22 9月

『オランダ事情』講演会&懇親会

とんでもない猛暑、そして台風や地震という災害が記憶に残る夏となってしまいました。皆さまいかがお過ごしでしょうか。

 

9月2日(日)プロント日本橋3丁目店にて、『オランダ事情』講演会&懇親会を28名の方々のご参加を得て行いました。前夜よりの雨が心配されたものの午後には上がり、まさに講演会日和。ここしばらくのイベントレポートを見返してもお天気に恵まれること非常に多く、FAN会員の晴れ男&晴れ女力を実感します。

この日の講師は、前オランダ経済省企業誘致局駐日代表部(オランダ王国大使館)シニアプロジェクトマネジャーで、FAN会員でもある皆越尚子氏。1981年から36年間一貫して日本企業のオランダ進出に携わられ、昨年退官されたばかりです。ナマの現場に精通する皆越さんの引き出しからは、紀元前のオランダの生い立ちから始まり、社会・政治・経済・産業の特徴、王室について、そして最新テーマとして持続可能エネルギー・農産物輸出世界第2位の農業・BREXIT・働き方・アムステルダムゲイプライド(に代表される性的/人種的)マイノリティーの許容・教育の多様性・個人の尊厳を全うする安楽死事情、そしてもちろん歴史的な日本とのつながりから現代の連携と、お話が溢れ出し、会場はオランダ情報で満ち満ちていました。1時間という時間制限が口惜しいほどで、各々独立したテーマとしてより深いお話を伺いたいと思うばかりでした。

 

皆越さんの講演の中で印象に残ったオランダ人の特徴をいくつか書いてみましょう。

  • 公平、平等、フランク、自由。水害など共通の敵に対してはまとまるが、平和な時には自由主義。
  • 右に倣えはしない。たとえ同じ意見でも、違う切り口、違う言い方で自分の意見を述べる。
  • 個を大切にする。人と社会に迷惑さえかけなければ何でもあり。
  • 何でもありだが、常識と秩序がある。

「ヌーディストビーチに入るのであれば、自分もヌードにならなければ」。
これは、懇親会中に参加者からヌーディストビーチが話題になった際の話です。インパクトのある一例ですが、なんでもありに見えるオランダ人が自由と公平と秩序を大切にしていることを表しているでしょう。

皆越さんの講演でオランダ一色に染まった会場。懇親会に入っても、「オランダあるある話」で各テーブル和気あいあいと盛り上りました。懇親会のMC、白石副会長から参加者ひとりひとりをご紹介し、「なにか一言」とマイクを向けさせて頂くと、最初はご遠慮されていても、「オランダ」という共通ワードがある安心感からか、皆さん次々と関わられている活動や、オランダでの経験を話して下さり、参加者同士の距離も縮まりました。予定の3時間はあっという間に過ぎ、お名残惜しい中散会です。また是非次回のイベントでお会いしましょう!

 

ようやく秋の気配が訪れ、これからはあっという間に年末を迎えご多忙とは存じますが、FANとしてはこれからも皆様とご一緒できる機会を作っていきたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

22 7月

「夢の島熱帯植物園・第五福竜丸展示館」見学&夢の島マリーナ・クラブハウス懇親会

毎日うだる暑さが続きますが、お元気でお過ごしでしょうか。

さて、ご報告が遅くなりましたが、FAN恒例のフィールドイベントを6 月 17 日(日曜日)に行いました。

今回は「夢の島熱帯植物館」「第五福竜丸展示館」の見学会と、夢の島マリーナクラブハウスでの懇親会です。

夢の島熱帯植物館大温室は、熱帯雨林を環境モデルとして造られています。館内にインドネシア、南アフリカ、カリブ海地域原産の植物も展示。これらの地域は歴史的にオランダとの関係も深く、オランダの植物園でも多く展示されています。

第五福竜丸 夢の島に隣接する「第五福竜丸展示館」は、昭和 29年3月1日に太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカが行なった水爆実験によって、航行中の第五福竜丸は「死の灰」の放射能の被害を受けました。当館はこの 7 月から 1 年の改装工事に入る予定なので、この機会に忘れてしまいがちな悲惨な歴史に思いを寄せたいと考えました。

懇親会@夢の島マリーナ・クラブハウス 見学会終了後は昼食懇親会を行います。会場は夢の島マリーナ・クラブハウス。ヨット関係者のメンバーズクラブで、今回FANメンバーからの紹介で、ヨットハーバーを眼下に望むオーナーズルームを特別に利用させていただけます。因みに、ヨットという名称が歴史に初めて登場するのは、14 世紀のオランダとされており、ヨットyacht の原語はオランダ語のjacht です。日照時間が日に日に長くなっているオランダでは、 休日、あるいは仕事を終えた後、運河を優雅にクルーズする人々の姿をよく見かけます。オランダライフに思いをはせながら、さわやかな初夏の午後を過ごそうというのが主旨です。

 

さて、おかげさまで当日は梅雨の最中にもかかわらず、雨も降らず、暑くもなくフイールドイベントには絶好のお天気に恵まれました。

待ち合わせの新木場駅改札口には全員定刻にお集まりいただき、第五福竜丸会館→熱帯植物園→マリーナレストランでのランチ→オーナーズ・クラブハウスでの懇親会と予定のスケジュールを無事に楽しむことが出来ました。

ただ一つ想定外として、レストランが好天の日曜日に恵まれたため、沢山のヨットマンと家族で大盛況。そのため予定のランチのパエリヤが売り切れ、やむなく全員ペペロンチーノパスタにせざるを得ませんでした。

