16 3月

新型コロナウィルスでオランダは今?!

今回は、オランダに住む広報担当の水迫から、新型コロナウィルスが拡大してるオランダの現状報告です。今、彼の地はどうなっているのでしょう?

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こんにちは。ハーグ在住の水迫です。WHOがパンデミックを宣言、震源地は今や欧州に移ったと報告しました。イタリアの全面封鎖(Lock downと言われています)にはじまり、スペインも、フランスもレストランや映画館など多くの商店が閉鎖、3月15日、ついにオランダも全学校休校、レストラン、カフェが4月6日まで休業となりました。2月中旬から一か月のオランダの変化を、生活目線でお伝えします。

 

2月中旬……差別の噂が飛び交う
ちょうど日本で感染者が拡大して大騒ぎになっていた頃。オランダは感染者数ゼロで、ハーグの中華街では旧正月の爆竹が盛大に鳴り響き、しばらくしてオランダ南部では恒例のカーニバルが例年どおりに始まりました。すでに北部イタリアで感染拡大が話題にはのぼっていましたが、まるで他人事。3月初旬に一時帰国する予定にしていた私は、帰るかか否かで迷いまくり、情報を集めまくっていたので、自分と世間との温度差は、極寒と亜熱帯くらい違うものでした。

その頃、ポツポツと中国人(ひいてはアジア人)が差別されるという噂が入ってきました。とある日本人ご家庭では、子どもが学校でばい菌扱いされて泣いて帰ってきたそうです。確かにその頃は、コロナウィルス=中国を発端にアジアが広めた迷惑なモノという扱いでしたから、マスクなぞして外出しようもんなら「危ないアジア人」認定されそうな空気感がありました。

私も、友人とアムステルダムを歩いていたら、向こうから歩いてきたオランダ人にすれ違いざまに「xxxxJapans」と言われました。「xxxx」が聞き取れなかったのですが、笑っていなかったし、若干捨て台詞っぽかったので、よいことではなかったと思います。いい気持ちはしませんが、そういった人たちを相手に一喜一憂するのは時間の無駄。その後に入ったカフェの店員さんのとびっきりの笑顔が全てを帳消しにしてくれました。

関東にいる兄家族から「マスクがなくて困っている」という話を聞いていたので、帰る気でいた私は、マスクをお土産にしようと思い立ちました。

さて。どこで買えばいいのだろう? オランダにもマツキヨのようなドラッグストアがありますが、マスクを見かけたことがありません。というか、そもそもマスクをつけた人を街中で見かけたことがありません。花粉症がないからでしょ!という声が聞こえてきそうですが、白樺やヤナギの花粉症はあります。春に日本に遊びに来たオランダ人から「なんでみんなマスクしてるの? 病気なの?」という質問をよく受けたものですが、それだけマスクに馴染みがないわけで、「マスク着用で危ない人認定されそう」は、そういった背景があります。

オランダ人夫から、”DIYショップに行け”アドバイスをもらい、DIYチェーン店ショップ「Karwei」に行くことにへ。

DIYショップでは粉塵マスクしかなく、1つ€4は下らないお値段。高いなあ、でも30個くらいは送りたいかなあと、ぽいぽい買い物かごに入れていたら、かさばることもあってあっという間に山盛りに。コロナウィルス=アジア人の図式が目立っていた時期だけに、顔から火がでるほど恥ずかしく、レジに並ぶ後ろのカップルも、その量に目を丸くしています。キャッシャーのおばちゃんに聞かれもしないのに「日本にいる家族がね、マスクがないらしくてね」と言い訳をすると、おばちゃんは「そうよね、日本は大変よね~」といたく同情してくれました。オランダ人にとっては、そのくらい遠い話でした。

 

2月下旬……初の感染者1人。手洗いソープが棚から消える
2月27日、オランダで初感染者が報告されました。ゼロなはずがないというのが世間の見方だったので、やっと報告があったと、どちらかといえばほっとした印象でした。というのも、近隣国でこれだけ拡大しているのに地続きのオランダでゼロであるはずがなく、ゼロが続けば隠蔽しているのではと政府への不信感が高まる可能性がありました。感染者第一号はすでに感染が広がっていた北イタリア帰りのオランダ人でした。

その後からオンライン上でマスクの売り切れが目立ち、スーパーでもある商品が品薄になり始めます。その商品とは、ハンドソープ。消毒用ジェルではなく、いわゆる普通のハンドソープです。

うすうす気づいてはいましたが、オランダ人の多くは手洗い習慣がないようで、ADという新聞のアンケートによると、お手洗いの後、なんと50%のオランダ人が石鹸で手を洗わないと答えたそうです。外出後の手洗いも言わずもがな。在蘭日本人の間では「これでオランダ人に手洗い習慣が根づくね」と、この傾向を喜び合っていました。幼い頃から手洗い習慣を叩き込まれていた日本人にとって、手を洗わないオランダ人は密かにストレスだったのですね。

2月28日……感染者2人
3月1日……感染者10人
3月2日……感染者18人
3月3日……感染者24人

 

3月4日頃……感染者38人。パンは自分で焼こう
感染者オランダでは、公衆衛生研究所であるRIVM(Rijksinstituut voor Volksgezondheid en Milieu)が毎日、感染者の数を報告しています。27日の1から6日後の3月4日、38人の感染者が確認されました。ほとんどの人が北イタリア帰りです。結局、私は日本行を断念しましたが、情報収集に余念がなかったため、危機意識が他のオランダ人より少し先をいっていました。

今後に備え、保存食を余計に買っていたほうがいいかなと思うようになっていました。私よりも百倍用心深いオランダ人夫は、すでに外出する度にせっせとストックを買うようになっていました。缶詰(豆類)、パスタ、大量のタマネギ、乾燥豆、ミューズリー、そして小麦粉。それも全粒粉、スペルト、薄力粉、強力粉とバラエティ豊かに取り揃えています。普通のスーパーでもこれだけの種類が普通に買えるのだと妙なところに関心しながら、そうだパンが焼けるな。ならイーストだとスーパーに行くと、なんとドライイーストが品切れ。小麦粉は日本人の米にあたる存在なのだということを改めて認識しました。

教訓。”非常時はパンは自分で焼け”。

3月5日……感染者82人
3月6日……感染者128人、初の死亡が確認される。
3月7日……感染者188人
3月8日……感染者265人

 

3月9日……感染者321人。握手は自粛しましょう
感染者は382人になりました。つい一週間前の38人から10倍です。1日前にはイタリアでは全土封鎖宣言がでましたが、オランダでは特に動きなし。これでいいのだろうか……。「EU諸国のみなさん、私たちと同じ道をたどらないよう、どうか自衛してください」とイタリアの首相が言っていたのに。

その夜、ルッテ首相から新しい対策の発表がありました。それは「今後しばらくは握手しないように」でした。宣言直後にRIVMの所長とうっかり握手を交わし、「あ、いけね!」と手をひっこめ、肘をごつきあう新しい挨拶を紹介して、その後、肩をポンポンと叩くというおまけつきでした(笑)。

