わが青春を振り返って~1967年40日間のヨーロッパの旅~ 後編

お待たせしました。FAN運営メンバーの鈴木さんの旅の後編です。後編は十数年ぶりの叔父さまとのドラマチックな再会から始まります。
前編はこちらからどうぞ。


叔父と10年ぶりの再会

第10日目8月6日
これから、いよいよローマです。十数年ぶりに会う叔父が待っているのだと思うと、胸の高鳴りがおさえられなくなりました。とはいえ、途中のアルプス越えでは、あまりの寒さにザックにしまってあるヤッケをひっぱりだしたりして、本当に「太陽の国イタリア」に向かっているのかと疑いたくなりました。

第11日~16日目8月7日~13日
夕方、終着駅 ローマのテルミニ駅に到着。

メールもない時代でしたので、日本を出発する前、叔父には予定を手紙で伝えていていました。当然、叔父が駅に迎えに来ているものと思い、ウイーンから飲まず食わずで駅のホームに降り立ちました。でも、叔父らしき姿が見当たりません。黒いスータンを着た神父の姿を見ると、みんな叔父に見えてしまいます。ローマは、カトリックの総本山で世界中から教会関係者が集まっているので神父の姿が多いのは当然のこと。

リュックを背負って駅周辺でうろうろしている間に期待に不安が差し込みはじめました。アルプスからの温度変化が堪えたのか、熱気に当たり、突然、くらくらして鼻血が出てしまいました。驚いて道路わきにある水道の蛇口で顔を洗って落ち着くのを待ちました。20分ほどぐらい休んだ後、鼻にティッシュで栓をして立ち上がり、近くの交番で叔父からの手紙の宛先の住所を見せ、叔父のいる修道院までの行き先のバス停を教えてもらい、何とかバスに乗り込みました。

バスが「コロッセオ」の近くのバス停に近づいたとき、なんとバスの窓から叔父を発見。思わず、窓から顔を出して「叔父さーん!」と大声で呼びかけました。叔父は私に気づき、慌ててバスに乗り込んできました。十数年ぶりの叔父との再会。バスの中にも関わらず、我を忘れて叔父に抱きつきました。鼻にティッシュで栓をした甥の顔を見て、叔父も目を白黒させています。

落ち着いてから叔父に聞いてみると、夏休み中ドイツに避暑を兼ねて学修し、数日前に戻ってきたとのこと。私が出発前に出した手紙は見ていなかったそうです。

広いローマでバスの中での再会。奇跡と言わざるを得ず、本当に神様に感謝した次第です。

ローマ滞在中は、修道院で寝泊まりし、面倒を見てもらいながら、バチカン市国を訪ねたり、日帰りでナポリに行ったりなど、いろいろな所を案内してもらいました。

バチカン市国では、一般の人は入ることができない場所に連れていってもらいました。ミケランジェロがデザインした制服を着たスイス衛兵に守られた城門から入り、法皇が散歩する庭園やバチカン美術館の内部を案内してもらい、システーナ礼拝堂のミケランジェロの壁画、ラファエロの間や数々の彫像についての解説を聞かせてくれました。その経験は、その後の私の趣味を広げる大きな要素になりました。

ローマ市内は、紀元前のローマ帝国時代の遺跡だらけ。最初は第二次世界大戦の傷跡が残っているものと勘違いしていましたが、叔父の説明とともに訪ねる映画『ベンハー』の舞台となった「チルコマッシモ」やカラカラ浴場跡、コロッセオ、フォロ・ロマーノなど紀元前のジュリアスシーザー時代など、その歴史の深さに圧倒されました。『ローマの休日』で有名になったスペイン階段・トレヴィの泉・ナヴォーナ広場なども堪能しました。

日帰りで訪れたナポリでは、ポンペイの遺跡を見学、一瞬のうちに火山灰で埋め尽くされた街並みや灰でうずくまっている人体の化石を見て、ベスビオス火山の噴火のすさまじさを改めて知りました。

第17日目8月14日
叔父との充実した1週間はあっという間に過ぎていきました。叔父は博士論文の最終のまとめが残っており、忙しい身であるとのことで、テルミニ駅まで送ってもらい、惜しみつつ別れをつげました。私はこれからの一人旅に不安を憶えながら、フィレンツェに向かいました。

フィレンツェに到着後駅に荷物を預けて、ひとまず2泊するペンションを駅の近くに確保。午後からは、ウフィッツイ美術館や叔父からいろいろ史跡の解説を聞き感銘を受けたミケランジェロの作品群を巡り、アカデミア美術館にあるダヴィデ像・未完の傑作囚人たち・パレストリーナのピエタなどの彫像を目に焼きつけました。