懇親会では、梅雨の晴れ間、クラブハウスのデッキで海風に吹かれながら新会員を迎えながら大いに飲み、語り合いました。25名の参加者には少々多すぎるかなと思いながらワイン6本、ハイネケンビール24本、お茶や氷やおつまみなどをフウフウ言いながら担いで持ち込みましたが、皆様の胃袋に納めていただき、なんと帰りは手ぶら。

懇親会の後は三々五々の解散となりましたが、希望者で今回お世話になったオーナーにご挨拶を兼ね、係留中のヨットを訪問。皆様と良い一日を過ごさせていただくことができました。

 

そうそう、最後に。オランダからは外れますが、熱帯植物園で説明員のボランテイアの方から「お釈迦様の木」に因む3本の木について、有難いご説明を聴かせていただきました。

無憂樹…お釈迦様の母親がこの花に手を差し伸べた時、安らかお釈迦様が誕生しました
インド菩提樹…この木の下でお釈迦様が悟りを開いたとされます
沙羅双樹…『平家物語』で知られますが、お釈迦様入滅の木です。

詳しい説明と実物にご興味のある方は、ぜひ熱帯植物園に足を運ばれてください。

今回、懇親会場のスペース上、参加者を25名以内に制限させていただいたため一部参加ご希望の方をお断りせざるを得ず大変ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。

FANではこれからも魅力的なイベントを企画しご案内をさせていただきますので、皆さまには奮ってご参加くださいますようお願いいたします。

 

10 2月

2018年FAN新年会

2018年が始まったかと思いきや、もうすでに2月です。寒い日が続きますが、4日の立春も終わり、後は春を待つばかり。

ご報告が遅くなりましたが、1月21日14時より「FAN新年報告会&懇親会」を開催いたしました。
なんと、翌22日、東京は4年ぶりの大雪で街中大混乱のあり様でしたが、幸いに当日は暖かく絶好のお日和。

一日遅れだと本会は100%開催できず「今年のFANは春から縁起がいいわい」とつくづく感じた次第です。

先ずは、村岡会長から新年のご挨拶、2017年度会計・監査報告、昨年度活動報告に引き続き、新年初笑いということで落語を一席ご披露させていただきました。

演じるのはオランダつながりで日ごろ親しくお付き合いをいただいている、江戸連からご紹介の「長太楼」師匠(本名:大滝長孝さま)です。

師匠はもと世界を股にかけて活躍されたビジネスマン。定年退職を機に落語学校で趣味の落語に磨きをかけられ、今年で10年になる脂ののった落語家です。

演題は「宿屋の富」というお馴染みの古典落語。但し、今回FANの会ということで、師匠には何かオランダにちなんだお噺もお願いできないかとご相談させていただいたところ、前段に、レンプラントやゴッホなどを軽妙に取り入れたオランダの美術館での小噺を入れていただき本題へ。一同「流石!」と大笑いしながら堪能させていただきました。

初笑いでお腹が減ったところで食事会。まずは佐倉日蘭協会副会長の山岡さまに乾杯の音頭をお願いし、お腹も落ち着いたところで、初参加の方に自己紹介をお願いしました。ここでは素晴らしいハーモニカの演奏をご披露いただいたり、1980年代オランダに光学機器メーカーの駐在員として勤務されたご夫妻からは、フェルメールの絵に描かれた顕微鏡から、顕微鏡がオランダで発明されたことが窺えるなど興味深いエピソードを聞かせていただきました。改めてFANでの素晴らしい仲間との出会いを感じた次第です。

ビール、ワイン、カクテル、ウイスキーなどなどで会も佳境に入ったところで、思いがけず参加者から素敵なプレゼントのご提供。早速、FAN恒例のジャンケン大会を開催、参加者全員気合を入れての争奪戦となり大いに盛り上がりました。こうして、あっと言う間に予定の5時となり、次回再会を期し散会となりました。

ところで、ご覧の当日の集合写真ですが、師匠を囲んだ前方に世話人たちの大きな顔が並び、お招きした参加者の方が後ろに小さく写るという大変失礼なことになっています。これは世話人が皆さまを先に誘導させていただき、その後世話人が並んだためで決してシャシャリ出た分けではありませんので、くれぐれも……。

最後になりましたが、今回ご参加いただきました皆さま、落語で難しい注文をお願いした長太楼師匠、乾杯の音頭を取っていただいた山岡さま、そして休日にも関わらず、貸し切りや時間延長などいろいろな無理を快く引き受けていただきました会場の「プロント日本橋3丁目店」の店長さんに心から御礼申し上げます。

 

おまけ。翌日の模様です。

05 11月

ピルゼン(チェコ)の思い出

今回は、チェコに5年間暮らした中西さんの生活感溢れるチェコエッセイです。

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こんにちは、世話人の中西です。今日お話するのは、私が2001年初から5年間暮らしたチェコ共和国ピルゼンの思い出です。事務局長の寺町さんがオランダで活躍されていた同じ頃です。なぜオランダではなくてチェコなのかについては、このサイト内の運営メンバー紹介欄をご覧下さい。
まずはチェコの概要から。チェコは北海道位の広さで人口は1千万人。ドイツ、ポーランド、スロヴァキア、オーストリアの4カ国に囲まれています。

チェコの東部地域をモラヴィア、首都プラハを含む西部地域をボヘミアといい、ボヘミアは石炭・鉄鉱石などの資源に富み、16世紀から400年間当地を支配したハプスブルク帝国の工業生産の2/3を担っていました。西ボヘミアの中心都市が人口18万人のピルゼン(Pilsen、ドイツ語)、チェコ語でプルゼニュ(Plzeň)です。19世紀半ばピルゼンにシュコダ重工業という会社が生まれ、鉄道車両・船舶・蒸気タービン・自動車製造の巨大企業へと発展しました。私がピルゼンの地元企業を訪問した折、このシュコダと日本の縁についての逸話を聞きました。