その数日前、テレビでハーグの国会議事堂にいる政治家に「入口に備え付けた消毒ジェル、使ってる?」とレポーターが突撃取材したり、トークショーのゲストが「俺ね、手術用手袋、持ち歩いてるよ、ほら! がはは」という笑う様子が放映されたりしてました。

それらを観て、どんな時でもジョークを忘れないオランダ人と好意的にとらえていたら、横で一緒に観ていた夫の顔がみるみる険しくなりました。「真剣に向き合っていない。ふざけすぎている」。夫に言わせると、オランダ人は何事でも大したことじゃないよ、フツーだよというポーズをとる癖があり、それは「贅沢を好まず、地に足のついた生活をしろ」という国民的傾向からきているかもしれないが、非常事態においてはそれは違うのではないか。また、ジョークを交えることで「深刻じゃない」と間違ったメッセージを視聴者に送ることになる、あるいは本当に大したことないと捉えているなら、そんな政府に自分の生活を脅かされるのはまっぴらだ。

真剣すぎてジョークを飛ばそうもんなら首が飛ぶ(最近、飛びませんが)日本の政府と、あ、握手しちゃった、いけね!と余裕のオランダ政府。あまりにも違いすぎるし、どちらがいいのか悪いのか、正しいのか、正しくないのか考えをまとめることができませんでした。

3月10日…感染者382人、死亡者合計4名

 

3月11日…感染者503人
毎日、午後過ぎにRIVMからアップされる「本日の状況」をチェックするのが習慣になりました。10日の382人から一挙に100人以上超えの503人を見た時は軽いショックを覚えました。増加が著しいのは北ブラバント州です。その多くは経路が追えないとのこと。カーニバルのせいではないか?という説もありますが、確かではありません。

 

3月12日……感染者614人。国民、ハムスターになる
午後4時に新たな対策が発表されました。

● 風邪をひいたり熱があったりする人は家から出ないこと。症状が重くなったらホームドクターに連絡をとること。
● 100人以上の集まりはキャンセルすること。
● 可能なら在宅勤務に切り替えること。
● お年寄りや身体の弱い人は集まりや公共交通機関の使用を避けること。そのような人の訪問を極力避けること。
● 大学、高等教育機関閉鎖

やっと真剣に取り組みだした。が、遅すぎないか、まだゆるくないか?という声が私の周りでは多く聞かれました。ちなみに、その頃は私の行動範囲は徒歩圏内のみで、友人との約束も次々と延期、キャンセルとなりました。

用心深い夫のおかげで家には1週間外出しなくてもすむくらいの食料の蓄えができていたのですが、スーパーがどんな感じになっているのか知りたくて、夕食後近くの大型スーパーに行ってみました。ない。イモも、野菜も、肉も、パンも、トイレットペーパーも。棚がすっからかんです。国民スナック、ポテトチップもほとんどゼロ。買いだめ行為を差すオランダ語の動詞は「ハムスターする/hamsteren」です。新しい対策を発表するルッテ首相も、「みなさん、ハムスタらないでください!」と怒りながら言っていました。

 

3月13日……感染者804人。子どもたちは?
大学は休校となりましたが、子どもたちはどうしているのでしょう? 親御さんたちは? 子どもがいないので子持ちのご家庭の様子を知りたく、アイントフォーフェン在住のフリーランスライター山本直子さんの許可を得て、彼女のブログを紹介します。ちなみに、山本さんは先月、オランダの何もしない豊かなライフスタイルを紹介した書籍『週末は、ニクセン』(大和出版)を上梓されています。
新型コロナウィルス:感染防止はゆるゆる、ハイテク措置はばっちりのオランダ

 

3月14日……感染者959人、合計12名の死亡を確認
まちにはひとっこ一人いません。……とレポートしたいところですが、ショップはまだオープン、混んではいませんがカフェにも人が入っています。スーパーは品薄が続くものの、普通に営業。店内はクリスマス休暇前のアグレッシブな雰囲気が若干あるものの、目が合えばにっこり、道ですれ違えば「ハロー」は変わらず健全です。ジャムコーナーでは、ハチミツがとびぬけて品薄になっていました。ちなみに、お隣の国ベルギーでは13日夜からカフェ営業中止になったそうで、隣接するゼーラント州にベルギー人が越境してお茶を楽しんでいる姿が数多く目撃されたそうです。

 

3月15日……感染者1,135人、そして6時に追い出される
毎日家にいるのが苦痛になり、友人と一緒に森を散歩することにしました。電車やバスを使わなくても、そんな森や公園に行けるのがオランダのいいところ。同じように考える人がいるもので、家族連れ、友人同士でそぞろ歩きをしながらくっちゃべる人たちがあちこちにいました。林床には可憐な白い花を咲き乱れ、カイツブリが川をすいすい泳ぎ、木々が芽を吹き始めています。これからいい季節なのになー。

ひとしきり歩いた後に、カフェへ。オランダでは極寒の冬でもテラス席が用意されており、みんな着込んだままお茶を楽しみます。そういったわけで、私たちもテラス席へ。お隣のオランダ人グループは、「あ、ハグ禁止だった!」と、ひじ、お尻でごつきあって挨拶していました。

「6時には締めるから、お会計してくれる?」と突然店員が言ってきて、急き立てられるように店を後にしました。家に戻って、政府からさらに対策が発表されたことを知りました。

● 16日から4月6日まで小学校、保育園、MBOの学校休業
● 飲食店は本日6時から4月6日まで休業
● スポーツクラブ、フィットネスクラブ、サウナ、セックスクラブ、コーヒーショップも同様に休業
● 4月6日まで人と人の距離は1.5mを保つ

政府高官が、サウナ、フィットネスに続いて淡々とセックスクラブに言及する姿に面食らいながら、ついにここまできたかと思いました。明日からまちの風景ががらっと変わってしまうのは間違いありません。不便かもしれませんが、感染者が倍増していること、隣国と足並みが揃ったことで、ちょっとほっとしたという気持ちも正直あります。

この6時閉鎖の通達は、30分前の午後5時30分に発表されました。その特急っぷりは、日本の突然の一斉休校タイミングどころではありません。ちょっと急すぎません?とブツブツ文句を言いながらも、押しなべてみなさん受け入れているようです。

普段の生活では個を大切にするオランダですが、時にトップダウンを強行するときもあります。政府の命令に従うというよりも、それが社会の益になるなら協調しようと考えるようです。細かくは色々あるようですが、政治は国民のために存在しているという信頼感と、市民の参加意識の高さのおかげだと思います。ちなみに、あ、握手しちゃったルッテ首相はこの非常事態を冷静に対処しているとお株を上げています。また、お子さんがいるご家庭では、政府からのクリアなメッセージにどのように行動すべきかが分かって安心できたという意見も聞かれます。

