05 11月

ピルゼン(チェコ)の思い出

今回は、チェコに5年間暮らした中西さんの生活感溢れるチェコエッセイです。

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こんにちは、世話人の中西です。今日お話するのは、私が2001年初から5年間暮らしたチェコ共和国ピルゼンの思い出です。事務局長の寺町さんがオランダで活躍されていた同じ頃です。なぜオランダではなくてチェコなのかについては、このサイト内の運営メンバー紹介欄をご覧下さい。
まずはチェコの概要から。チェコは北海道位の広さで人口は1千万人。ドイツ、ポーランド、スロヴァキア、オーストリアの4カ国に囲まれています。

チェコの東部地域をモラヴィア、首都プラハを含む西部地域をボヘミアといい、ボヘミアは石炭・鉄鉱石などの資源に富み、16世紀から400年間当地を支配したハプスブルク帝国の工業生産の2/3を担っていました。西ボヘミアの中心都市が人口18万人のピルゼン(Pilsen、ドイツ語)、チェコ語でプルゼニュ(Plzeň)です。19世紀半ばピルゼンにシュコダ重工業という会社が生まれ、鉄道車両・船舶・蒸気タービン・自動車製造の巨大企業へと発展しました。私がピルゼンの地元企業を訪問した折、このシュコダと日本の縁についての逸話を聞きました。

  • 日露戦争日本海海戦の旗艦「三笠」はイギリスのヴィッカース社製だがその竜骨(キール)はシュコダが製作した。
  • 元経団連会長の土光敏夫氏はタービン技術者だった若い頃、当時先進技術水準のシュコダでタービンの研修をした。

余談をもう一つ。米国の通貨名「ダラー」は、16世紀から数百年の間ヨーロッパ中で使われたボヘミア銀貨「ターラー」に由来しています。

 

1989年、「ビロード革命」によりチェコスロヴァキアの社会主義体制が崩壊。1993年、チェコとスロヴァキアに分裂。2004年、両国同時にEU加盟。こうした中、90年代後半から日本企業によるチェコへの工場進出が活発化し、今日、在チェコ日本企業の数は250余社で、トヨタ、パナソニック、ダイキンはじめ日本を代表する企業が現地生産をしています。日本から欧州への投資では、チェコはイギリス、ドイツ、フランスに次いで四番目の投資先であり、チェコ側からみると日本はドイツに次いで二番目の投資国です。

EUの東方拡大の中で、多くの日本企業が中東欧へ進出しています。その中でもチェコの人気が高い理由は、欧州の真中に位置するため欧州市場への製品輸出に適していることに加え、「ものづくり」の伝統から理工系高等教育が盛んであり、エンジニア・工場労働者などの人材が豊富であることが挙げられます。日本企業の中には、「研究開発センター」をチェコに置いている会社もあります。

私の仕事は、従業員250人程のプラスチック成型加工工場を一から立ち上げて(グリーンフィールド投資)、在チェコ日本企業向けに電気電子・自動車部品などを製造する会社として軌道に乗せることで、商社員として「ものの売り買い」中心の仕事をしてきた私にはすべてが初めての経験でした。加えてEU加盟を直前に控えた当時のチェコは、EUの要求に合わせるべく諸法令はじめ国の仕組み全体を大改造中であったため、工場操業の開始認可取得までは試行錯誤の日々でした。

そんな緊張の日々を癒してくれたのがピルスナー(ピルゼンビール)でした。チェコ人は無類のビール好きで、一人当たりの年間ビール消費量は約150リットルで20年連続世界一、日本人の3倍強です。日本人の「とりあえずビール」に対しチェコ人は「トコトン最後までビール」といったところでしょうか。

代表的銘柄の「ピルスナーウルケル」(ドイツ語で「ピルゼンビールの元祖」という意味)が誕生したのは170年前です。良質の原料(ボヘミア産ホップとモラヴィア産大麦)とヨーロッパでは珍しいピルゼンの軟水が透明感のある黄金色、純白で豊かな泡、そして上品なホップの香りと苦みと、三拍子揃ったピルスナーを生み、その頃普及したガラス食器の大量生産と相まって、グラスやジョッキに注いで目と喉の両方で楽しむビールが世界に広がったそうです。今日我国で製造販売されているビールの殆どがピルスナーです。ボヘミア産ホップは品質がよく、年間生産量の半分は日本に輸出されています。

ピルゼン中心部の西ボヘミア博物館前にあるこの像は、90年前に生まれ今も人気者の操り人形キャラクター、シュペイブル(父親)とフルヴィーネク(息子)の親子です。ピルゼン出身で「人形劇の父」と呼ばれるヨゼフ・スクパが生みの親です。

ところで、チェコの人形劇は操り人形(マリオネット)が中心で、観光地の土産店で様々なマリオネットを見かけます。今日でも人形劇は盛んで、単なる伝統芸能以上の意味があるようですが、人口1千万人のこの国に3000もの人形劇団があるなんて信じられます? スクパの弟子の一人で同じくピルゼン出身のイジー・トルンカは、人形劇から始めて人形アニメーションやアニメーションの監督へと展開し、斯界では「欧州のウォルト・ディズニー」と高く評価されている人物です。

我国人形美術の第一人者・故川本喜八郎が最も傾倒し、師事したことのある人形劇の巨匠がこのトルンカです。1960年代、単身チェコスロヴァキアに渡った川本はトルンカの下で学び、後年NHK人形劇「三国志」や「平家物語」はじめ多くの作品を残しました。1998年のNHK番組『世界わが心の旅 川本喜八郎 チェコ・人形の魂を求めて』に出演した73歳の川本は、トルンカ芸術の原点を求めて師匠の眠るピルゼンを訪ねています。

中央広場に面したルネサンス様式の建物がピルゼン市庁舎で、その中に姉妹都市である群馬県高崎市から贈られた大きなダルマが鎮座しています。高崎市在のビール工場と「ピルスナーウルケル」との交流が縁で1990年に姉妹都市提携に至りました。

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ピルゼンの北70kmにはヨーロッパ随一の高級温泉保養地「カルロヴィ・ヴァリ」(Karlovy-Vary)があります。チェコ語で「カレルの温泉」という意味で、旧名はドイツ語の「カールスバート」(Karlsbad、カールの温泉)でした。