  • 日露戦争日本海海戦の旗艦「三笠」はイギリスのヴィッカース社製だがその竜骨(キール)はシュコダが製作した。
  • 元経団連会長の土光敏夫氏はタービン技術者だった若い頃、当時先進技術水準のシュコダでタービンの研修をした。

余談をもう一つ。米国の通貨名「ダラー」は、16世紀から数百年の間ヨーロッパ中で使われたボヘミア銀貨「ターラー」に由来しています。

 

1989年、「ビロード革命」によりチェコスロヴァキアの社会主義体制が崩壊。1993年、チェコとスロヴァキアに分裂。2004年、両国同時にEU加盟。こうした中、90年代後半から日本企業によるチェコへの工場進出が活発化し、今日、在チェコ日本企業の数は250余社で、トヨタ、パナソニック、ダイキンはじめ日本を代表する企業が現地生産をしています。日本から欧州への投資では、チェコはイギリス、ドイツ、フランスに次いで四番目の投資先であり、チェコ側からみると日本はドイツに次いで二番目の投資国です。

EUの東方拡大の中で、多くの日本企業が中東欧へ進出しています。その中でもチェコの人気が高い理由は、欧州の真中に位置するため欧州市場への製品輸出に適していることに加え、「ものづくり」の伝統から理工系高等教育が盛んであり、エンジニア・工場労働者などの人材が豊富であることが挙げられます。日本企業の中には、「研究開発センター」をチェコに置いている会社もあります。

私の仕事は、従業員250人程のプラスチック成型加工工場を一から立ち上げて(グリーンフィールド投資)、在チェコ日本企業向けに電気電子・自動車部品などを製造する会社として軌道に乗せることで、商社員として「ものの売り買い」中心の仕事をしてきた私にはすべてが初めての経験でした。加えてEU加盟を直前に控えた当時のチェコは、EUの要求に合わせるべく諸法令はじめ国の仕組み全体を大改造中であったため、工場操業の開始認可取得までは試行錯誤の日々でした。

そんな緊張の日々を癒してくれたのがピルスナー(ピルゼンビール)でした。チェコ人は無類のビール好きで、一人当たりの年間ビール消費量は約150リットルで20年連続世界一、日本人の3倍強です。日本人の「とりあえずビール」に対しチェコ人は「トコトン最後までビール」といったところでしょうか。

代表的銘柄の「ピルスナーウルケル」(ドイツ語で「ピルゼンビールの元祖」という意味)が誕生したのは170年前です。良質の原料(ボヘミア産ホップとモラヴィア産大麦)とヨーロッパでは珍しいピルゼンの軟水が透明感のある黄金色、純白で豊かな泡、そして上品なホップの香りと苦みと、三拍子揃ったピルスナーを生み、その頃普及したガラス食器の大量生産と相まって、グラスやジョッキに注いで目と喉の両方で楽しむビールが世界に広がったそうです。今日我国で製造販売されているビールの殆どがピルスナーです。ボヘミア産ホップは品質がよく、年間生産量の半分は日本に輸出されています。

ピルゼン中心部の西ボヘミア博物館前にあるこの像は、90年前に生まれ今も人気者の操り人形キャラクター、シュペイブル(父親)とフルヴィーネク(息子)の親子です。ピルゼン出身で「人形劇の父」と呼ばれるヨゼフ・スクパが生みの親です。

ところで、チェコの人形劇は操り人形(マリオネット)が中心で、観光地の土産店で様々なマリオネットを見かけます。今日でも人形劇は盛んで、単なる伝統芸能以上の意味があるようですが、人口1千万人のこの国に3000もの人形劇団があるなんて信じられます? スクパの弟子の一人で同じくピルゼン出身のイジー・トルンカは、人形劇から始めて人形アニメーションやアニメーションの監督へと展開し、斯界では「欧州のウォルト・ディズニー」と高く評価されている人物です。

我国人形美術の第一人者・故川本喜八郎が最も傾倒し、師事したことのある人形劇の巨匠がこのトルンカです。1960年代、単身チェコスロヴァキアに渡った川本はトルンカの下で学び、後年NHK人形劇「三国志」や「平家物語」はじめ多くの作品を残しました。1998年のNHK番組『世界わが心の旅 川本喜八郎 チェコ・人形の魂を求めて』に出演した73歳の川本は、トルンカ芸術の原点を求めて師匠の眠るピルゼンを訪ねています。

中央広場に面したルネサンス様式の建物がピルゼン市庁舎で、その中に姉妹都市である群馬県高崎市から贈られた大きなダルマが鎮座しています。高崎市在のビール工場と「ピルスナーウルケル」との交流が縁で1990年に姉妹都市提携に至りました。

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ピルゼンの北70kmにはヨーロッパ随一の高級温泉保養地「カルロヴィ・ヴァリ」(Karlovy-Vary)があります。チェコ語で「カレルの温泉」という意味で、旧名はドイツ語の「カールスバート」(Karlsbad、カールの温泉)でした。

チェコの歴史上最も人気のあるボヘミア王カレル1世(後に神聖ローマ皇帝カール4世)が14世紀中頃に鹿狩りの途中見つけたという伝説のある温泉で、長期滞在型療養施設として世界中の著名人たちが訪れています。例えば、ゲーテ、シラー、ベートーヴェン、ショパン、ゴーゴリ、マルクス、エジソンなどなど。ここは「温泉つながり」で草津市やドイツのBaden-Badenと姉妹都市です。