ところで。新しい対策の発表直後、長い列ができたショップがありました。それは、コーヒーショップです。コーヒーショップとは、大麻が吸える/お持ち帰りできるカフェです(一定の量のマリワナを持ち帰って家で吸うのはOK)。4月6日まで休業??そりゃ大変!と、大麻をハムスタりたい人々が大挙して押し寄せたのでした。

 

3月16日……感染者1,413人。トータルロックダウンはしない
新しい対策が発表された翌日、感染者は278人増えました。深刻さは日に日に増しています。テレビもコロナウィルスの話題でもちきりです。

今晩夜7時にルッテ首相から国民に向けての10分間のスピーチがありました。外務省のウェブサイトに概要が和訳されているので、ぜひご覧になってください。

「コロナウィルスを最大限コントロール」「コントロールできず感染が広がる」「国を停滞させる」の3つのシナリオがあり、オランダは最大限コントロールのシナリオをとるというものでした。つまりイタリアのような全面封鎖(トータルロックダウン)する道を選ばないという意味なんだと思います。

そして、ワクチンがないなか、オランダに住む多くの人が感染する可能性があることにも触れています。お年寄りなど弱い人を最大限に守りながら医療のキャパシティを確保することに注力し、同時に経済支援も行うということでした。

世間は押しなべて好意的にとらえているようです。素晴らしい、力強いスピーチだったという声も聞こえてきます。

放映中、残念ながら私はスピーチの80%が理解できなかったので、もっぱら声のトーン、ボディーランゲージに目が向きました。両手をテーブルに置き、冷静に伝えるよう指示があったのだと思いますが、身体を前後にゆすり、ネクタイがゆれ、使いたいところをぐっとこらえいるのか、たまに手がテーブルから浮いていました。伝えたいという気持ちが全身から伝わってきました。

私の隣にいる人(夫)は、オーソリティーを全く信じていないので、一定の評価をしつつ、「集団免疫を得ることで感染拡大が抑えられるっていうけど、インフルのように感染後に免疫ができるってなんで言える?」「なんで隣国に先駆けて言わない?」

オランダがとった道が良策だったかどうかは、多分、数年後でないと評価できないと思います。そして、私は自戒を込めて、礼賛方向に気持ちが振れないようにしています。

というのも、日本とあまりにも違うからです。オランダと日本を比べると日本は迷走しているように見えます。力強く伝える胆力がないのか、責任をとりたくないからか、風土になじまないのか。あまりにも振り幅が大きいため、思考停止に陥り、オランダの声明を盲目的に信じるという極端に走ってしまうかもしれないからです。信頼する、しないという意見を醸成するには、社会への参加意識があまりにも低かった自分を自覚しています。

オランダにきて強烈な違いを感じるもののひとつが、市民の社会への参加意識の高さです。オランダ政府が力強い声明が出せるのは、政府の性格によるのではなく、国民が強いから。強くいられるのは社会を成しているのは自分に他ならないという自覚があるから。お上の言うことを自分なりに咀嚼して意見を形成するプロセス、つまり社会参加意識をもたずにきてしまった自分に、冷静な判断ができるとは思えません。

そんな私でもひとつはっきり言えるのが、トップからのクリアなメッセージは、次に何をすればいいのか、その中でどんな行動をとればいいのかという指針を国民に与えてくれるということ。それによって、粛々と暮らす基盤ができるのだと思います。

追伸:一転してコーヒーショップは再開となりました。ストリートギャングによる売買を避けるためだそうです。

23 2月

アイスランド旅の百聞一見歌

令和元年は、奇しくも金婚の年でした。その記念の旅としてアイスランドに出かけることにしました。狙いはオーロラと火山島の地形探訪です。

人生を終えるまでに見ておきたいこととして、『皆既日食』『ロケットの発射』そして『オーロラ』と言われています。皆既日食は、インドネシア、オーストリア、中国、アメリカと3度経験しましたが、ロケットはケープカナベラルまで行ったものの、スペースシャトルの事故の後で体験できず、アラスカでのオーロラも見られずに終わっていました。

今回はオーロラ再挑戦の意味合いもあったのですが、相変わらず太陽の活動が低調続きで満足できる状況ではなく、カメラのシャッターを20秒ほど開放してやっと緑色が映るという状態の弱いものでした。往復の飛行機の窓から見た淡いオーロラがせめてもの慰めとなりました。

しかし、アイスランドの火山地形や氷河の姿は十二分に満足できるものでした。

雪化粧をした広大な溶岩台地の荒々しさと地球の割れ目が続くギャオ、巨大な氷柱を両脇にして台地から流れ落ちる雄大な滝の数々、そして青い輝きを放つ巨大な氷河もまた印象に残るものでした。

氷河湖から海に流れ出たたくさんの氷塊が黒い砂浜に打ち上げられて巨大なダイヤモンドのように見えるのも圧巻でした。

何よりも寛げたのは、地熱発電を活用した湖のような露天風呂(ブルー・ラグーン)でした。程よい温泉に浸かり、サービスされる生ビールの喉越しの良さは格別でした。毎回食事時に出されるサーモンとニシンの酢漬けを食べていると、オランダでの生活が思い浮ぶ旅でもありました。

私はこれまで、旅の思い出を短歌に読み込んで記録してきました。その名も「旅の百聞一見歌」。これまで作った冊子は7集となります。先の、105日間南半球世界一周の船旅では300首を詠み、乗船者からの希望もあり本格的に出版しました。 9集目の今回、訪れた主な場所の主なものをご紹介します。

 

強風の中踏ん張り続けカメラ持ち  流れ落ちゆくぐるとフォス撮る

 

延々と割れ目が続くギャオの中雪降り積もる底を歩めり

 

両袖に氷柱従え流れ落つ裏見が出来るセリャランス滝

 

溶岩の大地を流れ落下するスコガの滝を見上げ佇む

数百段登りて眺むスコガ滝流れの奥に滝は連なり

 

氷河去りモレーンが残る山筋は採石場を思い起こせり

 

氷河湖に崩れ流れし氷塊のブルーの光感動を呼ぶ

 

黒砂の浜に残れる氷塊の連なる様はダイヤのビーチ

 

広大なヴァトナ氷河に立ち尽くし自然の為せる驚異味わう

 

氷上をジープで走り辿り着く氷の洞窟スーパーブルー

氷穴の艶やかなりし表面にブルーの輝き目に飛び込みぬ

昼食の前菜に添えられしパフィンの肉を食したるかな

店先にパフィンのグッズ並びしも肉もあるとは夢に思わず

 

古に食糧難の時代ありパフィンで凌ぐ記録あり

 

 

白鳥や鴨がひしめき戯れるチョルトニン湖の冬景色

冷戦の終結会談行われしホフジハウスはホワイトハウス

 

聳え立つハトリグリムス教会の形は正に柱状節理

 