チェコの歴史上最も人気のあるボヘミア王カレル1世(後に神聖ローマ皇帝カール4世)が14世紀中頃に鹿狩りの途中見つけたという伝説のある温泉で、長期滞在型療養施設として世界中の著名人たちが訪れています。例えば、ゲーテ、シラー、ベートーヴェン、ショパン、ゴーゴリ、マルクス、エジソンなどなど。ここは「温泉つながり」で草津市やドイツのBaden-Badenと姉妹都市です。

この温泉のもう一つの特徴は、「散歩しながら12種類の源泉を飲み歩く」というもので、蛇口からチョロチョロと流れ落ちる源泉を陶器の飲泉マグカップ(写真)に受け、急須の注ぎ口のような形のところから飲みます。消化器系に効果があるそうで、私も当地を何度も訪問し都度飲泉をしましたが、鉄分が多いので「薬だと思って飲めば飲める」味です。源泉の中には炭酸泉もあり、それを利用した「炭酸煎餅」も当地の名物で、右手に飲泉カップ、左手に炭酸煎餅を持った多くの観光客がぞろぞろと歩いている姿は一寸ユーモラスです。この炭酸煎餅をルーツにもつのが、上野風月堂のゴーフルです。

同社サイトの「ゴーフル誕生秘話」によれば、明治の頃から販売していた「カルルス煎餅」という炭酸煎餅に洋風クリームを挟んでゴーフルが誕生したそうです。第一次世界大戦に敗れ、ハプスブルク帝国が消滅する1918年(大正7年)までの数百年間、チェコではドイツ語が公用語であり、この温泉は旧名の「カールスバート」だったことから、「カルルス煎餅」は「カールスバートの炭酸煎餅」のことだと思われます。 ビール、操り人形、炭酸煎餅と、チェコと日本を結ぶ様々な糸があります。

この温泉地を創設する前年の1348年、カレル王は中欧で最初のプラハ大学(現在のカレル大学)を設立しました。同大学は1947年に日本研究学科を創設し日本語教育を本格的に開始しました。私はここの卒業生数名にお会いする機会がありましたが、皆さん正しくてレベルの高い日本語を話されていました。 チェコ語の母音が「ア、イ、ウ、エ、オ」の5つということが発音上馴染みやすいのかもしれません。

温泉街の近くにはボヘミアングラスの製造会社「モーゼル」の工場とグラス博物館もあります。 当地でもう一つ有名なのがリキュールの「ベヘロフカ」です。各種ハーブを配合したもので、健康増進に良いとされ、先程の「12種類の飲む温泉」の後に続く「13番目の温泉」という別名をもっています。その配合処方は秘中の秘であり、社長と工場長の二人しか知らず、リスク対策として二人は絶対に同じ飛行機には乗らない、といった冗談のような話を聞いたことがあります。

 

お仕舞いはチェコのクリスマスの風物詩「鯉」について。淡水魚の「コイ」です。

ピルゼンに赴任した年の冬のある週末、家内と共に買い出しに行ったフランス系スーパー・カルフールの魚売り場の一角に大きな水槽が置いてありました。中を覗いたら大きな鯉たちが泳いでいるではありませんか。海がないチェコでは鱒、鰻、鯰、鯉などの淡水魚をよく食べますが、普段は切り身で売られていて、生簀での生魚販売はこの時初めて見たので驚いたものです。翌週会社でチェコ人従業員に鯉の話をしたところ、チェコではクリスマス・イヴに鯉料理を食べる習慣があり、生魚を買った人は自宅のバスタブで数週間飼って泥を吐かせ、イヴに家族で食するとの説明でした。が、この話には続きがあります。バスタブの鯉の飼育は多くの家でこども(たち)の仕事で、毎日世話をしているうちに情が移り、イヴが近づくにつれ情は深まり、しまいにはペットのように思うこどもも現れたりするそうです。 その結果、こどもたちの嘆願により生き延びる鯉は、チェコ全体で毎年数百匹にのぼる、とのことです。新聞情報なので間違いありません。

欧州訪問の際には、西ボヘミアまで足を伸ばされてはいかがでしょうか。

何か新しい発見があるかもしれませんよ。

そこへ行ったときに必要なチェコ語は ただひとつ、” Na zdraví !” (ナ ズドゥラヴィー=乾杯!=健康のために!)。

25 7月

事務局長氏、第二の故郷「マーストリヒト」再発見する

今回は、駐在経験からマーストリヒトをこよなく愛する事務局長のカミングホームエッセイです。

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オランダの焼物というとデルフト陶器やマックム陶器が、先ず思い浮かぶと思いますが、江戸時代、オランダから陶器が「阿蘭陀焼」という名で日本に輸出されていたことをご存知でしょうか。そして、どこの「阿蘭陀焼」が一番多かったでしょう?
それは19世紀中~後期におけるマーストリヒト製のプリントウエア(銅板転写陶器)でした。と、わけ知り顔で書きだしましたが、実は私も最近知った話なのです。

マーストリヒトはオランダ最南端、アムステルダムから電車で約2時間半のベルギー、ドイツに接するローマ時代からの古都。マース川に架かる橋をもつ要衝の地です。日本ではEU発足の基となったマーストリヒト条約で馴染みのある小都市です。

 
鎖国期、日本におけるヨーロッパの通商の窓口であった出島からは、マーストリヒト製のテーブルウェア陶器の破片が数多く発掘されており、江戸時代末期に日本人に好まれる舶来の食器「阿蘭陀焼」として出島のオランダ商館経由で「輸入」していたことが明らかになっています。

 
現在、長崎では、かつて長崎湾に突き出していた出島本来の場所に、江戸町側からの入場を可能にする「出島橋」が完成し、今年の11月に落成のお披露目式が予定されています。この機会に日蘭交流のトピックスとして、マーストリヒトウェアの特集展示が出島内で行われます。

去る6月下旬、出島史跡整備審議会の岡泰正先生が、その展示会調査のためにマーストリヒト市の文化財を管轄する学芸員と面談されることを耳にし、お許しを得てマーストリヒトの道案内を兼ね、私も同行させていただきました。(岡先生ついては、オランダの窓に「私とオランダ絵画との出会い」という題で寄稿いただいていますので是非ご覧ください)