第18日目8月15日
その日は、「聖母の被昇天」というカトリックの祝日でした。街中の鐘楼の鐘が鳴り響くなか、中心部にあり、「花の大聖堂」として有名なサンタ・マリア・デル・・フィオーレ大聖堂でミサに預かり、いくつかの教会を巡りました。そして、その夜、最終列車で、次の都市、ベネチアに向かいます。

第19日目8月16日
ベネチアの街では、貧乏旅行のため、有名なゴンドラには乗らずに、ただひたすら歩きました。ベネチアの街は運河で仕切られているためいくつもの橋を渡って、ようやく観光名所のサンマルコ広場などを見学しました。

第20&21日目8月17日
夜行列車で次のミラノへ向かいます。ミラノは生憎のうす曇りで、雨がぽつぽつ降りだしました。市内の中央にあるドウモ、カテドラル、スカラ座、サンタマリア寺院などを急ぎ足で回りました。明日からは、いよいよあこがれのスイスのツエルマットです。


あこがれのスイスへ

第22日目8月19日
ツエルマットは、世界中のアルピニストがあこがれるマッターホルンのふもとの町で、自然環境を守るために自動車を乗り入れないことで有名です。昨日までのイタリアとは全く雰囲気が異なり、鈴を付けた馬車がシャンシャンと鳴らしながら市内を走る様子は、まるでおとぎの国のよう。通りに沿った家々のベランダはきれいな花で飾られ、いかにもアルプスののどかな雰囲気のある街並みです。

マッターホルンを目指す著者
マッターホルンをバックに

第23日目8月20日
まだ町がうす暗い朝6時、ユースホステルの窓から眺めるマッターホルンは、山だけに太陽が当たって輝いて見えます。その山景は本当に素晴らしく、今日、あそこに自分が立つと思うと、身震いがします。ふもとからのロープウエイが利用できますが、私は徒歩でマッターホルンを目指します。

標高1,600mのふもとから5時間かけての登山。エーデルワイスの花などを愛でたり、標高2,562mにあるシュワルツゼーという小さな湖に映るマッターホルンを見たりしながら、3,260mの展望台「マッターホルンヒュッテ」に到着。

ヒュッテからマッターホルンを仰ぐと、三角に切り立った壁面が輝き、雲が沸き立つ様に、アルプスの代表的な山を身近に肌で感じます。シベリア鉄道にのり、イタリアで叔父に会い、そして今じぶんはここにいる。ここに来て良かったと心の底から思いました。

第24日目8月21日
翌日、次の目的地である「アイガー北壁」が見える、ユングフラウヨッホのあるグリンデルバルトに向かいます。登山電車を乗りかえながらインターラーケンを経て、午後、目的地のグリンデルバルトに到着。

第25日目8月22日
早朝、一番の登山電車で、標高2,061mの「クライネシャイデック」へ。ここからアイガー北壁をくりぬいて登る登山電車で3,454mのユングフラウヨッホへ。

終点の頂上トンネルを抜けた頃、空気が薄いため呼吸困難に気を付け走らないように、との注意のポスターがありました。外は、見渡す限りの銀世界。広大なアルプスの氷河のパノラマが眼下に広がっています。

あこがれていたスイスの山々。山稜をバックにして、この場所に立つのが、今回の旅のもう一つの大きな目的だったことこを思い返し、それが実現したことに、深い感動を覚えました。

ユングラウヨッホ


パリへ

第26日目8月22日
充実した気持ちでグリンデルバルトを後にし、次の目的地のフランス・パリへ。途中、オーストリーの首都ベルンを経て、パリ行の夜行列車に乗り込みました。

ミロのビーナス

第27日目8月24日
早朝、パリに到着。ユースホステルに荷物を置き、早速市内見学。観光バスに乗っても説明が判らないので、駅でもらった地図を頼りにパリの象徴エッフェル塔、モンマルトルの丘やノートルダム寺院などそしてセーヌ川河畔、凱旋門をひたすら歩きました。

第28日目8月25日
パリ2日目は、朝からルーブル美術館へ。モナリザ、ミレーの晩鐘、ミケランジェロの作品など教科書で習ったものを探して見て回りました。あの有名な「ミロのヴィーナス」は、美術館の片隅に置かれ、日本に来日した時の大騒ぎとは当てが外れた感じ。