今日もまたオーロラ出でず  気落ちして深夜の空を見渡せるかな

車にてオーロラ求めて一時間雲と見紛う姿あり

 

露出かけ浮かび出ずるはオーロラの写真と同じ緑の姿

 

 

8K でアイスランドのオーロラをペルトランにて鑑賞せり

 

朝まだきブルー・ラグーンに入りたる  冷たきビール喉越しの良さ

 

巨大なるアイスランドの露天風呂チュナの温泉思い起こせり

広大な溶岩台地見渡せり改めて知る火山の驚異

ごろごろと冷え固まりし溶岩流鬼押出しの警官覚ゆ

飛行機の窓越しに見るオーロラもレベルが低く淡き色なり

機内よりオーロラハント試みてやっとの思いで撮影終えり

金婚の記念に来たる旅終わり想い出糧に人生歩む

 

04 9月

オランダ人作家との交流         

今回は、マーストリヒトをこよなく愛する事務局長の寺町さんから。オランダ人の仕事のパートナーから、一通のメールがやってきます。そこから、推理小説顔負けの大捜索が!
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~謎の失踪を遂げたイタリア画家ロムアルド・ロカテリ―の幻の肖像画を追って~

 

猛暑の昼下がり、オランダから郵便物が届きました。何だろう? ずっしりと重く、本の様です。差出人を見ると、“GIANNI ORSINI ”。 ああ、オルシニさんだ。

昨年、彼の執筆活動に協力し、夢中であることを調べていたのですが、ようやくその本ができ上がったのだ。包みを開けてみると、A3版の立派な画集がでてきました。

 

昨年秋、オランダの友人から一本のメールがきました。

「作家である友人が、イタリアの著名な画家であるROMUALD LOCATELLI(ロカテリー)の伝記を執筆している。それに協力してくれないか。」

その作家がオルシニ氏でした。

オルシニ氏からの依頼はこうでした。

「今、イタリアの画家ロカテリ―について伝記を書いている。ロカテリーは1942年、当時日本占領下のマニラで日本軍司令官だった本間雅晴中将の肖像画(縦2m x 横1m)を描いた。翌1943年、マニラで謎の失踪を遂げた。

肖像画は、ロカテリーの最後の作品であること、そして日本の軍人との交流を物語るものとして、伝記にとって非常に重要な位置づけとなる。

本間中将は、肖像画が描かれて間もなくの1942年8月、日本へ帰国。肖像画を潜水艦で持ち帰ったと言われているが、所在が分からない。
肖像画を探す協力をして欲しい。」

 

私にとっては、ロカテリーも、本間中将も知らないご仁たち。乗り気ではありませんでしたが、大切なオランダの友人からの依頼でもあり、まずはロカテリーと本間中将をネットで検索してみました。

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ロカテリーについて(1905-1943)

イタリアのベルガモで生まれる。イタリアの画壇で成功を収めるも税務問題などで精神的に疲弊し、1939年1月、オランダの友人の手を借りて、オランダ領インドのバタビアへ居を移す。

インドネシアの緑と太陽(青い空)に癒され、積極的な制作活動を再開する。

1940年5月、バタビアを離れ上海、東京を訪問後、マニラに移す。

マニラで大統領や米国政府高官との交流を深め、大統領家族の肖像などを描く。アメリカに渡る予定だったが、太平洋戦争が勃発、日本がマニラを占領したことから機会を逸し、マニラに滞在。

1943年、マニラ郊外の森にバードハンテイングに出かけ、そのまま行方不明となる。

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本間中将について(1887-1946)

佐渡出身。若い頃、英国で駐在武官を務める。英語が堪能。詩をたしなみ、長身で端正な風貌も手伝い、欧米軍人の間で人気があり、尊敬されていた。太平洋戦争開戦時に、マニラ司令官としてマッカーサーをフィリピンから撃退したことから、敗戦後マッカーサーの恨みを買い(と言われている)、直接には責任の無かった「バターン死の行進」の罪で、戦犯としてマニラの法廷で死刑を宣告され、執行された。その時、中将を信頼して想う妻の法廷での証言は、裁判官、検事の涙を誘ったと言われている。

処刑は、彼の名誉を重んじ、絞首刑ではなく銃殺刑で行われた。


これを読んで俄然興味が湧き、依頼を引き受けることにしました。
調査開始です。

 

>>まず佐渡役場・新聞社佐渡支局へアプローチ
まずは本間中将の出身、佐渡役場・新聞社佐渡支局へのアプローチから始めました。手紙を書き、頃合いをみて電話で問い合わせです。興味を抱いていただき、郷土史家にも問い合わせいただくも、佐渡には本間中将の親類縁者もおらず、本件に関する情報はありませんでした。

>>次に東京の大新聞へアプローチ
この結果をオルシニ氏に報告したところ、彼から、ロカテリー夫妻がバタビアからマニラに居を移した1940年の6月~7月にかけて2週間東京に滞在し、著名画家の来日ということで新聞社のインタビューを受けたらしいとの情報を得ました。早速この記事の検索を朝日、読売、毎日新聞各社へ問い合わせするも、成果なし。

ちなみにこの時の各新聞社の担当者の対応はまちまちで、結果は同じでも、通り一遍の対応や、親身の対応だったりで、これにより社風などがよく分かりました。

>>そして靖国神社へアプローチ
こうして調査が手詰まりになった時に、ひらめきました。
「そうだ! 本間中将は戦犯だが英霊として靖国神社に祀られているはず。そこで情報が得られるかもしれない」

早速、神社に手紙を書きました。おっつけ電話を入れると、神社・遊就館の学芸員の方が手紙をすでに読まれていて、前向きなお返事をいただきました。

早速訪問。

靖国神社の訪問は約25年ぶりで、ずいぶん立派に様変わりしていました。学芸員に詳しく館内を案内いただき、本間中将の遺影を拝見させていただきました。オルシニ氏に届けたいと撮影の許可をお願いしましたが、規則で遺族の了承を得る必要があるとのことで、神社から遺族と相談してみるとのことでした。

 

靖国神社からの連絡
それから一週間くらいたった頃でしょうか、神社からメールが届きました。メールには関東在住の本間中将の孫の方からのレターが添付されていました。私からオルシニシ氏に転送できるよう配慮していただいたのか、英文でした。


要約するとこのようなことが書かれています。
・母は本間雅晴の娘で、自分はその孫に当たり、祖先の歴史資料を管理している。
・肖像画が描かれた経緯と背景説明。
・肖像画は今や存在しないが、本間中将のマニラの居宅の広間の壁に懸けられていた肖像画とロカテリーが一緒に写っている写真がある。それを同封する。


末尾に、自分は年末(2018年12月頃)にヨーロッパを訪問する予定につき、必要あればオランダでオルシニ氏に会う用意ある、と結ばれていました。

残念ながら、追い求めていた肖像画は見つかりませんでしたが、その存在が確認され、目的は達せられました。最後に面会スケジュールをすり合わせ、後日二人が無事アムステルダムで面会したとの連絡を受けて、私の役割は終わりました。