当時のマーストリヒト陶器―プリントウェアのメーカーはペトゥルス・レグゥー社、現在のスフィンクス社です。
スフィンクス社といってもピンと来ないかも知れませんが、日本男性が勇躍オランダに到着し、空港のトイレで小用を足す時、先ず目にするのがその便器にプリントされたスフィンクスの朝顔のロゴマ-クです。朝顔の高さにわが身の足の短さをつくづく思い知らせされるのと同時にオランダ人の身長に圧倒されるものですが、その白い陶器を作っているのがスフィンクス社です。
現在の工場は、マーストリヒトではなくユトレヒトの郊外に移っているとのこと。スイスの洗浄システムのメーカー、クロエ社の傘下に入り、現在に至っています。

 
マーストリヒトでは担当のウィム・ダイクマン先生にお世話になり、かつてレグゥー本社があった場所に近く、港に面したレグゥーのネオ・クラシック様式の邸宅をめぐり、ガラスおよび陶器産業を興隆させた大実業家の足跡をご案内いただきました。
二日目のマーストリヒト市では、セラミックセンターの収蔵庫にも特別にご案内いただき、3万点以上保管されているというレグゥー社、その後のスフィンクス社、モーザ社などの製品について、実物を見ながらご教示いただきました。 銅版転写の原版が保管されている収蔵庫は湿度を低く設定してありました。

レグゥー社の創立者ペトゥルス・ラウレンティウス・レグゥーは、1801年に生まれました。日本では江戸時代後期にあたります。若くして事業を起こし、ガラスと陶器の会社を大きくして、マーストリヒトの経済発展の基礎を築きました。
その人物と鎖国期の日本が結びついていたとは、恥かしながらマーストリヒトに3年も住んでいたのに、この度の見学で初めて知りました。まさに目から鱗でした。

レグゥー社はスフィンクス社と名を変え、やがてホテルウェアなどの食器産業から主にトイレットウェアを手がける会社へと変貌してゆくわけですが、思い返しますと、15年前、私が滞在していた頃には既にマーストリヒト工場での操業を停止しており、広大な工場跡は廃墟のような様子で、近くを歩くのはちょっと憚られる雰囲気でした。
現在、その工場跡地はマーストリヒト市の再開発エリアとして建物は大方撤去され、シンボルである巨大な本館は、モダンな映画館や、マーストリヒト大学の学生寮として改装工事が急ピッチで進んでいます。

 
マーストリヒト市内にはスイスからフランス、ベルギーを経てロッテルダムから北海に注ぐマース川がゆったりと貫流していますが、スフィンクス社工場跡地の裏手にはレグゥー社当時の倉庫群とマース川への運河につながる港湾施設が残されています。
19世紀に建てられたこのレンガ色の建物群のうち、倉庫はお洒落なカフェや個性的な工房に利用されており、当時、物流の窓口であった港には、優雅なヨットやボートが係留されています。

 
岡先生、ダイクマン先生、そして私は、港のオープン・カフェで、初夏の陽射しのもと、喉をうるおしながら話を続けました。
江戸時代、レグゥー社の皿や鉢などの陶器が、ここから川船でマース川に出て、ロッテルダム港まで運ばれ、そこで大型帆船に積みかえられ、北海、大西洋、喜望峰を回り、インド洋、オランダの通商の拠点、バタヴィアに行きつき、そこからはるばる長崎の出島まで運ばれていたことを思うと感慨深いものがありました。
出島にやってきた陶器は、「阿蘭陀焼」として日本中で販売されました。オランダは、伊万里を「輸入」していただけではなかったのです。
出島に到来したマーストリヒト陶器が誕生した場所と、出発の港を目の前にして、冷えたベルギーのビールを飲みながら、お二人の先生の学術的な話を聞いていますと、陶器の通商を超えた歴史のロマンを感じ、ガラにもなく感動が私を満していきました。

帰途、アムステルダム、デルフト、デン・ハーグで美術館行脚。デン・ハーグのマウリッツハイス美術館では、岡先生がゴーデンカー館長と懇意でもありVIP待遇で鑑賞させていただきました。

 
今回、果たして道案内役が務まったかどうか心もとない限りですが、第二の故郷のマーストリヒトの歴史の側面を体感することができ、また岡先生から道々、絵画の見方などなど、いろいろなことを教えていただき、濃厚で有意義な一週間の「研修の旅」を終えたのでした。

23 5月

ムシと樹とオランダ人

久しぶりのリレーブログは、今年から世話人に仲間入りした勝野さんです。虫とオランダ人のおもしろいエピソードです。

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こんにちは。今年の総会で新世話人として承認して頂いた勝野です。よろしくお願いいたします。

私は2007年12月から2011年1月までオランダのナイメーヘン市に住んでいました。今回は、オランダに住んで半年経ち、ちょっと慣れてきた頃の2008年5月の出来事について書いてみます。
*注:虫がお嫌いな方は写真を拡大なさらないようにして下さい!

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私が住んでいたのはナイメーヘン市の南の郊外のデューケンブルグという地域。家の近くには大きな木の並木道があり、その横のお堀では鴨の親子が泳いでいるのどかなところでした。
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5月のある日、その並木道の木がどうも白っぽくなっているような気がしたのです。タンポポの綿毛のようなのでも自分で発生させているのだろうか? と気楽に思っていたのですが、日を追うごとに木々はますます白くなっていきます。まるで細い糸に覆われているかのように。これはただごとではない。

意を決して近づいてみると、糸の中には何千何万という数の虫が!

この虫が出す糸はどんどん液体のように流れていって、鴨の親子がいるお堀にまでなだれこんでいます。

こんな状態になってしまった木がこの通り沿いに約50本もありました。

オランダ人にとっても目を引く光景らしく、写真を撮ったり、集まって井戸端会議を開く方々がいたので、会議に参加してみました。

私:キモチワルイですよね。
ご近所さん: あらそんなことないわよ。ステキだわ。
私: (ええっ、ステキ??)なぜステキなんですか?
ご近所さん: この虫は害はないのよ。そのうちキレイな白い蝶々がたくさん出てくるわ。そしたら木も元通りになるのよ。

そうか、オランダ人はこの現象をCoolだと思っているのか! 目から鱗が落ちた瞬間でした。日本だったら「消毒しろー!」という声のもとに、あっという間に農薬等が撒かれていたことでしょう。

その後虫たちはさなぎの時期を経て、6月下旬に無事羽化し、悪さもせずに飛び立っていきました。蝶には・・あまり見えませんでしたが。

しばらくすると葉っぱも復活し、ご近所さんが言っていたように木も元通りになりました。

なんでも日本のやり方が一番なんて思っていなかったけれど、このような現象もポジティブに受け止め、自然を無理に人間に合わさせないという考えがこの国の人にはあるのだなと思わされた、オランダ滞在初期のインパクトのあるできごとでした。

 

19 1月

ここもオランダ?なの?

