―の幻の肖像画を追って~

 

猛暑の昼下がり、オランダから郵便物が届きました。何だろう? ずっしりと重く、本の様です。差出人を見ると、“GIANNI ORSINI ”。 ああ、オルシニさんだ。

昨年、彼の執筆活動に協力し、夢中であることを調べていたのですが、ようやくその本ができ上がったのだ。包みを開けてみると、A3版の立派な画集がでてきました。

 

昨年秋、オランダの友人から一本のメールがきました。

「作家である友人が、イタリアの著名な画家であるROMUALD LOCATELLI(ロカテリー)の伝記を執筆している。それに協力してくれないか。」

その作家がオルシニ氏でした。

オルシニ氏からの依頼はこうでした。

「今、イタリアの画家ロカテリ―について伝記を書いている。ロカテリーは1942年、当時日本占領下のマニラで日本軍司令官だった本間雅晴中将の肖像画(縦2m x 横1m)を描いた。翌1943年、マニラで謎の失踪を遂げた。

肖像画は、ロカテリーの最後の作品であること、そして日本の軍人との交流を物語るものとして、伝記にとって非常に重要な位置づけとなる。

本間中将は、肖像画が描かれて間もなくの1942年8月、日本へ帰国。肖像画を潜水艦で持ち帰ったと言われているが、所在が分からない。
肖像画を探す協力をして欲しい。」

 

私にとっては、ロカテリーも、本間中将も知らないご仁たち。乗り気ではありませんでしたが、大切なオランダの友人からの依頼でもあり、まずはロカテリーと本間中将をネットで検索してみました。

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ロカテリーについて(1905-1943)

イタリアのベルガモで生まれる。イタリアの画壇で成功を収めるも税務問題などで精神的に疲弊し、1939年1月、オランダの友人の手を借りて、オランダ領インドのバタビアへ居を移す。

インドネシアの緑と太陽(青い空)に癒され、積極的な制作活動を再開する。

1940年5月、バタビアを離れ上海、東京を訪問後、マニラに移す。

マニラで大統領や米国政府高官との交流を深め、大統領家族の肖像などを描く。アメリカに渡る予定だったが、太平洋戦争が勃発、日本がマニラを占領したことから機会を逸し、マニラに滞在。

1943年、マニラ郊外の森にバードハンテイングに出かけ、そのまま行方不明となる。

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本間中将について(1887-1946)

佐渡出身。若い頃、英国で駐在武官を務める。英語が堪能。詩をたしなみ、長身で端正な風貌も手伝い、欧米軍人の間で人気があり、尊敬されていた。太平洋戦争開戦時に、マニラ司令官としてマッカーサーをフィリピンから撃退したことから、敗戦後マッカーサーの恨みを買い(と言われている)、直接には責任の無かった「バターン死の行進」の罪で、戦犯としてマニラの法廷で死刑を宣告され、執行された。その時、中将を信頼して想う妻の法廷での証言は、裁判官、検事の涙を誘ったと言われている。

処刑は、彼の名誉を重んじ、絞首刑ではなく銃殺刑で行われた。


これを読んで俄然興味が湧き、依頼を引き受けることにしました。
調査開始です。

 

>>まず佐渡役場・新聞社佐渡支局へアプローチ
まずは本間中将の出身、佐渡役場・新聞社佐渡支局へのアプローチから始めました。手紙を書き、頃合いをみて電話で問い合わせです。興味を抱いていただき、郷土史家にも問い合わせいただくも、佐渡には本間中将の親類縁者もおらず、本件に関する情報はありませんでした。

>>次に東京の大新聞へアプローチ
この結果をオルシニ氏に報告したところ、彼から、ロカテリー夫妻がバタビアからマニラに居を移した1940年の6月~7月にかけて2週間東京に滞在し、著名画家の来日ということで新聞社のインタビューを受けたらしいとの情報を得ました。早速この記事の検索を朝日、読売、毎日新聞各社へ問い合わせするも、成果なし。

ちなみにこの時の各新聞社の担当者の対応はまちまちで、結果は同じでも、通り一遍の対応や、親身の対応だったりで、これにより社風などがよく分かりました。

>>そして靖国神社へアプローチ
こうして調査が手詰まりになった時に、ひらめきました。
「そうだ! 本間中将は戦犯だが英霊として靖国神社に祀られているはず。そこで情報が得られるかもしれない」