とにかく美術館の内部は広すぎて、目的の作品を探すのに一苦労しました。その夜23時30分の夜行急行列車でドイツ、ハイデルベルグに向かいます。


ドイツを鉄道で周遊

ハイデルベルグ

第29日目8月26日
早朝、8時にハイデルベルグに到着。有名な小説『アルト・ハイデルベルグ』の舞台となった、古い大学都市で学生の淡いロマンスを思い描きながら、古城からネッカ河岸を眺めて歩きました。ハイデルベルグはいかにもドイツらしい雰囲気を持った落ち着いた都市で、ゆったり流れるネッカ川にかかったカール・テオドール橋から眺める古城の風景は、ゲーテをして「世界にこんな美しい橋はほかにあるまい」と言わしめた姿をそのままに残していました。

第30&31日目8月27日&28日
翌朝、ハイデルブルグから約1時間でフランクフルトへ移動。 楽しみにしていた「ライン下り」のために、フランクフルトから鉄道でマインツへ。ここから遊覧船に乗り、コブレンツまでの約90キロメートルのライン下りを楽しみました。途中、川の両岸にいくつかの古城が見え隠れします。ただし、案内がドイツ語だったため、左右に見える古城の説明がちんぷんかんぷん。唯一、ローレライの岩の説明だけは、あの有名な曲がかかり、理解することができました。帰りは、コブレンツからライン川沿いを鉄道で走ってフランクフルトへ。

第32&33日目8月29日&30日
翌朝、鉄道で6時間の移動で、ミュンヘンへ。ユースホステルに落ち着く。ミュンヘンでは、市庁舎やドイツ博物館を見学したり、屋上から市街を望んだり、ビアホールで有名なホブロイハウスで陶器のジョッキーでのどを潤したり、お土産としてチロリアンの人たちが履いている革の半ズボンをお土産に買ったりと、ドイツらしい時間を過ごしました。ミュンヘンの後は、いよいよヨーロッパ周遊の出発地でもあり最終地でもあるウイーンです。

第34日目8月31日
早朝、ウイーンに到着。荷物を駅に預け、市内の中心にあるサンステファン寺院やマリアテレーザ別宮殿を見物。そして、ベルベデーレ宮殿・庭園の左右対称に整形された樹木の庭園には圧倒されました。

ウイーン公園のヨハンシュトラウス像

第35日目9月1日
旅行の折り返し点であるウイーン発モスクワ行き夜行列車ショパン号に乗り込む。

第37日目9月3日~第40日目9月6日
モスクワからは往路をたどり、飛行機でハバロフスク、鉄道でナホトカに行き、バイカル号で横浜港へ。

第41日目9月7日
横浜港に16時接岸。ここで40日間にわたる私のヨーロッパの旅が終わりを告げました。

―――

師として仰ぐ叔父とのその後をご紹介します。

2004年に療養のために帰国しました。作家曽野綾子さんの紹介で大学の同期が院長をされていた桜町病院に入院しましたが、長年イタリア・ローマで過ごしたこともあり、最後はローマに帰りたいと熱望し、年明け早々に飛行機に乗れるまでに体調が戻ってきたのを機に、車いすの叔父を介護しながら叔父の弟(毅神父)とローマまで同行しました。

そして、叔父は2007年6月に天国に召されました。その年の10月、遺品整理のために、叔父の毅神父と一緒にローマ・サレジオ大学修道院の執務室を訪問。執務室の机に置かれていた、30センチ程の陶器の「アッシジの聖フランチェスコ」像を持ち帰りました。私の部屋の祭壇に置いて、今でも毎日手を合わせています。

その後、2008年、2013年と毅神父を団長に、親戚や信者の仲間らと墓参団を形成して、バチカン郊外のジェンツアーノに墓参りに出かけたことが懐かしく思いだされます。


さて、私の手元には50年前のヨーロッパ周遊を物語るいくつかの記念品があります。
ミュンヘンで買った革の半ズボン:大事にしまっていましたが、当時から比べてだいぶ体形が変わってしまって履けなくなってしまい、大学の先輩で、アマチュアの「アルプス楽団」でヨーデルを歌っているA氏に譲ることに。銀座ライオンの5階にある音楽ホールのステージで履いてくれ、ステージを観るたびに旅行を思い出します。

レオナルドダヴィンチの「受胎告知」:フィレンツェウフィッツィ美術館で地板に印刷された板(25㎝×40㎝)を購入。金縁の額装に入れて、家に飾っています。

ノートルダム寺院の銅版画:パリのセーヌ河岸の古本市で見つけたものです。これも家に飾っています。

新型コロナ感染症の影響で、時間が有り余っている私に、このブログは人生を振り返るいい機会となりました。この機会いただいたことに感謝しております。ありがとうございました。

筆者近影(左)2020年12月at FAN会員佐藤氏の個展で
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