2017年第一弾のメンバーブログは副会長の白石さんです。昨年訪れたオランダについて。白石さんの訪れたオランダは、カリブ海にありました!

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行ってきました!

カリブ海に浮かぶ小さなオランダアルバ島へ。カリブ海にはABCアイランドというオランダ王国の島が3つ浮かんでいます。Aはアルバ島、Bはボネール島、Cはキュラソ島です。蘭領リーワード・アンティル諸島と言われ、これらの島からはオリンピックや、ワールドベイスボールにオランダ代表として野球選手を大勢出していることで有名です。高度な自治が認められたオランダ王国の構成国となっています。

アルバという名は、スペイン語のoro huba(黄金がある)から来ているという説があるようです。島の北海岸沿いに金精錬工場跡というのがありますが、かつては金が採れたのでしょうか。

 

大航海時代以降、これらの島はスペインが発見しオランダに征服されたという歴史を持っています。アルバ島はハリケーンの影響を受けないリゾート地として開発されました。
観光客は殆どがアメリカ人でカリブ海のラスベガスとも言われています。主な産業は観光ですが、住民の生活レベルは高いということです。住民がハッピーだという証拠に自動車にこのようなナンバープレートがついています。「HAPPY ISLAND」

 

島には特にオランダらしい雰囲気はありませんが、島の北に唯一観光客の呼べるカルフォルニア灯台という名所があります。そこの売店にオランダ前女王、今国王、オランダの特徴的な写真などが飾られています。また、道路もいわゆるオランダ形式のラウンドアバウトで信号のないロータリー状になっています。

 

大変乾燥した気候なので、サボテン以外の植物は育たないようです。街路樹、家の塀、空地も皆サボテンです。家の塀などはサボテンのトゲで守られるのでしょう。いいアイデアだと思います。このサボテンはなんと10メートルにも伸びるそうです。ただ雨が降らない土地柄で水不足は深刻。でも先進国の洗練を受けて海水を真水に変える大きな工場がありました。世界でも2番目の大きさだとか。その工場から住民は水道を引いて生活水にしているということです。文明の力は素晴らしい。

サボテンの実を初めて目にしました。

 

宗教はカソリックが主流です。オランダはプロテスタントですが、宗教までは規制してはいないようです。ただ教育と軍事はオランダ式です。殆どの子供達は最終的にはオランダ本国で教育を受けるそうです。
数年前にはアロエの輸出が世界でもダントツでした。アロエのハンドクリームやスキンジェルなどがお土産として売っていました。納得です。

パピアメント語というオランダ、スペイン、ポルトガル語などが混ざった混成語が一般に
使われています。人種も殆どが混血です。文化の異種混淆が未来社会にとって重要だとは様々な学者が述べていますが、まさにその姿をこの地方に見ることができます。

たまたま訪れたリゾートホテルの庭にある石山でイグアナを発見。彼(彼女?)はのんびりと散歩の途中だったようです。
こうしてアルバ島を体験して、多様なオランダをここにも発見した感がしました。

 

09

 

23 11月

シンタクラースオランダ上陸

こんにちは。世話人の水迫です。11月からオランダはハーグに滞在しています。11月は、国王の日に続くオランダ最大のイベント、シンタクラースがはじまる月です。果たしてどんなイベントなのでしょうか?

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まず、シンタクラースについてご説明しましょう。

シンタクラースは聖ニコラウスのことで、オランダでは14世紀から聖ニコラウスの命日(12月6日)を祝う習慣があったそうです。現在では、11月中旬(第2週の土曜日)に、シンタクラースと彼の従者ズワルトピート(黒いピート)が、スペインから蒸気船でオランダにやってきて、白い馬に乗って、オランダ全土を行脚してながらよい子を訪ねます。その期間、こどもたちが馬のごはんであるニンジンや、手紙などを靴に入れ、暖炉の前において置いておくと、夜中にズワルトピートが煙突からやってきて、チョコやキャンディと交換してくれます。そして12月5日、朝、リリーンと玄関の呼び鈴が鳴るのでドアを開けると、人の姿はなく、あるのは大きな麻袋。シンタクラースがよい子へのプレゼントとおいていったのです。プレゼントを配り終えると、ズワルトピートとともにスペインに戻ります。しかし、帰る姿を見た人は誰一人としていません。ちなみに、サンタクロースの原型はこのシンタクラースにあるといわれています。

11月第2の土曜日、このお祭りの最大イベントであるシンタクラースのオランダ上陸をスケベニンゲンに見に行ってきました。ところで、そっとお伝えしますが、シンタクラースには”メイン”と”ローカル”の2種類があります。全国ネットで生放映されるシンタクラースがメイン、ローカルネットで生中継されるのがローカルです。公式のほうは毎年、寄港する場所が変わり、今年はMaassluisという場所です。「当日、どのくらいの人数のシンタクラースがオランダに来るの?」と聞くと、なに聞いているのとばかり、「ひとりに決まってんじゃん」。昔はメインとローカルの上陸時間に時間差をつけてシンタクラースがオランダに一挙に到着しないようにしていたそうです。子どもの夢をぶち壊さないよう周到に仕込むその情熱は、さすがイベント大国です。

スケベニンゲンの港に設けられた特設舞台は盛り上がりをみせています。

ズワルトピートがすでにあちこちで出没し、子どもに挨拶したり、お菓子をくばっていたりしています。シンタクラースのお手伝いをするズワルトピートは、シャネルズ顔負けの真っ黒い顔、天パの黒髪、赤いくちびる、羽飾りのついた帽子、カーニバル風のカラフルな派手な衣装が特徴です。

シンタクラースの助手として、お菓子くばり、お掃除、お料理、馬のお世話などあらゆる仕事をします。シンタクラースの従順な助手というよりも、ちょっとおっちょこちょいでせわしなく、子どもと一緒に騒ぐのが大好きなキャラクターのようです。だからか、子どもたちの間で絶大なる人気を誇ります。子どものコスプレも、シンタクラースよりも圧倒的にズワルトピートのほうが多いです。