年が明け、オルシニ氏からは本が出来たら送る。本には協力者として私の名前を載せるから、と連絡をもらいましたが、オランダ人の約束は案外あてにならないこともあり(m_ _m 失礼)、それから8ケ月、本が届くまで、この出来事をすっかり忘れていました。

約束通り届いた本には、約束通り私の名前が協力者として記載されていました。

 

謎の失踪の真実解明
ただ、もう一つの主題であったロカテリーの謎の失踪の原因については、オルテニ氏はロカテリーの妻の証言や様々なアーカイブを調べ上げたそうですが、最終的に解明できなかったようです。

当時、日独伊軍事同盟のイタリア人ということで、バードハンテイングで入った森で抗日ゲリラに殺害された説、戦争下情緒不安による自殺説、日本占領前、フィリピン大統領やアメリカの高官と親しかったため、日本軍からアメリカのスパイと見做され殺害されたという説などがあるそうで、オルシニ氏は個人的見解として、最後の説が有力と考えています。

 

GIANNI ORSINI ギアンニ・オルシニ
1970年アムステルダム生まれ。曽祖父はイタリア人だが、オランダ領バタビアで彫刻業を営んでおり、祖父もそこで生まれた。こうした家系背景からオルシニ氏はオランダ領東インドの古美術品蒐集家となるが、2005年からバタビアなどオランダ領東インドに在住のヨーロッパ人芸術家の伝記作家として活動を始める。オークション業界にも精通しており、19世紀中頃のオランダ領東インドの古美術品鑑定者、評価者としても知られている。

07 1月

私のオランダ:小さな国・大きな世界

2019年の運営スタッフブログは、FANの台所をしっかり見守っている田中成幸さんです。30年にわたるオランダ巡礼の旅のきっかけとは?
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オランダ人との初めての出会い

外国に興味・関心を持つ機会は、殆どの場合、「偶然」によることが多いと思います。

ビートルズが好きな人は、英国に。サッカーが好きな人は、ブラジル・ドイツに。ワインが好きな人は、フランスに。チョコレートが好きな人は、ベルギーに興味・関心を持つように。

私の場合も、その「偶然」により、オランダに興味・関心を持つようになりました。

私が22歳(1979年)の時、地下鉄東銀座駅で初めてオランダ人と「接点」を持つことになりました。同じ車両に乗り合わせていました年齢60代オランダ人観光客(女性2名・男性1名)の1人の女性から、改札を出た時、英語で「銀座に本屋さんはありますか?私の息子は、演劇の先生をしており、日本の能の本を頼まれました。」と尋ねられました。

当時の私の初級英会話レベルでもよく分かる英語でしたので、「ありますよ。ところで、どちらのお国から来られたのですか?」と聞き返しました。

「私たちは、オランダから来ました。群馬県新町で開催されます30キロ歩行大会に参加します。あなたは、歩くのが好きですか?」。

当時の私のオランダに対するイメージは、「低地・1964年東京オリンピック柔道無差別級金メダリストフェイシング・コーヒーメーカーPHILIPS」であり、日本の健康志向ブームも低かったためか、「30キロもただ歩く、暇な人たちもいる者だ。」と内心思いました。

自分の英会話の勉強にと思い、銀座周辺を二時間ほど案内しました。

初めにリクエストのあった「能」の本を購入するため、洋書店「銀座イエナ」(平成14年1月17日閉店)を案内。次に、皇居周辺を案内しました。彼女ら全員60代のオランダ人は、第二次世界大戦を実際に経験しており、旧植民地インドネシアにおけるオランダ対日本の軍事衝突の歴史も認識していました。皇居周辺を案内しながら、「昭和天皇」について少しばかり説明しましたが、私の説明にはあまり関心が無いように思いました。戦前の両国間関係の「負の部分」が、彼女らオランダ人一般市民の心の中にも残っていたのかもしれません。

10月末で夕方の寒さもあり、「喫茶店に入り、少しお話しをしましょう。」と私が提案しました。

コーヒーとチーズ・サンドイッチを食べながら、彼女らのオランダでの生活を色々と話してくれました。女性二人は、ナイメーヘンとゴーダ出身。男性は、アムステルダム出身。全員、定年しており、皆一人暮らし。ナイメーヘン市は、「歩け歩け大会」の世界的メッカであり、毎年、日本からも参加者いると教えてくれました。

ナイメーヘン出身の女性に「あなたに手紙を書いていいですか?よろしければ、ご自宅の住所を教えて下さい。」とお願いすると、「ええ、喜んで。」とメモ用紙に書いてくれました。

この後、宿泊していた都内のホテルまで三人を送りました。

別れ際、ナイメーヘン出身の女性から「ロビーで少し待っていてください。あなたにお土産があります。」と言われ、彼女はホテルの部屋に戻りデルフト焼きのプレートを持ってきました。「本日は、ありがとう。これは、オランダの焼き物です。記念にどうぞ。」と言ってプレゼントしてくれました。オランダの焼き物が日本の焼き物から影響を受けているとは知らず、デルフト・ブルーのオランダ風車だけが何か少しばかり私の心に残りました。

 

ナイメーヘンからの便り
銀座案内から一カ月が経ち、ナイメーヘンから一通の手紙が届きました。私の方も彼女に焼き物のお礼と思い、手紙の下書きを英和辞書と和英辞典と格闘しながら準備を進めいたのですが、自分の清書が間に合いませんでした。

手書き英文3枚の手紙で、歩け歩け大会参加、広島原爆ドーム、奈良の鹿、箱根芦ノ湖遊覧船等の印象が書かれておりました。

海外文通を経験された方ならご理解されると思いますが、手書き英文は何かと読みづらい。英単語の意味を理解する前に文字判読に時間がかかってしまいます。しかし、彼女の筆跡は、私のような英語学習初心者にもそれほど苦労せず読むことが出来ました。彼女の手紙の最後にローマ字でこんな風に書かれておりました。

「ORANDAWA、SAMUIDESU.WATASHINI TEGAMIOKAITEKUDASAI.」

当時私は、オランダより北欧のスウェーデンに強い関心(自動車VOLVO・音楽ABBA・スウェーデン社会政策・スウェーデン語等)があり、スウェーデンの女性看護師とも海外文通(英語)のやり取りをしておりました。彼女の私生活・スウェーデン人一般の日常生活に関する情報を彼女からの手紙で得ておりました。彼女と5回程海外文通した後、次回の手紙に私の写真を同封して下さいと依頼がありました。私は、彼女とより親密になれると思い、自分の写真を同封して手紙を送りました。しかし、それからは、彼女から手紙は不通になってしまいました。イケメン俳優の写真一枚でも送っておけば、今頃は私もスウェーデン語とスウェーデン社会の専門家になっていたかもしれません。憧れのスウェーデンは、片思いで終わりました。