この温泉のもう一つの特徴は、「散歩しながら12種類の源泉を飲み歩く」というもので、蛇口からチョロチョロと流れ落ちる源泉を陶器の飲泉マグカップ(写真)に受け、急須の注ぎ口のような形のところから飲みます。消化器系に効果があるそうで、私も当地を何度も訪問し都度飲泉をしましたが、鉄分が多いので「薬だと思って飲めば飲める」味です。源泉の中には炭酸泉もあり、それを利用した「炭酸煎餅」も当地の名物で、右手に飲泉カップ、左手に炭酸煎餅を持った多くの観光客がぞろぞろと歩いている姿は一寸ユーモラスです。この炭酸煎餅をルーツにもつのが、上野風月堂のゴーフルです。

同社サイトの「ゴーフル誕生秘話」によれば、明治の頃から販売していた「カルルス煎餅」という炭酸煎餅に洋風クリームを挟んでゴーフルが誕生したそうです。第一次世界大戦に敗れ、ハプスブルク帝国が消滅する1918年(大正7年)までの数百年間、チェコではドイツ語が公用語であり、この温泉は旧名の「カールスバート」だったことから、「カルルス煎餅」は「カールスバートの炭酸煎餅」のことだと思われます。 ビール、操り人形、炭酸煎餅と、チェコと日本を結ぶ様々な糸があります。

この温泉地を創設する前年の1348年、カレル王は中欧で最初のプラハ大学(現在のカレル大学)を設立しました。同大学は1947年に日本研究学科を創設し日本語教育を本格的に開始しました。私はここの卒業生数名にお会いする機会がありましたが、皆さん正しくてレベルの高い日本語を話されていました。 チェコ語の母音が「ア、イ、ウ、エ、オ」の5つということが発音上馴染みやすいのかもしれません。

温泉街の近くにはボヘミアングラスの製造会社「モーゼル」の工場とグラス博物館もあります。 当地でもう一つ有名なのがリキュールの「ベヘロフカ」です。各種ハーブを配合したもので、健康増進に良いとされ、先程の「12種類の飲む温泉」の後に続く「13番目の温泉」という別名をもっています。その配合処方は秘中の秘であり、社長と工場長の二人しか知らず、リスク対策として二人は絶対に同じ飛行機には乗らない、といった冗談のような話を聞いたことがあります。

 

お仕舞いはチェコのクリスマスの風物詩「鯉」について。淡水魚の「コイ」です。

ピルゼンに赴任した年の冬のある週末、家内と共に買い出しに行ったフランス系スーパー・カルフールの魚売り場の一角に大きな水槽が置いてありました。中を覗いたら大きな鯉たちが泳いでいるではありませんか。海がないチェコでは鱒、鰻、鯰、鯉などの淡水魚をよく食べますが、普段は切り身で売られていて、生簀での生魚販売はこの時初めて見たので驚いたものです。翌週会社でチェコ人従業員に鯉の話をしたところ、チェコではクリスマス・イヴに鯉料理を食べる習慣があり、生魚を買った人は自宅のバスタブで数週間飼って泥を吐かせ、イヴに家族で食するとの説明でした。が、この話には続きがあります。バスタブの鯉の飼育は多くの家でこども(たち)の仕事で、毎日世話をしているうちに情が移り、イヴが近づくにつれ情は深まり、しまいにはペットのように思うこどもも現れたりするそうです。 その結果、こどもたちの嘆願により生き延びる鯉は、チェコ全体で毎年数百匹にのぼる、とのことです。新聞情報なので間違いありません。

欧州訪問の際には、西ボヘミアまで足を伸ばされてはいかがでしょうか。

何か新しい発見があるかもしれませんよ。

そこへ行ったときに必要なチェコ語は ただひとつ、” Na zdraví !” (ナ ズドゥラヴィー=乾杯!=健康のために!)。

26 9月

出島復元記念講演会 @オランダ王国大使館出島ルーム

江戸時代、オランダと日本の交易の玄関口だった長崎県の出島。みなさんも歴史の授業で学んだことがあると思いますが、海に浮かんでいたかつての姿を取り戻そうと「出島復元」の計画が現在も進行していることをご存知でしょうか。

復元計画が始まったのは1951年。50余年の歳月を経て2016年に19世紀初頭の街並みが蘇り、今年11月に表門橋が完成します。この橋の完成により、江戸時代、通詞や役人、使用人などがそうしたように、橋を渡って出島に入ることができるようになります。

FANでは表門橋の完成を目前にした9月22日、「出島復元記念講演会」を主催しました。会場はオランダ王国大使館の出島ルームです。生憎、雨に見舞われてしまいましたが、54名にご出席いただき有意義なひと時を送ることができました。早速、講演会の模様をご報告いたします。

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9月22日、朝は確かに晴れていました。秋らしい涼やかな風が吹き、講演会後の懇親会はさぞ気持ちのいいプールサイドで参加者皆様と楽しい時間を過ごせるものと、信じておりました。天気予報は午後から夕方にかけて、雨!、なんということ。願い虚しく天気予報は的中し、雨の中54名の方々の出席をいただき、講演会は予定通り出島ルーム、懇親会は屋内ということで無事開催されました。

今回はトン・ファン・ゼイラント氏(オランダ王国大使館参事官)とイサベル・田中・ファンダーレン氏(東京大学史料編纂所共同研究員)が大変に興味深く、且つ新たな視点での日蘭関係や出島に関する情報をご提示いただき、参加者は緊張感をもって聞き入りました。