ここ2~3年、ズワルトピートは人種差別的だという議論がもちあがり、黒塗り廃止にまで追い込まれそうな感じになっています。が、そんな論議はどこ吹く風とばかりに、当日は黒塗りだらけ。とはいえ、公式シンタクラースのほうでは、顔に煤がついたズワルトピート(煙突を使うのだから顔は汚れるしという理由から)で決着をつけようとしているようです。

ズワルトピートは確かにシンタクラースが黒人をお付きにしたという話から始まっているものの、人種差別議論は、ちょっとナンセンスかなと思いました。というのも、子どもにとってズワルトピートはズワルトピート以外の何者でもないからです。黒塗りキャラとしてできあがっており、そこに人種などの問題はみじんにも感じません。子どもたちの笑顔で分かります。これからはじまる楽しいイベント週間にやってくる楽しい仲間。そして、大人の側も、ズワルトピートの黒塗りにすることで、子どもの世界に帰ることができるペルソナのような役割を果たしていると思います。

スケベニンゲンでは、仮設会場の歌やらダンスやらがますます盛り上がりをみせていると、ボーッという汽笛が聞こえてきました。100人はくだらない数のズワルトピートを乗せた船がやってきました。赤い帽子、赤いマント、真っ白なおひげのシンタクラースの姿もあります!

船が港に横づけされ、シンタクラースを先頭にスケベニンゲンに上陸。まずハーグ市長がお迎します。次にスペイン大使からも歓迎のスピーチ。次いでプレゼント配り隊、楽隊ピートと、ズワルトピートもぞくぞく上陸します。

上陸後、ルートに従い街の中をパレードします。街中のルートにはすでに人垣ができています。ズワルトピートも出没し、子どもにお菓子を配っています。ちなみに企業ピートもいて、子どもにはお菓子、大人にはチラシを渡していました。

待つこと30分ほど。警察に先導され、パレードがやってきました。楽隊ピート、馬ピート、バービーピート、なぜかシンデレラ、デパートピート、八百屋ピート、踊るピート、地元魚屋ピート、消防ピート、DJピート、いろんなピートがやってきます。ピート、お菓子くばってー、こっち向いてー、ハイタッチして~とあちこちから歓声があがります。

延々とピートパレードが続き、やっと白い馬にのったシンタクラースの姿が見えてきました。聖人というよりも、みんなに愛されている棟梁みたいな印象です。

シンタクラースは子どもだけではなく、大人、ひいてはオランダ人全員のお祭りだと実感しました。大人はシンタクラースとズワルトピートが本当にいるとはもはや思っていませんが、シンタクラースが船でやってきたその瞬間から、子どもとはまた違う次元でその存在を信じているように思います。このお祭りを前に「大人らしくふるまう」作法は無用のよう。そして、自分が小さい頃眼をキラキラ輝かせていたように、あるいはそれ以上に、子どもらがシンタクラースを楽しめるよう、全力を尽くしています。

12月上旬まで、街角でズワルトピート、シンタクラースに出会うのを楽しみにしています。

17 10月

スヘフェニンゲンの思い出

リレーブログ第8回は、監事の田中さんです。ロッテルダムの日本人学校の校長だった田中先生の、オランダの思い出の一片をおすそわけ。
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新聞に、「盗難ゴッホ 伊で発見」という記事が載っていました。14年前の2002年12月、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館から盗み出された油絵2点が、イタリア南部ナポリのマフィアのアジトで発見され、押収したというものです。 作品は、「ニューネンのプロテスタント協会を出る会衆」と「スヘフェニンゲンの海の眺め」の2点で、いずれもゴッホがフランスに移り住む前の1810年代に描かれた作品とされているものです。額縁がなくなった以外おおむね良好な状態で、オランダへ返還される予定とのことです。地元メディアによると、市場価格は2点合わせて数百万ユーロ(数億円)になるということです。

新聞に載ったこの二つの絵は、ゴッホ美術館で見た記憶があり、滞在当時のカタログを久々に出してみました。カタログでは「ニューネンの改革教会」「嵐が迫るスヘフェニンゲンの浜辺」という題名で載っていました。この記事のおかげで、スヘフェニンゲンの風景をあらためて思い浮かべることとなりました。

スヘフェニンゲンはハーグ市内から電車で15分ほどのところにあるリゾート地域の美しい海岸で、夏は日光浴を楽しむ人で賑わう所です。また、魚介類を扱う店があり、ロッテルダムからよく買い出しに通った思い出のある海岸でもあります。ここではマグロや数の子なども手に入れることができました。

「スへフェ」という発音は喉の奥を震わせるようなオランダ独特の発音をします。世界大戦中、敵国ドイツ兵を識別する言葉に使われたと言われています。在住する日本人から、最初は「スケーべニンゲン」と教わり、なんともまた変わった地名があるものだと思ったものです。発音が難しいためスケーべとしたほうが簡単で、地名が覚えやすかったのかもしれません。この浜辺はトップレスで日光浴をする姿が見られることがあり、そうした光景に出くわすと、見て見ぬ振りしながらも、まさにスケベニンゲンとなってしまうのです。

ここでは、日本であまり知られていない行事があります。それは正月元日に行われる寒中水泳です。元日の朝、オランダ各地から大勢の人が集まり、真冬の冷たい北海に入るのです。浜辺に大きなステージが作られ、大音響とともにインストラクターがエアロビクスのような体操をし始めると、水着姿の群衆が一斉にそれに合わせて掛け声を出しながら体操をし始めます。冷たい海に入るため、長時間にわたり入念に準備運動が行われ、その熱気は寒気の中に湯気が立つほどでした。12時の時報とともに、一斉に海に向かい入水するも、その多くは下半身が浸かるくらいのところですぐに引き返すのでした。北海の冷たさは、それ以上人を寄せ付けなかったのです。

この光景は、日本でいう禊(みそぎ)のオランダ版ではないかと思いました。オランダの元旦はこうして開けるのです。この時の様子を撮った記憶があり、アルバムの中から探し出し、今は昔となったスヘフェニンゲンの思い出に浸るのでした。

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次回は世話人の水迫が、シンタクラースを現地より実況中継する予定です! お楽しみに。

25 4月

オランダと私

リレーブログ第7回は、世話人の岩波さんです。幼い頃から今までのオランダとのおつきあいを語っていただきます。
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私にとってオランダのイメージは、「低地に住む、自転車が大好きな、強くて大きな人たちが世界的ビジネスを行う国」です。