しかし、オランダ女性は、私にチャンスを与えてくれました。お互いすでに面識があり、お互いのパーソナリティも理解しておりました。彼女からは、2ケ月度に手紙が届き、私も不慣れな英語で返信しました。1年半程文通を続けているうちに、ヨーロッパに旅行する機会があれば、是非、オランダにも来て、彼女の自宅にホームスティして下さいというお誘いを受けました。

 

初めての海外旅行でオランダの地を踏む
私が24歳になる時(1981年3月)、初めての海外旅行を経験しました。行き先は、オランダ・ドイツ・スイス・フランス。3週間の一人旅です。旅の一番の目的は、ドイツビール・スイスマッターホルン・パリシャンゼリゼではなく、彼女との再会です。

1980年代初頭は、まだシベリヤ上空をフライトする航空便が運行されておらず、ヨーロッパへは南周り便(東南アジア・中近東経由)又は北極便(アラスカ・アンカレッジ経由)を利用するのが一般的でした。成田空港夜9時30分発KLMオランダ航空アムステルダム行に搭乗しました。アラスカ・アンカレッジまでのフライト時間は、8時間。給油・乗務員交代のため、アンカレッジ空港ロビーで1時間待機。アンカレッジ空港から目的地アムステルダム・スキポール空港まで北極上空を通過して8時間。スキポール空港は、朝6時30分着。所要時間、17時間のフライトでした。

天気も薄暗く、早朝のためか空港内がとても静かな印象でした。彼女のいるナイメーヘン市に行くには、空港からアムステルダ中央駅まで電車で行き、中央駅でナイメーヘン行に乗り換えなければなりません。この初めて乗る電車こそ、とても「オランダ的」でした。

車体の色が、「黄色」であり、先頭車が「Dog’s nose=犬の鼻」の愛称で呼ばれる程、日本の電車には無い、ユーモラスなデザインです。

アムステダム中央駅からナイメーヘン駅までの所要時間は、約1時間40分。車窓から初めて見るオランダの風景は、自然豊かな平坦の土地です。運河があり、数多くの羊、乳牛が車窓に映ります。

ナイメーヘン駅到着後、彼女の自宅へ電話をしました。駅で待つこと、30分。

シトロエン2CV(フランスの大衆車。愛称は、“醜いアヒル”)を運転して迎えに来てくれました。本人と直接再開出来た喜びは、大きなものです。(銀座で出会い、俺は、今オランダにいる!!実感できないと言った感じです。)

彼女の自宅には3週間のヨーロッパ旅行中、最初と最後の各5日間ホーム・ステイさせて頂きました。

日中は、ナイメーヘン地区を彼女のシトロエンでドライブ案内してもらい、夜は、彼女の美味しいオランダ家庭料理です。又、彼女の友人宅へも案内してもらい、オランダ人の「日常生活」を見聞する機会も持てました。

 

30年続いたオランダ巡礼の始まり
私の人間性・品行が良かったのは分かりませんが、帰国時に彼女は、わざわざアムステダム・スキポール空港まで送ってくれました。空港で別れる時に、「来年も是非来てください。」と彼女から言われました。

この「是非」と言う言葉が、私のオランダ巡礼の始まりです。

翌年もオランダ・ドイツ(ブレーメン市)の2週間の旅行をしました。2回目は、彼女の地域の人的ネット・ワークのお蔭でより多くのオランダ人と接する機会を持つことが出来ました。地元大学の先生とその家族、スリナム人家族(旧オランダ植民地)、オランダ人家庭主婦等です。

2回目以降、オランダに計15回も渡航し30年間もオランダと接することになりました。

30年間も一国の「追っかけ」をしておりますと、いろいろと社会の変化が見えてきます。

1980年代前半のオランダは、経済情勢も良くなく、乗用車も高級車(BENZ・BMW)を見ることが少なく、フランスのCITROEN・PEUGEOT大衆車が大半を占めておりました。

もちろん、乗用車のメンテナンスも悪く、日本のように傷一つ無くピカピカに磨かれている状態ではありませんでした。当時、私が知り合ったオランダ人の多くも、オランダ及び西ヨーロッパ全体の未来に対して悲観的でありました。1980年代後半から1990年前半では、オランダ人の口から出た言葉は、「日本の経済力は凄い。オランダのTV経済ニュースでもTOKYO STOCK MARKET株価暴騰を連日特集している。」でした。

1989年・1990年、日本は最高潮でした。「横浜では一戸建ての価格が、8千万円以上します。」と話したら、あるオランダ人から「それは、プール付きの豪邸かい?」から真顔で質問を受けました。

1990年前半の日本経済のバブル崩壊から2000年前後に、オランダと日本の社会情勢が逆転したように思われます。知人の若手オランダ人科学者(2000年当時、32歳)が「アムステルダムで家族4人で住めるような手頃なマンションを探しているけど、価格が高騰して7千万円以上するんだ。無理だよ。不動産バブルだよ。」とため息をもらしていました。

2010年頃になりますと、日本よりオランダ社会の方がより活力があると感じるようになりました。それは、オランダの街中で見かけた若い女子のファッションがよりお洒落になっておりました。経済の専門家でもない私にも、地域の生活の変化を見れば経済の活力を判断出来ます。ナイメーヘン大学で教鞭をとっている同じオランダ人科学者に「可愛いオランダ人が増えたように思うが、大学ではどうですか。」と質問したところ、「10年前に比べお洒落な女子学生が多くなった。ファッションにもお金をたくさん使うようになった。」との返事でした。

私の前回のオランダ訪問は、2015年2月です。まず一番に驚いたことは、ナイメーヘン駅前で乗ったタクシー運転手の国籍でした。オランダ人ではなく、アフガニスタン人でした。アフガニスタンの内戦で生活が出来なくなり、家族でオランダに来たとのことです。アフガニスタンでは、内科医をしていたとのことです。(本当かな?)自動車ナビのお蔭でタクシー運転手の仕事が出来るとのことです。他のタクシーを利用した時も、運転手はオラダン人ではありませんでした。30年前のタクシー運転手は、全員オランダ人であったと思います。タクシー運転手の賃金が低いためなのか、人で不足のためなのか、判断は出来ませんが、「労働の国際化」です。

二番目驚いたことは、「キャシュレス」生活です。

普段の日常生活では、100EURO以上の現金を持たず、キャッシュカードで殆どの金銭処理を行うことです(金銭防犯もその目的一つです。)

30年間も一つの国を追っかけておりますと、その国の社会の変化及び自国日本社会変化も見えて来ると思います。TVや本からの情報も有益ですが、やはり、その国の人と接点を持ち「肌」で感じた方が自分の知識をより有機的にすると思います。

 

私のオランダ:小さな国・大きな世界
私のオランダ人の出会いそしてオランダへの旅について書いてきましたが、私のオランダに対する理解は、浅く表面的なものに過ぎないと実感しております。