 

トン・ファン・ゼイラント氏からのお話しから
オランダ政府が日本とオランダの交流を目的としたプロジェクト「Holland-九州」 は平戸オランダ商館復元を含み、数々の事業を行っています。

平戸茶会―平戸松浦藩に伝わる武家茶道「鎮信流」と共に平戸のお菓子文化は飛躍的に発達しました。オランダのクリエーターと平戸の菓子職人が智慧を出し合って新たな平戸菓子が誕生。オランダ茶会を松浦資料館で開催し、オランダ人も着物を着て濃茶、薄茶とお菓子を楽しみました。その他、お酒、染物、陶器などを共同創作し、新しい製品への挑戦をしています。

日本で亡くなったオランダ人の墓が長崎の悟真寺にあります。オランダ人も供養のためにお参りしています。

音楽の分野においても「JAZZ in Kyushu」を開催し音楽アーテイストとの交流を深めました。今年の11月には出島表門復元完成を記念して、ロイヤル・コンセルトヘボウオーケストラが長崎で演奏会を行います。

今年最大の出来事は何といっても出島表門橋(旧江戸橋)の復元完成です。すでに出島の建物は全て復元され、表門橋の完成を待つばかりでした。こうした交流を通じて更に日本とオランダが友好的な付き合いが続くことを祈っています。

 

イサベル・田中・ファンダーレン氏のお話しから
今まで、出島の住人として注目されてきたのはオランダ人が中心でした。でも出島には数人のオランダ人以外に時にはその2倍の人数を要する奴隷身分であったインドやマレー系の若い男性もいたのです。彼らはこれまであまり光が当てられませんでした。しかし、大いに日蘭関係に貢献し、「黒坊」(クロン坊、クロ坊)と愛称された存在でした。「長崎版画」「西遊日記」「長崎見聞録」など日本人が描いた当時の史料を参考にしながら、その役割について考えてみたいと思います。

17世紀奴隷売買が盛んな頃、この商売に携わった国の中にオランダも含まれていました。
オランダ東インド会社が扱った奴隷の量は南米に送られた奴隷と匹敵する位であったといわれています。南米へは主にアフリカ系人民がプランテーションに携わるための働きを期待されて送られていました。オランダは主にアジア系のインドやマレー人を家内労働目的の働き手として売買にくみしていました。

そうした奴隷身分の若い男性を引き連れて、オランダ人は出島にやってきたのです。何故なら、出島には妻を同伴することを許されず、女性は遊女以外入ることを禁じられていました。従って身の回りの世話をする男の召使が必要だったからです。商館長には15~20人の召使がつき、その下の身分でも一人に2~3人の召使がいました。召使がオランダ人よりも圧倒的に多いという事です。

オランダ東インド会社は1619年にバタヴィア(インドネシア・ジャカルタ)に商館を設立して、日本やアジアとの交易活動を始めました。初め奴隷はインド系が多かったのですが、その内にインドネシア系が殆どを占めるようになります。バタヴィアの奴隷達の中には、オランダ人の妻になった者もいます。奴隷の子供とオランダ人の子供は一緒に遊んだりしましたが、教育を受けたのはオランダ人の子供だけでした。

出島で彼らはどのような仕事をしたのでしょうか。料理、洗濯、掃除と共に野菜の栽培や家畜の世話などもこなしました。時にはバトミントンに戯れていたようで、版画などが残っています。日本のバトミントン発祥の地といえるかも知れません。

料理は完全なオランダ風ではなく、インド・マレー系、或いは日本の料理人の影響を受けたハイブリットなオランダ料理でした。日本人が遊学のために江戸から訪れた折に、こうした料理を振舞われ、異国情緒にひたった記録が多くあります。

オランダ人は召使のことをモノとして見ていましたが、日本人は紀行文などに人間として愛すべき存在として書いています。司馬江漢などは日本の冬を越す彼らに同情をこめた絵を描き暖かい眼差しで見ていました。

彼らはオランダ人の出島生活をサポートし、オランダ人と日本人の関係をスムーズに運ぶ重要な存在であったといえます。

オランダの伝統的なクリスマス行事の「シンタクラース」にピートという黒人のお供が登場しますが、これは昔の奴隷売買の記憶を呼び覚ますとして、現在は多々批判があり、議論がつきません。又、アメリカにおいても、過去の奴隷制度に対する賛否両論の争いがつい最近もありました。死者まで出たのは記憶に新しい出来事です。過去を現在の目で見るのは難しいですが、歴史を研究する者として時には不愉快な出来事も世に知らせる義務があると思っています。歴史は切り取られたものではなく、現在も続いているものだと改めて認識します。


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講演終了後、ロビーに美しく盛り付けられたお料理を目の前にして感嘆の声があふれ、ビール、ワイン、ソフトドリンクと共に懇親の時間はあっという間に過ぎていきました。

なお、今回のイベントはオランダ大使館のご厚意で開催できました。多くの参加申し込みがあり、こちらの様々な要望に対し親切にご対応いただきました大使館及び事務方の方々に心から感謝申し上げます。

FANはこれからもオランダをキーワードに有意義で楽しいイベントを企画していきたいと思います。
その時、再び皆様にお会いできることを楽しみにしております。

 

 