初めてオランダを意識したのは、東京オリンピックの時でした。当時小学1年生でしたが、オランダのヘーシング選手が柔道「無差別級」で金メダルを獲得し、「柔道で一番強い人は、日本人ではなくてオランダ人か!」と子供心にびっくりしました。

相前後して、我が家の本棚に、世界文化社が出した『世界の国を紹介する』全24巻のシリーズが加わるようになりました。オランダは、第6巻にベルギーとルクセンブルグを加えて「ベネルックス」として紹介されております。この本は今でも手元にございますが、その中に、「白人の中でもっとも大柄だというオランダ人」という文章が記載されていたので、私の中で、オランダ人は強い人に加えて「世界で一番大きい人」というイメージも定着しました。

 

次にオランダを知ったのは、犬養道子さんの『お嬢さん放浪記』と『アンネフランクの日記』を通じてでした。犬養さんのオランダでの大洪水の描写に、低地国であることを実感し、また『アンネフランクの日記』では、我が母と同じ年のアンネフランクとその家族が、ドイツのフランクフルトからオランダにわたり、第二次世界大戦下にどんな生活を強いられていたかを学び、ユダヤ人難民を国内に受け入れるオランダは「寛大なよい国だ」と思いました。その後、関連本の『思い出のアンネフランク』『アンネとヨーピー』『アンネの伝記』等が出版されるたびに購入し、オランダ人のヨーピーさんやユダヤ人のアンネフランクの義理の妹さん等が来日すると知るや、講演会にも行って、本にサインをしてもらいました。

 

1960年代~70年代はTVコマーシャル全盛の時代で、ネスカフェ(今はネスレですね)が、インスタントコーヒーのコマーシャルでの中で、「アムステルダムの朝は早い」のキャッチフレーズとともに、コーヒーの湯気と、運河と跳ね橋と自転車に乗った人々を紹介していました。その美しい映像に、「いつの日かアムステルダムに行ってみたいなぁ」とあこがれ、一方で「私は自転車に乗れないからオランダに行ったら不便だわ」と嘆いておりました。

 

オランダでもう一つ大好きなのが、絵画です。大学1年の一般教養で「美術史」の授業をとったとき、古今東西の様々な絵画の名作を先生からスライドで見せてもらいましたが、その中で一番衝撃を受けたのがレンブラントの「夜警」でした。「アムステルダム国立美術館に所蔵されているのだ」「あの光と影が醸し出す描写を、いつかぜひ一度この目で見たい」と切望しました(それから20年後に実現します)。

 

社会で働くようになってからは、オランダには、世界的企業がいくつもあることを知るようになりました。Fortune 500 Globalの企業として、Royal Dutch Shellや保険のINGは常連ですし、ブランドうさぎのミッフィーちゃん、私にはコーヒーメーカーイメージが強いけれど家電製品のみならずヘルスケアの部門でもご活躍のフィリップス、ビールのハイネケン、日本市場でもシェアが高いユニリーバ、そしてKLMオランダ航空等々、九州とほぼ面接が同じくらいの、人口が1700万人足らずの国なのに、世界的企業の数とその売り上げおよびビジネス展開は、素晴らしいと感心してしまいます。オランダ東インド会社はまさにグローバル企業のパイオニアであり、その商人魂が、脈々と受け継がれているのでしょう。

 

一生に1度は、どうしてもオランダを訪ねてみたくて、1990年代の初め、パリから無理して1泊で出かけました。当時のアムステルダムは至るところ「落書き」だらけの街で、いささかがっかりしましたが、あこがれのレンブラントの「夜警」を眺め、アンネフランクの隠れ家に行き、屋台のニシンを食べて、運河クルーズにも乗船して、大満足いたしました。

縁あって、現在、オランダ友好協会の世話役を務めておりますが、FANのオランダ通の皆さまから、いろいろなオランダの知識を教えていただけることを、とても楽しみにしております。

 

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次回は世話人の田中さんのブログです。お楽しみに!

01 4月

水の都 東京・オランダ

リレーブログ第6回は、顧問の小澤さんです。日本橋周辺などの水辺環境の再生に取り組む建築家らしい、オランダとのつながりを語っていただいています。
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「運河環境の再生構想」から
オランダとの関わりは、12年前の2004年から始まりました。東京で開かれた国際シンポジウムに、市街地環境を再生させる構想の一端である「水辺環境の再生」をテーマとして参加、そこで、当時のアムステルダム都市計画局長の講演を聞く機会がありました。その後、一緒にゴムボートで日本橋川などをクルージングし、局長に小生の日本橋川など水辺環境の再生構想図の絵葉書を手渡しました。それが、オランダとのきっかけです。

その構想図は、運河の下に地下総合都市基盤をつくり、高速道路などの交通施設、水道や電気などのライフラインとともに商業施設をつくるという、採算性や利回りも考慮したプランを図化したものです。国内の専門家よりはオランダなど海外の方々のほうがすぐわかってくれて、ひょっとして海外で実現するかもしれないという思いもありました。その時、「近々アムステルダムに遊びに行きたい」と調子のいいことを交わしたこともあり、2年後の2006年のオランダ初訪問につながりました。

ピンチからチャンスが広がる
最初の旅は、アムステルダムとユトレヒトでした。再度オランダに行くきっかけとなったのは、信号機がないのに事故がない安全な町、ハウテンを知ったことでした。ユトレヒトの傍の町、ハウテンを見るために出かけたのは2008年。しかし、初日のアムステルダムの宿に着くなり切符や宿を手配していた旅行会社が倒産し、予約がキャンセルされている事態に直面しました。野宿になるのかと不安になりましたが、それらのピンチをきりぬく時に体験したことが、オランダとのさらに深い関わりとなったのです。

帰国2日前の宿でもダブルブッキングというトラブルに見舞われ、他の宿へ移動を余儀なくされたのですが、それが次のチャンスとなりました。チャンスとは、その宿でたまたま見た雑誌の記事でした。小生の総合地下基盤構想と同様の計画が、未来のアムステルダム市の計画として紹介されていたのです。期待していた構想の波及が起こっていることを知った歓びとともに、その内容調査のために再度オランダを訪問。その後、毎年訪問することになり、その積み重ねによって、様々な方との繋がりがさらに広がり、描いた絵の発表をはじめ、沢山の機会をいただくことができ、オランダの認識もより深めることができました。