その理由は、二つあります。一つは、私はオランダ人の国語であるオランダ語を全く勉強していないことです。オランダ人は、一般に英語に非常に堪能であり、私自身も英語で彼らとコミニュニケーションしてきました。しかし、その国の言語で相手と対話しなければ、その国民性又は文化の本質は、絶対理解出来ないと言うのが私の持論です。何故ならば、言語の中にその社会の特質が含まれていると考えているからです。

もう一つは、宗教です。

オランダを含めヨーロッパ社会の下地になっている「キリスト教」を理解せずして、ヨーロッパ社会を正しく知ることは困難であると考えるからです。私もドイツの社会学者マックス・ヴェーバーに関する書籍を通して、「プロテスタンティズム」を少し勉強してオランダ人の勤勉性・公共性の本質に興味を持ちましたが、私の理解は「本」から得た「知識」のレベルにしか過ぎません。

逆説的に言えば、「社会と言語」・「社会と宗教」の重要性を私に教えてくれたのも30年お付き合いしたオランダからもしれません。

オランダの人口、1,700万人。首都圏3,650万人(東京都1,375万人+神奈川県918万+埼玉県732万人+千葉県625万人)の総人口の約半分です。首都圏の半分の人口から世界トップ企業(航空KLM・電気PHILIPS・石油SHELL・化学AKZO等)が誕生し、又世界トップ100大学の中でデルフト工科大学を初め、オランダの大学が7校ランクインしているのも特筆すべきことです。(日本は、2校のみランクイン。)

作家・司馬遼太郎は、かつてこんな事を言ったと記憶しております、「江戸時代の日本の家庭教師であったオランダが、明治時代に英・独・仏各国の家庭教師の陰に隠れなければ、日本の近代・現代社会の様相はもっと違っていた。」と。

スポーツ・音楽・建築・園芸・美術等、様々な分野でオランダはその存在力を世界に示しております。国家としては、大変小さい国土ですが、非常に「重みのある」国家です。

現在、日本社会は、「少子高齢社会」へと移行しようとしおります。江戸時代の家庭教師であったオランダから今一度社会福祉政策・国家運営等を学ぶ時期に日本は来ているのかもしれません。

それにより、世界から注目される「日本版少子高齢安定社会」を誕生させるチャンスになるかもしれません。

最後に、私のお宝写真を披露して、このエッセイを締めくくります。当時の私の趣味のひとつに「海外短波放送聴取」がありました。その趣味を通して、オランダの人たちと温かい交流を育むこともできました。

第1回オランダ・ペンパル訪問時、趣味の国際短波放送局を訪問-1981年2月
オランダ国際短波放送局全世界英語圏・スペイン語圏向発行公式クリスマスカード—1981年12月
第2回オランダ・ペンパル訪問時、オランダ国際放送短波局を再訪

			
05 11月

ピルゼン(チェコ)の思い出

今回は、チェコに5年間暮らした中西さんの生活感溢れるチェコエッセイです。

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こんにちは、世話人の中西です。今日お話するのは、私が2001年初から5年間暮らしたチェコ共和国ピルゼンの思い出です。事務局長の寺町さんがオランダで活躍されていた同じ頃です。なぜオランダではなくてチェコなのかについては、このサイト内の運営メンバー紹介欄をご覧下さい。
まずはチェコの概要から。チェコは北海道位の広さで人口は1千万人。ドイツ、ポーランド、スロヴァキア、オーストリアの4カ国に囲まれています。

チェコの東部地域をモラヴィア、首都プラハを含む西部地域をボヘミアといい、ボヘミアは石炭・鉄鉱石などの資源に富み、16世紀から400年間当地を支配したハプスブルク帝国の工業生産の2/3を担っていました。西ボヘミアの中心都市が人口18万人のピルゼン(Pilsen、ドイツ語)、チェコ語でプルゼニュ(Plzeň)です。19世紀半ばピルゼンにシュコダ重工業という会社が生まれ、鉄道車両・船舶・蒸気タービン・自動車製造の巨大企業へと発展しました。私がピルゼンの地元企業を訪問した折、このシュコダと日本の縁についての逸話を聞きました。

  • 日露戦争日本海海戦の旗艦「三笠」はイギリスのヴィッカース社製だがその竜骨(キール)はシュコダが製作した。
  • 元経団連会長の土光敏夫氏はタービン技術者だった若い頃、当時先進技術水準のシュコダでタービンの研修をした。

余談をもう一つ。米国の通貨名「ダラー」は、16世紀から数百年の間ヨーロッパ中で使われたボヘミア銀貨「ターラー」に由来しています。

 

1989年、「ビロード革命」によりチェコスロヴァキアの社会主義体制が崩壊。1993年、チェコとスロヴァキアに分裂。2004年、両国同時にEU加盟。こうした中、90年代後半から日本企業によるチェコへの工場進出が活発化し、今日、在チェコ日本企業の数は250余社で、トヨタ、パナソニック、ダイキンはじめ日本を代表する企業が現地生産をしています。日本から欧州への投資では、チェコはイギリス、ドイツ、フランスに次いで四番目の投資先であり、チェコ側からみると日本はドイツに次いで二番目の投資国です。

EUの東方拡大の中で、多くの日本企業が中東欧へ進出しています。その中でもチェコの人気が高い理由は、欧州の真中に位置するため欧州市場への製品輸出に適していることに加え、「ものづくり」の伝統から理工系高等教育が盛んであり、エンジニア・工場労働者などの人材が豊富であることが挙げられます。日本企業の中には、「研究開発センター」をチェコに置いている会社もあります。

私の仕事は、従業員250人程のプラスチック成型加工工場を一から立ち上げて(グリーンフィールド投資)、在チェコ日本企業向けに電気電子・自動車部品などを製造する会社として軌道に乗せることで、商社員として「ものの売り買い」中心の仕事をしてきた私にはすべてが初めての経験でした。加えてEU加盟を直前に控えた当時のチェコは、EUの要求に合わせるべく諸法令はじめ国の仕組み全体を大改造中であったため、工場操業の開始認可取得までは試行錯誤の日々でした。

そんな緊張の日々を癒してくれたのがピルスナー(ピルゼンビール)でした。チェコ人は無類のビール好きで、一人当たりの年間ビール消費量は約150リットルで20年連続世界一、日本人の3倍強です。日本人の「とりあえずビール」に対しチェコ人は「トコトン最後までビール」といったところでしょうか。

代表的銘柄の「ピルスナーウルケル」(ドイツ語で「ピルゼンビールの元祖」という意味)が誕生したのは170年前です。良質の原料(ボヘミア産ホップとモラヴィア産大麦)とヨーロッパでは珍しいピルゼンの軟水が透明感のある黄金色、純白で豊かな泡、そして上品なホップの香りと苦みと、三拍子揃ったピルスナーを生み、その頃普及したガラス食器の大量生産と相まって、グラスやジョッキに注いで目と喉の両方で楽しむビールが世界に広がったそうです。今日我国で製造販売されているビールの殆どがピルスナーです。ボヘミア産ホップは品質がよく、年間生産量の半分は日本に輸出されています。