25 7月

事務局長氏、第二の故郷「マーストリヒト」再発見する

今回は、駐在経験からマーストリヒトをこよなく愛する事務局長のカミングホームエッセイです。

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オランダの焼物というとデルフト陶器やマックム陶器が、先ず思い浮かぶと思いますが、江戸時代、オランダから陶器が「阿蘭陀焼」という名で日本に輸出されていたことをご存知でしょうか。そして、どこの「阿蘭陀焼」が一番多かったでしょう?
それは19世紀中~後期におけるマーストリヒト製のプリントウエア(銅板転写陶器)でした。と、わけ知り顔で書きだしましたが、実は私も最近知った話なのです。

マーストリヒトはオランダ最南端、アムステルダムから電車で約2時間半のベルギー、ドイツに接するローマ時代からの古都。マース川に架かる橋をもつ要衝の地です。日本ではEU発足の基となったマーストリヒト条約で馴染みのある小都市です。

 
鎖国期、日本におけるヨーロッパの通商の窓口であった出島からは、マーストリヒト製のテーブルウェア陶器の破片が数多く発掘されており、江戸時代末期に日本人に好まれる舶来の食器「阿蘭陀焼」として出島のオランダ商館経由で「輸入」していたことが明らかになっています。

 
現在、長崎では、かつて長崎湾に突き出していた出島本来の場所に、江戸町側からの入場を可能にする「出島橋」が完成し、今年の11月に落成のお披露目式が予定されています。この機会に日蘭交流のトピックスとして、マーストリヒトウェアの特集展示が出島内で行われます。

去る6月下旬、出島史跡整備審議会の岡泰正先生が、その展示会調査のためにマーストリヒト市の文化財を管轄する学芸員と面談されることを耳にし、お許しを得てマーストリヒトの道案内を兼ね、私も同行させていただきました。(岡先生ついては、オランダの窓に「私とオランダ絵画との出会い」という題で寄稿いただいていますので是非ご覧ください)

当時のマーストリヒト陶器―プリントウェアのメーカーはペトゥルス・レグゥー社、現在のスフィンクス社です。
スフィンクス社といってもピンと来ないかも知れませんが、日本男性が勇躍オランダに到着し、空港のトイレで小用を足す時、先ず目にするのがその便器にプリントされたスフィンクスの朝顔のロゴマ-クです。朝顔の高さにわが身の足の短さをつくづく思い知らせされるのと同時にオランダ人の身長に圧倒されるものですが、その白い陶器を作っているのがスフィンクス社です。
現在の工場は、マーストリヒトではなくユトレヒトの郊外に移っているとのこと。スイスの洗浄システムのメーカー、クロエ社の傘下に入り、現在に至っています。

 
マーストリヒトでは担当のウィム・ダイクマン先生にお世話になり、かつてレグゥー本社があった場所に近く、港に面したレグゥーのネオ・クラシック様式の邸宅をめぐり、ガラスおよび陶器産業を興隆させた大実業家の足跡をご案内いただきました。
二日目のマーストリヒト市では、セラミックセンターの収蔵庫にも特別にご案内いただき、3万点以上保管されているというレグゥー社、その後のスフィンクス社、モーザ社などの製品について、実物を見ながらご教示いただきました。 銅版転写の原版が保管されている収蔵庫は湿度を低く設定してありました。

レグゥー社の創立者ペトゥルス・ラウレンティウス・レグゥーは、1801年に生まれました。日本では江戸時代後期にあたります。若くして事業を起こし、ガラスと陶器の会社を大きくして、マーストリヒトの経済発展の基礎を築きました。
その人物と鎖国期の日本が結びついていたとは、恥かしながらマーストリヒトに3年も住んでいたのに、この度の見学で初めて知りました。まさに目から鱗でした。

レグゥー社はスフィンクス社と名を変え、やがてホテルウェアなどの食器産業から主にトイレットウェアを手がける会社へと変貌してゆくわけですが、思い返しますと、15年前、私が滞在していた頃には既にマーストリヒト工場での操業を停止しており、広大な工場跡は廃墟のような様子で、近くを歩くのはちょっと憚られる雰囲気でした。
現在、その工場跡地はマーストリヒト市の再開発エリアとして建物は大方撤去され、シンボルである巨大な本館は、モダンな映画館や、マーストリヒト大学の学生寮として改装工事が急ピッチで進んでいます。

 
マーストリヒト市内にはスイスからフランス、ベルギーを経てロッテルダムから北海に注ぐマース川がゆったりと貫流していますが、スフィンクス社工場跡地の裏手にはレグゥー社当時の倉庫群とマース川への運河につながる港湾施設が残されています。
19世紀に建てられたこのレンガ色の建物群のうち、倉庫はお洒落なカフェや個性的な工房に利用されており、当時、物流の窓口であった港には、優雅なヨットやボートが係留されています。

 
岡先生、ダイクマン先生、そして私は、港のオープン・カフェで、初夏の陽射しのもと、喉をうるおしながら話を続けました。
江戸時代、レグゥー社の皿や鉢などの陶器が、ここから川船でマース川に出て、ロッテルダム港まで運ばれ、そこで大型帆船に積みかえられ、北海、大西洋、喜望峰を回り、インド洋、オランダの通商の拠点、バタヴィアに行きつき、そこからはるばる長崎の出島まで運ばれていたことを思うと感慨深いものがありました。
出島にやってきた陶器は、「阿蘭陀焼」として日本中で販売されました。オランダは、伊万里を「輸入」していただけではなかったのです。
出島に到来したマーストリヒト陶器が誕生した場所と、出発の港を目の前にして、冷えたベルギーのビールを飲みながら、お二人の先生の学術的な話を聞いていますと、陶器の通商を超えた歴史のロマンを感じ、ガラにもなく感動が私を満していきました。