繋がりの昔、今
3度目の訪問は、運河下の地下基盤に関する調査・ヒアリングの旅。大学院生の同行もあったので、事前のリサーチやコンタクト、通訳をアムステルダム居住の奈良さんにお願いしました。以来、奈良さんから沢山の機会をいただいております。同行した大学院生が言うには、このまま日本に帰らず居続けるのではないかと心配するくらいに、小生はオランダになじんでいたようです。小生の発想や行動がオランダ的に見えた、あるいは想像以上にエンジョイしているように見えたのではと想像されます。

時を重ねる度に、日本、江戸、東京、日本橋、室町、築地の町など身近な生活の場の環境づくりにも、オランダが深く関わっていたのだろうと想いを巡らしております。現在は、これからの技術や政策等への最先端の試行や実践、そして根底にある文化にさらなる関心を深めているところです。そうした歴史を含め、これからの世に指針を示しているオランダから得た様々な知見を広めたいと、授業や講演、論文や雑誌、展示など、機会をつかまえては、非力ながらもオランダを話題にしております。

ミラノ万博でのオランダパビリオン
昨年訪れたミラノ万博の出展でも、オランダは最先端の在り方を感じさせてくれました。

万博のテーマは「食と環境」。日本は食文化を主題として、鮨を食べる映像で訪問者が疑似体験をするというプログラムもありました。外壁を間伐材で覆ったパビリオンは、正直「?」でした。うねった龍のようなはりぼてが目立つロシアや中国のパビリオンに比べて日本は形は控えめなものの、天ぷらのころもを付けたような造りに、少し恥ずかしさも感じました。

そんな力を誇示するようなパビリオンが並ぶ中で、オランダのメイン会場はキッチンカーを周りに数台置いた休息広場でした。「Share」の表示を掲げ、パラソルや野外ステージ、簡易な池、そして牛の像だけで、パビリオンなしでした。炎天下のなか、誇示はもうたくさんだと感じる頃、気楽に休息のひとときを過ごせる「Share」の場づくり。さすが、デザインの最先端を歩んでいるオランダと嬉しく感じました。その奥には低層の目立たないレストランもありましたが、それは休む人の選択肢の一つとしての施設。そこから少し離れた裏に、芝生の斜面のような建物、オランダの農業によるバイオエネルギーの実践を見せる展示館を発見しました。実際の耕作やプラントの様子とともに、超大型の専用農業機械に乗れることもできます。新たなエネルギーを作りだす方法を、映像のみではなく、現物で体験するという説得力のある展示で、ビジネスにつなげんとするたくましい商魂とともに、次への挑戦への取り組み、啓蒙に心が動かされました。

最先端の国オランダを知る歓びと活動
あらゆる分野で最先端をいく歴史があり、現在も最先端を走る国、オランダ。教育、医療福祉、人権、弱者対応、金融、国際対応、貿易、農業、工業、交通、建設、芸術……。訪問を重ねる度に、どの分野も説得力のある新たな取組みがあり、理想の社会に向かっての実践の積み上げもあると感じます。

例えば、絵の歴史では、レンブラントをはじめゴッホやモンドリアンなど、いずれも次の時代を開く技法のみならず見方や考え方も示した先人が生まれ育ち、現在も音楽やデザインを含めて最先端の人材が活躍しています。しかし、日本では、そうした先進性や素晴らしさはあまり知られておらず、むしろ、自国を先進であると自画自賛し、既得権を守り、他国を軽んじ、学ぼうとしていないのではと感じることも度々あります。

多くの方にオランダの素晴らしさを知っていただこうと思っておりますが、力不足でなかなか伝わりません。毎土・日曜の昼、日本橋のたもとで、自動車道路で壊された日本橋川などの運河や水辺の再生事業の呼びかけとともに、オランダなどの絵も展示している野外ライブをしています。今年で13年目に入りますが、続けられる支えは、自分の心にしかないと思っております。その様子は、物乞いの演奏やホームレスに間違えられる時もあるようですが、思い返せば、故郷の環境や記憶の場が変えられ、また、いられなくなるような境遇では、小生もむしろホームレスを自覚していなかったホームレスなのだと気づきます。活動に上から目線を感じる時には、橋の下の目線でいられる歓びに変えます。

逆に自尊心をくすぐられる点は、自分が作成した構想図が、最先端の国の首都アムステルダムや最先端のデルフト工科大学が2008年に発表した内容とほぼ同様であること、そして小生がオランダの発表よりも4年前に発案・発表していることです。先進国よりも先進の構想なのではという自惚れとともに、ここだけではなく広く波及性のある実現に向けて胸を張れる思いがあります。また、組織や予定調和では得られない、思いがけない出会いや語らいもあります。

日本橋のたもとで活動の姿を見かけられた際には、お声がけいただければ幸いです。後ろのカフェテラスで、出会いと語らいの時間をいただければさら更に感謝です。

 
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次回は世話人の岩波さんのブログです。お楽しみに!
 

03 2月

花と絵

リレーブログ第5回は、世話人の鈴木さんです。オランダとイタリアの思い出を語っていただきました。

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花と絵

会員の皆さんは、幾度となくオランダに足を運んだことがあるのではないでしょうか。一方、私の訪蘭といえば1度です。しかし、忘れ難い思い出として、心に残っています。

その貴重なオランダ行は、仕事でした。1990年、アジアで初めて「花と緑の博覧会」が大阪で開催されることになりました。その3年前の1987年、オランダ政府から園芸事業調査ミッションの申し入れがありました。当時、貿易事業担当役員だったオランダ友好協会の初代会長の故石原滋氏が団長としてセゾングループ各社の関係者8名で視察団が構成され、私はその一員に選ばれました。

オランダでは、10年ごとに「フロリアード」という国際 園芸博覧会が開催されているように、園芸大国としてその名を世界に知られています。私たち視察団は、アールスメール花市場やボスコープ植木市場、植物研究所などを10日間にわたり状況視察しました。

園芸大国の実情をつぶさに見学できたことは大いに参考になり、その後、グループ内の園芸事業部門の運営にたずさわるきっかけにもなりました。

 

オランダといえば「チューリップ」の代名詞となっていますが、実は日本もチューリップ球根の大きな輸出国なのです。主要生産地である富山では大正時代から栽培が始まり、昭和13年に初めて米国に輸出されました。以後、チューリップ栽培は順調に推移し、オランダに次ぐチューリップ輸出国となったのです。富山県の砺波野では、今でも4月下旬に700品種、300万本のチューリップが咲き乱れます。