早速、神社に手紙を書きました。おっつけ電話を入れると、神社・遊就館の学芸員の方が手紙をすでに読まれていて、前向きなお返事をいただきました。

早速訪問。

靖国神社の訪問は約25年ぶりで、ずいぶん立派に様変わりしていました。学芸員に詳しく館内を案内いただき、本間中将の遺影を拝見させていただきました。オルシニ氏に届けたいと撮影の許可をお願いしましたが、規則で遺族の了承を得る必要があるとのことで、神社から遺族と相談してみるとのことでした。

 

靖国神社からの連絡
それから一週間くらいたった頃でしょうか、神社からメールが届きました。メールには関東在住の本間中将の孫の方からのレターが添付されていました。私からオルシニシ氏に転送できるよう配慮していただいたのか、英文でした。


要約するとこのようなことが書かれています。
・母は本間雅晴の娘で、自分はその孫に当たり、祖先の歴史資料を管理している。
・肖像画が描かれた経緯と背景説明。
・肖像画は今や存在しないが、本間中将のマニラの居宅の広間の壁に懸けられていた肖像画とロカテリーが一緒に写っている写真がある。それを同封する。


末尾に、自分は年末(2018年12月頃)にヨーロッパを訪問する予定につき、必要あればオランダでオルシニ氏に会う用意ある、と結ばれていました。

残念ながら、追い求めていた肖像画は見つかりませんでしたが、その存在が確認され、目的は達せられました。最後に面会スケジュールをすり合わせ、後日二人が無事アムステルダムで面会したとの連絡を受けて、私の役割は終わりました。

年が明け、オルシニ氏からは本が出来たら送る。本には協力者として私の名前を載せるから、と連絡をもらいましたが、オランダ人の約束は案外あてにならないこともあり(m_ _m 失礼)、それから8ケ月、本が届くまで、この出来事をすっかり忘れていました。

約束通り届いた本には、約束通り私の名前が協力者として記載されていました。

 

謎の失踪の真実解明
ただ、もう一つの主題であったロカテリーの謎の失踪の原因については、オルテニ氏はロカテリーの妻の証言や様々なアーカイブを調べ上げたそうですが、最終的に解明できなかったようです。

当時、日独伊軍事同盟のイタリア人ということで、バードハンテイングで入った森で抗日ゲリラに殺害された説、戦争下情緒不安による自殺説、日本占領前、フィリピン大統領やアメリカの高官と親しかったため、日本軍からアメリカのスパイと見做され殺害されたという説などがあるそうで、オルシニ氏は個人的見解として、最後の説が有力と考えています。

 

GIANNI ORSINI ギアンニ・オルシニ
1970年アムステルダム生まれ。曽祖父はイタリア人だが、オランダ領バタビアで彫刻業を営んでおり、祖父もそこで生まれた。こうした家系背景からオルシニ氏はオランダ領東インドの古美術品蒐集家となるが、2005年からバタビアなどオランダ領東インドに在住のヨーロッパ人芸術家の伝記作家として活動を始める。オークション業界にも精通しており、19世紀中頃のオランダ領東インドの古美術品鑑定者、評価者としても知られている。

25 2月

2019年 FAN新年会

新年が明け少々遅くなりましたが、2月10日13:00より八重洲のプロントで「2019年新年報告・交流会」を開催いたしました。

 

インフルエンザの大流行や、雪の予想もあり、果たして・・と当日までやきもきしましたが、お昼前にはピカピカの好天となり、お陰様で申込者全員にご参加いただけ無事開催することができました。

先ずは村岡会長からFANから新年のご挨拶。事務局より会計・監査報告、昨年の活動報告に引き続き、今や新年の恒例となりお馴染みの「花伝亭長太楼」師匠に落語をご披露いただきました。

ご存知の通り、長太楼師匠は世界を股にかけて活躍された元商社マン。定年退職を機に落語学校で趣味の落語に磨きをかけられ、今や各方面で引っ張りだこの落語家です。

昨年の演題は「宿屋の富」で「初笑い」でしたが、今年は夫婦の人情噺の「芝浜」。筋書きは皆さんご承知の通りですが、噺が進むにつれ引き込まれ夫婦の愛情にしみじみ、今年は「初泣き」となりました。

ただ、落語が始まったところで、師匠の頭上のスポットライトがアサッテの方を向いているのに気づき、師匠の傍で椅子に上り調整しようとしたところ、いくらやってもうまくいかず、そうこうしているうちにライトが壊れ、師匠の頭の上でぶら下がってしまうというハプニング。