帰途、アムステルダム、デルフト、デン・ハーグで美術館行脚。デン・ハーグのマウリッツハイス美術館では、岡先生がゴーデンカー館長と懇意でもありVIP待遇で鑑賞させていただきました。

 
今回、果たして道案内役が務まったかどうか心もとない限りですが、第二の故郷のマーストリヒトの歴史の側面を体感することができ、また岡先生から道々、絵画の見方などなど、いろいろなことを教えていただき、濃厚で有意義な一週間の「研修の旅」を終えたのでした。

08 6月

戸定邸と千葉大学の庭園散策

予報では梅雨入りが心配された6月3日(土)、天が味方してくれたのか好天に恵まれ、46名もの皆様にご参加いただき「徳川家ゆかりの戸定邸と千葉大学の庭園散策」を開催いたしました。

松戸市戸定邸にて集合、4名のボランティア松戸シティガイドの方々の引率で、「戸定邸」と「歴史館」に分かれて見学を開始しました。

戸定邸は、15代将軍、慶喜の弟の昭武によって明治に建てられた純和風の木造平屋一部二階建てで、徳川家の住まいとして残された唯一の建築物です。


内部は最上等の杉材をふんだんに使いながらも装飾を最小限に留めており、空間に静かな気品が漂っていました。庭園には昭武が「パリ万国博覧会」に外遊した際に学んだと思われる洋風の技法が多く取り入られているそうです。


歴史館では、1867年パリ万博150周年記念展「プリンス・トクガワと渋沢栄一」展が開催されており、徳川昭武と渋沢栄一との出会いから、パリ万国博覧会の開催当時の会場図面などが展示されていました。「各国巡歴」のコーナーにオランダ国王:ウイレム3世の肖像写真が展示されていたのは、FANとして大変印象に残りました。

戸定邸をあとに、シティガイドの案内で緑の回廊を抜けて隣接する千葉大学キャンパスへ。


数年前に100周年を迎えたという鬱蒼と茂った森の中を散策し記念会館に到着。そこで造園学の名誉教授の藤井英二郎先生から貴重なスライドを交えながら「戸定邸」と「大学キャンパス」の講演を受けました。


戸定邸の庭園は、一見は和風庭園のようだが、実は客間前の書院造庭園は雨落溝の際まで広い芝生が張られており、点在する丸い樹形は洋風要素の特徴だそうです。また、大学キャンパスのイタリア式、フランス式、イギリス式の庭園では、樹木が大きいと庭園が小さく見えてしまうため、庭園を取り囲むチャボヒバのトピアリー(常緑樹や低木を刈り込んで作られる造形物)は約百年にわたって透かし剪定されてきたそうです。その樹形は和洋折衷樹形として極めて貴重であると藤井先生。興味深い先生の説明とともに午前中散策した場所を振り返り、改めて庭園の見方を学ぶようでした。ちなみに、キャンパス内の庭園は開学時から実習教育と研究の場として今日まで維持されています。

講演の後は、記念館の前で集合写真を撮った後、学生食堂に場所を移し、白石副会長の司会、村岡会長のあいさつ、田中監事による乾杯の発声で懇親会となりました。

懇親会では、それぞれビール、ワインを飲みながら今日一日の体験談に大いに花を咲かせ、楽しいひと時の後自由解散となりました。

最後に、今回世話人鈴木が大学のOBであることから記念館及び学食などをご厚意で借りられました。大学関係者の方々に深く感謝申し上げます。

ご参加の皆さま、お疲れ様でした。

 

23 5月

ムシと樹とオランダ人

久しぶりのリレーブログは、今年から世話人に仲間入りした勝野さんです。虫とオランダ人のおもしろいエピソードです。

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こんにちは。今年の総会で新世話人として承認して頂いた勝野です。よろしくお願いいたします。

私は2007年12月から2011年1月までオランダのナイメーヘン市に住んでいました。今回は、オランダに住んで半年経ち、ちょっと慣れてきた頃の2008年5月の出来事について書いてみます。
*注:虫がお嫌いな方は写真を拡大なさらないようにして下さい!

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私が住んでいたのはナイメーヘン市の南の郊外のデューケンブルグという地域。家の近くには大きな木の並木道があり、その横のお堀では鴨の親子が泳いでいるのどかなところでした。
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5月のある日、その並木道の木がどうも白っぽくなっているような気がしたのです。タンポポの綿毛のようなのでも自分で発生させているのだろうか? と気楽に思っていたのですが、日を追うごとに木々はますます白くなっていきます。まるで細い糸に覆われているかのように。これはただごとではない。

意を決して近づいてみると、糸の中には何千何万という数の虫が!

この虫が出す糸はどんどん液体のように流れていって、鴨の親子がいるお堀にまでなだれこんでいます。

こんな状態になってしまった木がこの通り沿いに約50本もありました。

オランダ人にとっても目を引く光景らしく、写真を撮ったり、集まって井戸端会議を開く方々がいたので、会議に参加してみました。

私:キモチワルイですよね。
ご近所さん: あらそんなことないわよ。ステキだわ。
私: (ええっ、ステキ??)なぜステキなんですか?
ご近所さん: この虫は害はないのよ。そのうちキレイな白い蝶々がたくさん出てくるわ。そしたら木も元通りになるのよ。

そうか、オランダ人はこの現象をCoolだと思っているのか! 目から鱗が落ちた瞬間でした。日本だったら「消毒しろー!」という声のもとに、あっという間に農薬等が撒かれていたことでしょう。