当時、輸入球根は生産地保護のために隔離栽培が義務づけられていました。オランダ政府から自由化ための隔離栽培撤廃の強い申し入れもあって、現在、隔離栽培は撤廃されています。

植物検疫官がオランダに常駐することで撤廃となったのですが、球根のみならず、切り花をはじめとして園芸植物が大量に輸入されるきっかけにもなりました。日本のチューリップ生産地の減少という負の部分もありますが、一方で様々な花を楽しめるようになりました。アマリリス球根ポットも、そのひとつです。我が家でも、冬になると、このアマリリス球根ポットを窓辺に置いて、早咲きの花を楽しんでいます。

 

外国で体験することは、様々な気づきを与えてくれます。オランダでの花の視察旅行の他にもうひとつ、体験をお話したいと思います。それはイタリアを旅した時でした。

私はクリスチャンで、「アッシジのフランチェスコ」という洗礼名をもっています。2007年10月、イタリア人で藤田嗣治の研究家、ピノ・マレラ氏に同行してアッシジを訪れました。それまでの藤田嗣治に関しての私の知識は、東京美術学校(現:東京芸術大学)の西洋画科を卒業後、フランスへ留学、フランスに帰化したおかっぱ頭でロイドめがねという風貌の画家という程度のものでした。

訪れたアッシジでは、サンピエトロ寺院美術館で、藤田嗣治展が開催されていました。そこに展示されていた作品は絵画ではなく、1951年にミラノ・スカラ座でのオペラ『蝶々夫人』の舞台演出のための舞台スケッチと舞台衣装の作品群でした。日本を舞台にした『蝶々夫人』は、外国でよく知られたオペラです。舞台スケッチには、日本の文化・風俗を表現することに細心の注意を払ったものでした。1955年、アメリカ・シカゴで上演されたミラノ・スカラ座のプリマ・ドンナ、マリア・カラスの舞台衣装なども展示されていました。藤田嗣治が、日本文化と風俗を海外にしっかり伝えるために尽力していたということに大変感銘を受けました。以来、藤田嗣治(レオナール・フジタ)の作品を鑑賞するのが楽しみになりました。

帰国してからは、藤田嗣治の随筆集である『地を泳ぐ』、『腕一本』をはじめ、彼の生涯を解説した『異邦人の生涯』などを読み漁りました。日本人としての誇りを作品に表したその生き方を読み取るために、展覧会には必ず足を運んで、じっくり鑑賞することを楽しみのひとつにしています。

 

次回は、特別寄稿を予定しています。お楽しみに!

15 12月

我が青春時代のオランダ

リレーブログ第4回は、会長の村岡さんです。オランダには特別な思い出があるそうです。その思い出とは??

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会長とは名ばかりで、オランダには住んだこともなく、同国についての知識に乏しい私には、これまでの執筆者のような立派なご報告をするような材料を持ちあわせませんので、オランダに纏わるごく個人的な懐旧談をひとつだけ。

もう50年以上前の1963年(昭和38年)、私は、当時は未だ西ドイツだったフランクフルトに遊学中でした。学生の身分で、お金はないけれど暇はありあまるほどありました。丁度ボン大学に留学されていた高校時代のドイツ語の恩師であると共に、勝手に兄貴とも恃んでいた村田経和先生のお誘いにのって、ベネルックス3国を回る旅に同行させていただきました。村田先生は、旧日本陸軍の公式銃として評価の高い「村田銃」の開発者である高名な薩摩藩士村田経芳の曽孫です。残念ながら2011年に逝去されました。先生の他に、後に上智大学で教鞭をとることとなるヨープスト氏も一緒でした。

さて、先生の中古の“通称かぶと虫”フォルクスワーゲンを駆って、ベルギー・オランダ・ルクセンブルグを回る気儘な3人旅がはじまりました。泊まりは、ペンションとか、町の郊外のプチホテルがほとんどでしたが、ちょくちょく3人部屋を利用しました。そんな時のヨープスト氏の村田先生に対する態度は、まるで寄り添う恋人のようで、その何とも言えない艶めかしさに、慣れない私はハラハラドキドキ、戸惑うばかりでした。でも、心配ご無用、実は村田先生には、既にお付き合いしていたインゲボルクさんの存在を、私自身が知らなかっただけでした。インゲボルグさんは、当時ボン大学に在学中、その後先生と結婚、日本に来られて、現在はいわゆる「外人タレント」として活躍。先年、NHK朝ドラ「マッサン」ではヒロイン・エリーのスコットランド人の母親役で出演されました。

城壁と渓谷の城砦都市ルクセンブルクは、あっという間に一巡り。

ベルギーのブラッセルでは、旬のムール貝を文字通りバケツ一杯、白ワインとともに堪能しました。

そして愈々オランダに入国。ハーグ、アムステルダムを観光して、旅の最後に赴いたのは、ドイツとの国境に近いライン川沿いの街Arnhem。アーネムと云いますが、当時はアルンヘムともアンヒムとも発音していたように思います。「だまし絵」の版画家M.C.エッシャーの生地でもあります。

その郊外デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園内には、「クレラーミュラー美術館」があります。ドイツの実業家夫妻が収蔵していたヴィンセント・ファン・ゴッホの絵画を主体に、1938年に開館した美術館です。「ゴッホの森」と呼ばれる、森というより、幾分荒涼とした疎林の中の「ゴッホ美術館」は、アムステルダムのそれと並ぶ「二大ゴッホ美術館」ですが、近年の研究によると、贋作とされる作品も相当含まれると云うことです。これは、先日、吉屋敬さん(ゴッホ研究家で、オランダ在住の女流画家。作家吉屋信子の娘さん)から伺ったことです。

さて、私に関しては、この美術館の中のトイレで、なんと、大事に首にかけていたロケットを失くしてしまいました。その中には、当時先を約束していたガールフレンドの写真が納まっていたのです。何故かその時から、急に彼女が遠い存在になってしまい、とうとう約束も反故となったのでした。若い時分にはよくあることでしょうが、このことから、オランダは、私の人生の転機ともなり、同時に苦い重荷ともなっています。

つい先日、当時寂しく綴っていた、その名も「続・孤独の詩集」の中に、その頃の心境を歌った一篇を見つけました。限りなくお恥ずかしいお話しの更に恥の上塗りともなりますので、掲載は遠慮して、これで次の方にこのリレーブログを引き継ぎたいと思います。

写真:水迫尚子

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次回は世話人の鈴木さんです。お楽しみに!