この間ガタガタお騒がせし、師匠は勿論皆様には大変ご迷惑をかけしてしまいました。しかし、さすがは世界を股に修羅場をくぐられてきた元商社マンの師匠、少しも動ぜず「芝浜」を演じきっていただきました。人情噺でしんみり、お腹もすいたところで白石副会長に進行で「交流会」に移りました。

先ずは、乾杯の音頭をFANの元世話人で現在その経験を活かし江戸川区で異文化交流に精力的に取り組まれている中西様にお願いし、ひとしきりお腹を満たしたところで初参加の方から自己紹介をいただきました。

今回の初参加は3名で皆様女性です。オランダの演奏スタイルが大好きで、オランダ移住を夢見るプロのビオラ奏者。小学校を楽しくオランダで過ごしたことからオランダをこよなく愛し、子供さんたちもオランダが大好きな方。チューリップの熱烈な愛好家でそこからエネルギッシュにオランダとの縁が始まり、今やオランダ語の講師。お話を聴いている私たちもエネルギーをいただきました。

引き続き、ビール、カクテル、ワインなどで大いにくつろいだところで参加者全員にも一言お願いし、皆様からオランダへの関わりなどをや興味深くお聴きすることができました。

こうしているうちも予定の3時間もあっという間に過ぎましたので、最後にプレゼントタイム。そこで恒例のジャンケン大会を開催しましたが、今年は素敵なプレゼントということに加え1点ということで参加者全員昨年にも増して気合を入れての争奪戦となり、大いに盛り上がりました。

ただここで盛り上がりすぎたこともあり、ぬかったことに世話人一同恒例のグループ写真を取るのをコロリと忘れてしまいました。

また、食事会ではお昼過ぎの開催ということでお腹も減っていたこともあり、参加者の皆さま、嬉しいことにオランダ風に少しも残さずペロリと食べて頂きましたが、着席スタイルでの食事でしたので、料理の大皿がテーブルの端の方に回ってくる時には空っぽになり、端の方には食べるものが無くなってしまうなど申し訳ないことになってしまいました。次回はこの反省に立ち、食事でも参加者相互の交流でも、自由に動きやすいような立食スタイルで検討したいと思っています。

 

落語での天井ランプ事件、グループ写真撮り忘れ事件、大皿空っぽ事件、この他にもいろいろ不都合や至らぬことがあったと存じますが、散会時、皆さまから「とても楽しかった。また参加したい」との温かいお言葉に意を強くし、これからもめげずにお誘いさせていただきます。今年もFANをよろしくお願い申し上げます。

07 1月

私のオランダ:小さな国・大きな世界

2019年の運営スタッフブログは、FANの台所をしっかり見守っている田中成幸さんです。30年にわたるオランダ巡礼の旅のきっかけとは?
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オランダ人との初めての出会い

外国に興味・関心を持つ機会は、殆どの場合、「偶然」によることが多いと思います。

ビートルズが好きな人は、英国に。サッカーが好きな人は、ブラジル・ドイツに。ワインが好きな人は、フランスに。チョコレートが好きな人は、ベルギーに興味・関心を持つように。

私の場合も、その「偶然」により、オランダに興味・関心を持つようになりました。

私が22歳(1979年)の時、地下鉄東銀座駅で初めてオランダ人と「接点」を持つことになりました。同じ車両に乗り合わせていました年齢60代オランダ人観光客(女性2名・男性1名)の1人の女性から、改札を出た時、英語で「銀座に本屋さんはありますか?私の息子は、演劇の先生をしており、日本の能の本を頼まれました。」と尋ねられました。

当時の私の初級英会話レベルでもよく分かる英語でしたので、「ありますよ。ところで、どちらのお国から来られたのですか?」と聞き返しました。

「私たちは、オランダから来ました。群馬県新町で開催されます30キロ歩行大会に参加します。あなたは、歩くのが好きですか?」。

当時の私のオランダに対するイメージは、「低地・1964年東京オリンピック柔道無差別級金メダリストフェイシング・コーヒーメーカーPHILIPS」であり、日本の健康志向ブームも低かったためか、「30キロもただ歩く、暇な人たちもいる者だ。」と内心思いました。