その後虫たちはさなぎの時期を経て、6月下旬に無事羽化し、悪さもせずに飛び立っていきました。蝶には・・あまり見えませんでしたが。

しばらくすると葉っぱも復活し、ご近所さんが言っていたように木も元通りになりました。

なんでも日本のやり方が一番なんて思っていなかったけれど、このような現象もポジティブに受け止め、自然を無理に人間に合わさせないという考えがこの国の人にはあるのだなと思わされた、オランダ滞在初期のインパクトのあるできごとでした。

 

30 3月

第8回 定例総会&新年会

春の訪れを感じさせる3月4日、FANでは第8回定例総会と、ちょっと遅めの新年会を開催しました。

場所は虎ノ門ヒルズカフェ。大きく窓をとった店内に日光が気持ちよく注ぎ込む雰囲気のよいカフェです。

会長の挨拶からはじまり、事務局長からの活動、会計、人事などの報告を経て、乾杯。今回は運営メンバーを含む44名にご参加いただき、いつものように賑やか&穏やかな雰囲気に加え、シンタクラースというお祭りやスフェベニンゲンで行われる恒例行事の元日寒中水泳の様子がビデオで流され、オランダムードを盛り上げます。

会場には、オランダから帰国中の画家でエッセイストの吉屋敬さんの姿もあります。折しも、その頃はオランダでは総選挙を控えていました。極右の自由党(PVV)が勢力を増しており、反移民感情を反映したポピュリズムの台頭が心配されるヨーロッパの今後の動向を計る選挙として注目されていました。吉屋さんは、「オランダは世間が心配するようなことは起こらない」とオランダに長い実感から話され、実際、自由民主国民党(VVD)による続行という結果になりました。このようにオランダの生の声が聴けるのも嬉しいものです。

お互い語らいながら、新しい会員の方、久しぶりにいらっしゃった方などをご紹介させていただいているうちに、アッという間に時間が過ぎていきました。やや詰め込みすぎだったかとちょっと反省しております(汗)。

ラストは大田市場見学でも好評だったじゃんけん大会です。オランダ関連のさまざまな景品と一緒に、これもタイミングよく日本に帰国中だった世話人の水迫がオランダで買い求めた1等賞オランダ詰め合わせセットもあります!

 

オランダ好きな方、仕事でオランダに縁のあった方、またそんな人たちの友人たち。さまざまな背景をもつさまさまな方が、ひとつの空間に集まり、楽しいひとときを共有している。そんな場所を提供できたことを大変嬉しく思います。

これからも、色々なテーマで、誰でも気軽に参加できる会を運営していきたいと思います。枠があるようでなく、かしこまらず、楽しいひとときを皆様と過ごせたらと思っています。

23017年もFANをよろしくお願いします!

 

 

 

19 1月

ここもオランダ?なの?

2017年第一弾のメンバーブログは副会長の白石さんです。昨年訪れたオランダについて。白石さんの訪れたオランダは、カリブ海にありました!

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行ってきました!

カリブ海に浮かぶ小さなオランダアルバ島へ。カリブ海にはABCアイランドというオランダ王国の島が3つ浮かんでいます。Aはアルバ島、Bはボネール島、Cはキュラソ島です。蘭領リーワード・アンティル諸島と言われ、これらの島からはオリンピックや、ワールドベイスボールにオランダ代表として野球選手を大勢出していることで有名です。高度な自治が認められたオランダ王国の構成国となっています。

アルバという名は、スペイン語のoro huba(黄金がある)から来ているという説があるようです。島の北海岸沿いに金精錬工場跡というのがありますが、かつては金が採れたのでしょうか。

 

大航海時代以降、これらの島はスペインが発見しオランダに征服されたという歴史を持っています。アルバ島はハリケーンの影響を受けないリゾート地として開発されました。
観光客は殆どがアメリカ人でカリブ海のラスベガスとも言われています。主な産業は観光ですが、住民の生活レベルは高いということです。住民がハッピーだという証拠に自動車にこのようなナンバープレートがついています。「HAPPY ISLAND」

 

島には特にオランダらしい雰囲気はありませんが、島の北に唯一観光客の呼べるカルフォルニア灯台という名所があります。そこの売店にオランダ前女王、今国王、オランダの特徴的な写真などが飾られています。また、道路もいわゆるオランダ形式のラウンドアバウトで信号のないロータリー状になっています。

 

大変乾燥した気候なので、サボテン以外の植物は育たないようです。街路樹、家の塀、空地も皆サボテンです。家の塀などはサボテンのトゲで守られるのでしょう。いいアイデアだと思います。このサボテンはなんと10メートルにも伸びるそうです。ただ雨が降らない土地柄で水不足は深刻。でも先進国の洗練を受けて海水を真水に変える大きな工場がありました。世界でも2番目の大きさだとか。その工場から住民は水道を引いて生活水にしているということです。文明の力は素晴らしい。

サボテンの実を初めて目にしました。

 

宗教はカソリックが主流です。オランダはプロテスタントですが、宗教までは規制してはいないようです。ただ教育と軍事はオランダ式です。殆どの子供達は最終的にはオランダ本国で教育を受けるそうです。
数年前にはアロエの輸出が世界でもダントツでした。アロエのハンドクリームやスキンジェルなどがお土産として売っていました。納得です。

パピアメント語というオランダ、スペイン、ポルトガル語などが混ざった混成語が一般に
使われています。人種も殆どが混血です。文化の異種混淆が未来社会にとって重要だとは様々な学者が述べていますが、まさにその姿をこの地方に見ることができます。

たまたま訪れたリゾートホテルの庭にある石山でイグアナを発見。彼(彼女?)はのんびりと散歩の途中だったようです。
こうしてアルバ島を体験して、多様なオランダをここにも発見した感がしました。

 

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