自分の英会話の勉強にと思い、銀座周辺を二時間ほど案内しました。

初めにリクエストのあった「能」の本を購入するため、洋書店「銀座イエナ」(平成14年1月17日閉店)を案内。次に、皇居周辺を案内しました。彼女ら全員60代のオランダ人は、第二次世界大戦を実際に経験しており、旧植民地インドネシアにおけるオランダ対日本の軍事衝突の歴史も認識していました。皇居周辺を案内しながら、「昭和天皇」について少しばかり説明しましたが、私の説明にはあまり関心が無いように思いました。戦前の両国間関係の「負の部分」が、彼女らオランダ人一般市民の心の中にも残っていたのかもしれません。

10月末で夕方の寒さもあり、「喫茶店に入り、少しお話しをしましょう。」と私が提案しました。

コーヒーとチーズ・サンドイッチを食べながら、彼女らのオランダでの生活を色々と話してくれました。女性二人は、ナイメーヘンとゴーダ出身。男性は、アムステルダム出身。全員、定年しており、皆一人暮らし。ナイメーヘン市は、「歩け歩け大会」の世界的メッカであり、毎年、日本からも参加者いると教えてくれました。

ナイメーヘン出身の女性に「あなたに手紙を書いていいですか?よろしければ、ご自宅の住所を教えて下さい。」とお願いすると、「ええ、喜んで。」とメモ用紙に書いてくれました。

この後、宿泊していた都内のホテルまで三人を送りました。

別れ際、ナイメーヘン出身の女性から「ロビーで少し待っていてください。あなたにお土産があります。」と言われ、彼女はホテルの部屋に戻りデルフト焼きのプレートを持ってきました。「本日は、ありがとう。これは、オランダの焼き物です。記念にどうぞ。」と言ってプレゼントしてくれました。オランダの焼き物が日本の焼き物から影響を受けているとは知らず、デルフト・ブルーのオランダ風車だけが何か少しばかり私の心に残りました。

 

ナイメーヘンからの便り
銀座案内から一カ月が経ち、ナイメーヘンから一通の手紙が届きました。私の方も彼女に焼き物のお礼と思い、手紙の下書きを英和辞書と和英辞典と格闘しながら準備を進めいたのですが、自分の清書が間に合いませんでした。

手書き英文3枚の手紙で、歩け歩け大会参加、広島原爆ドーム、奈良の鹿、箱根芦ノ湖遊覧船等の印象が書かれておりました。

海外文通を経験された方ならご理解されると思いますが、手書き英文は何かと読みづらい。英単語の意味を理解する前に文字判読に時間がかかってしまいます。しかし、彼女の筆跡は、私のような英語学習初心者にもそれほど苦労せず読むことが出来ました。彼女の手紙の最後にローマ字でこんな風に書かれておりました。

「ORANDAWA、SAMUIDESU.WATASHINI TEGAMIOKAITEKUDASAI.」

当時私は、オランダより北欧のスウェーデンに強い関心(自動車VOLVO・音楽ABBA・スウェーデン社会政策・スウェーデン語等)があり、スウェーデンの女性看護師とも海外文通(英語)のやり取りをしておりました。彼女の私生活・スウェーデン人一般の日常生活に関する情報を彼女からの手紙で得ておりました。彼女と5回程海外文通した後、次回の手紙に私の写真を同封して下さいと依頼がありました。私は、彼女とより親密になれると思い、自分の写真を同封して手紙を送りました。しかし、それからは、彼女から手紙は不通になってしまいました。イケメン俳優の写真一枚でも送っておけば、今頃は私もスウェーデン語とスウェーデン社会の専門家になっていたかもしれません。憧れのスウェーデンは、片思いで終わりました。

しかし、オランダ女性は、私にチャンスを与えてくれました。お互いすでに面識があり、お互いのパーソナリティも理解しておりました。彼女からは、2ケ月度に手紙が届き、私も不慣れな英語で返信しました。1年半程文通を続けているうちに、ヨーロッパに旅行する機会があれば、是非、オランダにも来て、彼女の自宅にホームスティして下さいというお誘いを受けました。

 

初めての海外旅行でオランダの地を踏む
私が24歳になる時(1981年3月)、初めての海外旅行を経験しました。行き先は、オランダ・ドイツ・スイス・フランス。3週間の一人旅です。旅の一番の目的は、ドイツビール・スイスマッターホルン・パリシャンゼリゼではなく、彼女との再会です。

1980年代初頭は、まだシベリヤ上空をフライトする航空便が運行されておらず、ヨーロッパへは南周り便(東南アジア・中近東経由)又は北極便(アラスカ・アンカレッジ経由)を利用するのが一般的でした。成田空港夜9時30分発KLMオランダ航空アムステルダム行に搭乗しました。アラスカ・アンカレッジまでのフライト時間は、8時間。給油・乗務員交代のため、アンカレッジ空港ロビーで1時間待機。アンカレッジ空港から目的地アムステルダム・スキポール空港まで北極上空を通過して8時間。スキポール空港は、朝6時30分着。所要時間、17時間のフライトでした。

天気も薄暗く、早朝のためか空港内がとても静かな印象でした。彼女のいるナイメーヘン市に行くには、空港からアムステルダ中央駅まで電車で行き、中央駅でナイメーヘン行に乗り換えなければなりません。この初めて乗る電車こそ、とても「オランダ的」でした。

車体の色が、「黄色」であり、先頭車が「Dog’s nose=犬の鼻」の愛称で呼ばれる程、日本の電車には無い、ユーモラスなデザインです。

アムステダム中央駅からナイメーヘン駅までの所要時間は、約1時間40分。車窓から初めて見るオランダの風景は、自然豊かな平坦の土地です。運河があり、数多くの羊、乳牛が車窓に映ります。

ナイメーヘン駅到着後、彼女の自宅へ電話をしました。駅で待つこと、30分。

シトロエン2CV(フランスの大衆車。愛称は、“醜いアヒル”)を運転して迎えに来てくれました。本人と直接再開出来た喜びは、大きなものです。(銀座で出会い、俺は、今オランダにいる!!実感できないと言った感じです。)

彼女の自宅には3週間のヨーロッパ旅行中、最初と最後の各5日間ホーム・ステイさせて頂きました。

日中は、ナイメーヘン地区を彼女のシトロエンでドライブ案内してもらい、夜は、彼女の美味しいオランダ家庭料理です。又、彼女の友人宅へも案内してもらい、オランダ人の「日常生活」を見聞する機会も持てました。

 

30年続いたオランダ巡礼の始まり
私の人間性・品行が良かったのは分かりませんが、帰国時に彼女は、わざわざアムステダム・スキポール空港まで送ってくれました。空港で別れる時に、「来年も是非来てください。」と彼女から言われました。

この「是非」と言う言葉が、私のオランダ巡礼の始まりです。

翌年もオランダ・ドイツ(ブレーメン市)の2週間の旅行をしました。2回目は、彼女の地域の人的ネット・ワークのお蔭でより多くのオランダ人と接する機会を持つことが出来ました。地元大学の先生とその家族、スリナム人家族(旧オランダ植民地)、オランダ人家庭主婦等です。

2回目以降、オランダに計15回も渡航し30年間もオランダと接することになりました。

30年間も一国の「追っかけ」をしておりますと、いろいろと社会の変化が見えてきます。

1980年代前半のオランダは、経済情勢も良くなく、乗用車も高級車(BENZ・BMW)を見ることが少なく、フランスのCITROEN・PEUGEOT大衆車が大半を占めておりました。

もちろん、乗用車のメンテナンスも悪く、日本のように傷一つ無くピカピカに磨かれている状態ではありませんでした。当時、私が知り合ったオランダ人の多くも、オランダ及び西ヨーロッパ全体の未来に対して悲観的でありました。1980年代後半から1990年前半では、オランダ人の口から出た言葉は、「日本の経済力は凄い。オランダのTV経済ニュースでもTOKYO STOCK MARKET株価暴騰を連日特集している。」でした。

1989年・1990年、日本は最高潮でした。「横浜では一戸建ての価格が、8千万円以上します。」と話したら、あるオランダ人から「それは、プール付きの豪邸かい?」から真顔で質問を受けました。

1990年前半の日本経済のバブル崩壊から2000年前後に、オランダと日本の社会情勢が逆転したように思われます。知人の若手オランダ人科学者(2000年当時、32歳)が「アムステルダムで家族4人で住めるような手頃なマンションを探しているけど、価格が高騰して7千万円以上するんだ。無理だよ。不動産バブルだよ。」とため息をもらしていました。

2010年頃になりますと、日本よりオランダ社会の方がより活力があると感じるようになりました。それは、オランダの街中で見かけた若い女子のファッションがよりお洒落になっておりました。経済の専門家でもない私にも、地域の生活の変化を見れば経済の活力を判断出来ます。ナイメーヘン大学で教鞭をとっている同じオランダ人科学者に「可愛いオランダ人が増えたように思うが、大学ではどうですか。」と質問したところ、「10年前に比べお洒落な女子学生が多くなった。ファッションにもお金をたくさん使うようになった。」との返事でした。

私の前回のオランダ訪問は、2015年2月です。まず一番に驚いたことは、ナイメーヘン駅前で乗ったタクシー運転手の国籍でした。オランダ人ではなく、アフガニスタン人でした。アフガニスタンの内戦で生活が出来なくなり、家族でオランダに来たとのことです。アフガニスタンでは、内科医をしていたとのことです。(本当かな?)自動車ナビのお蔭でタクシー運転手の仕事が出来るとのことです。他のタクシーを利用した時も、運転手はオラダン人ではありませんでした。30年前のタクシー運転手は、全員オランダ人であったと思います。タクシー運転手の賃金が低いためなのか、人で不足のためなのか、判断は出来ませんが、「労働の国際化」です。

二番目驚いたことは、「キャシュレス」生活です。

普段の日常生活では、100EURO以上の現金を持たず、キャッシュカードで殆どの金銭処理を行うことです(金銭防犯もその目的一つです。)

30年間も一つの国を追っかけておりますと、その国の社会の変化及び自国日本社会変化も見えて来ると思います。TVや本からの情報も有益ですが、やはり、その国の人と接点を持ち「肌」で感じた方が自分の知識をより有機的にすると思います。

 

私のオランダ:小さな国・大きな世界
私のオランダ人の出会いそしてオランダへの旅について書いてきましたが、私のオランダに対する理解は、浅く表面的なものに過ぎないと実感しております。

その理由は、二つあります。一つは、私はオランダ人の国語であるオランダ語を全く勉強していないことです。オランダ人は、一般に英語に非常に堪能であり、私自身も英語で彼らとコミニュニケーションしてきました。しかし、その国の言語で相手と対話しなければ、その国民性又は文化の本質は、絶対理解出来ないと言うのが私の持論です。何故ならば、言語の中にその社会の特質が含まれていると考えているからです。

もう一つは、宗教です。

オランダを含めヨーロッパ社会の下地になっている「キリスト教」を理解せずして、ヨーロッパ社会を正しく知ることは困難であると考えるからです。私もドイツの社会学者マックス・ヴェーバーに関する書籍を通して、「プロテスタンティズム」を少し勉強してオランダ人の勤勉性・公共性の本質に興味を持ちましたが、私の理解は「本」から得た「知識」のレベルにしか過ぎません。

逆説的に言えば、「社会と言語」・「社会と宗教」の重要性を私に教えてくれたのも30年お付き合いしたオランダからもしれません。

オランダの人口、1,700万人。首都圏3,650万人(東京都1,375万人+神奈川県918万+埼玉県732万人+千葉県625万人)の総人口の約半分です。首都圏の半分の人口から世界トップ企業(航空KLM・電気PHILIPS・石油SHELL・化学AKZO等)が誕生し、又世界トップ100大学の中でデルフト工科大学を初め、オランダの大学が7校ランクインしているのも特筆すべきことです。(日本は、2校のみランクイン。)

作家・司馬遼太郎は、かつてこんな事を言ったと記憶しております、「江戸時代の日本の家庭教師であったオランダが、明治時代に英・独・仏各国の家庭教師の陰に隠れなければ、日本の近代・現代社会の様相はもっと違っていた。」と。

スポーツ・音楽・建築・園芸・美術等、様々な分野でオランダはその存在力を世界に示しております。国家としては、大変小さい国土ですが、非常に「重みのある」国家です。

現在、日本社会は、「少子高齢社会」へと移行しようとしおります。江戸時代の家庭教師であったオランダから今一度社会福祉政策・国家運営等を学ぶ時期に日本は来ているのかもしれません。

それにより、世界から注目される「日本版少子高齢安定社会」を誕生させるチャンスになるかもしれません。

最後に、私のお宝写真を披露して、このエッセイを締めくくります。当時の私の趣味のひとつに「海外短波放送聴取」がありました。その趣味を通して、オランダの人たちと温かい交流を育むこともできました。

第1回オランダ・ペンパル訪問時、趣味の国際短波放送局を訪問-1981年2月
オランダ国際短波放送局全世界英語圏・スペイン語圏向発行公式クリスマスカード—1981年12月
第2回オランダ・ペンパル訪問時、オランダ国際放送短波局を再訪