ピルゼン中心部の西ボヘミア博物館前にあるこの像は、90年前に生まれ今も人気者の操り人形キャラクター、シュペイブル(父親)とフルヴィーネク(息子)の親子です。ピルゼン出身で「人形劇の父」と呼ばれるヨゼフ・スクパが生みの親です。

ところで、チェコの人形劇は操り人形(マリオネット)が中心で、観光地の土産店で様々なマリオネットを見かけます。今日でも人形劇は盛んで、単なる伝統芸能以上の意味があるようですが、人口1千万人のこの国に3000もの人形劇団があるなんて信じられます? スクパの弟子の一人で同じくピルゼン出身のイジー・トルンカは、人形劇から始めて人形アニメーションやアニメーションの監督へと展開し、斯界では「欧州のウォルト・ディズニー」と高く評価されている人物です。

我国人形美術の第一人者・故川本喜八郎が最も傾倒し、師事したことのある人形劇の巨匠がこのトルンカです。1960年代、単身チェコスロヴァキアに渡った川本はトルンカの下で学び、後年NHK人形劇「三国志」や「平家物語」はじめ多くの作品を残しました。1998年のNHK番組『世界わが心の旅 川本喜八郎 チェコ・人形の魂を求めて』に出演した73歳の川本は、トルンカ芸術の原点を求めて師匠の眠るピルゼンを訪ねています。

中央広場に面したルネサンス様式の建物がピルゼン市庁舎で、その中に姉妹都市である群馬県高崎市から贈られた大きなダルマが鎮座しています。高崎市在のビール工場と「ピルスナーウルケル」との交流が縁で1990年に姉妹都市提携に至りました。

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ピルゼンの北70kmにはヨーロッパ随一の高級温泉保養地「カルロヴィ・ヴァリ」(Karlovy-Vary)があります。チェコ語で「カレルの温泉」という意味で、旧名はドイツ語の「カールスバート」(Karlsbad、カールの温泉)でした。

チェコの歴史上最も人気のあるボヘミア王カレル1世(後に神聖ローマ皇帝カール4世)が14世紀中頃に鹿狩りの途中見つけたという伝説のある温泉で、長期滞在型療養施設として世界中の著名人たちが訪れています。例えば、ゲーテ、シラー、ベートーヴェン、ショパン、ゴーゴリ、マルクス、エジソンなどなど。ここは「温泉つながり」で草津市やドイツのBaden-Badenと姉妹都市です。

この温泉のもう一つの特徴は、「散歩しながら12種類の源泉を飲み歩く」というもので、蛇口からチョロチョロと流れ落ちる源泉を陶器の飲泉マグカップ(写真)に受け、急須の注ぎ口のような形のところから飲みます。消化器系に効果があるそうで、私も当地を何度も訪問し都度飲泉をしましたが、鉄分が多いので「薬だと思って飲めば飲める」味です。源泉の中には炭酸泉もあり、それを利用した「炭酸煎餅」も当地の名物で、右手に飲泉カップ、左手に炭酸煎餅を持った多くの観光客がぞろぞろと歩いている姿は一寸ユーモラスです。この炭酸煎餅をルーツにもつのが、上野風月堂のゴーフルです。

同社サイトの「ゴーフル誕生秘話」によれば、明治の頃から販売していた「カルルス煎餅」という炭酸煎餅に洋風クリームを挟んでゴーフルが誕生したそうです。第一次世界大戦に敗れ、ハプスブルク帝国が消滅する1918年(大正7年)までの数百年間、チェコではドイツ語が公用語であり、この温泉は旧名の「カールスバート」だったことから、「カルルス煎餅」は「カールスバートの炭酸煎餅」のことだと思われます。 ビール、操り人形、炭酸煎餅と、チェコと日本を結ぶ様々な糸があります。

この温泉地を創設する前年の1348年、カレル王は中欧で最初のプラハ大学(現在のカレル大学)を設立しました。同大学は1947年に日本研究学科を創設し日本語教育を本格的に開始しました。私はここの卒業生数名にお会いする機会がありましたが、皆さん正しくてレベルの高い日本語を話されていました。 チェコ語の母音が「ア、イ、ウ、エ、オ」の5つということが発音上馴染みやすいのかもしれません。

温泉街の近くにはボヘミアングラスの製造会社「モーゼル」の工場とグラス博物館もあります。 当地でもう一つ有名なのがリキュールの「ベヘロフカ」です。各種ハーブを配合したもので、健康増進に良いとされ、先程の「12種類の飲む温泉」の後に続く「13番目の温泉」という別名をもっています。その配合処方は秘中の秘であり、社長と工場長の二人しか知らず、リスク対策として二人は絶対に同じ飛行機には乗らない、といった冗談のような話を聞いたことがあります。

 

お仕舞いはチェコのクリスマスの風物詩「鯉」について。淡水魚の「コイ」です。

ピルゼンに赴任した年の冬のある週末、家内と共に買い出しに行ったフランス系スーパー・カルフールの魚売り場の一角に大きな水槽が置いてありました。中を覗いたら大きな鯉たちが泳いでいるではありませんか。海がないチェコでは鱒、鰻、鯰、鯉などの淡水魚をよく食べますが、普段は切り身で売られていて、生簀での生魚販売はこの時初めて見たので驚いたものです。翌週会社でチェコ人従業員に鯉の話をしたところ、チェコではクリスマス・イヴに鯉料理を食べる習慣があり、生魚を買った人は自宅のバスタブで数週間飼って泥を吐かせ、イヴに家族で食するとの説明でした。が、この話には続きがあります。バスタブの鯉の飼育は多くの家でこども(たち)の仕事で、毎日世話をしているうちに情が移り、イヴが近づくにつれ情は深まり、しまいにはペットのように思うこどもも現れたりするそうです。 その結果、こどもたちの嘆願により生き延びる鯉は、チェコ全体で毎年数百匹にのぼる、とのことです。新聞情報なので間違いありません。

欧州訪問の際には、西ボヘミアまで足を伸ばされてはいかがでしょうか。

何か新しい発見があるかもしれませんよ。

そこへ行ったときに必要なチェコ語は ただひとつ、” Na zdraví !” (ナ ズドゥラヴィー=乾杯!=健康のために!)。

25 7月

事務局長氏、第二の故郷「マーストリヒト」再発見する

今回は、駐在経験からマーストリヒトをこよなく愛する事務局長のカミングホームエッセイです。

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オランダの焼物というとデルフト陶器やマックム陶器が、先ず思い浮かぶと思いますが、江戸時代、オランダから陶器が「阿蘭陀焼」という名で日本に輸出されていたことをご存知でしょうか。そして、どこの「阿蘭陀焼」が一番多かったでしょう?
それは19世紀中~後期におけるマーストリヒト製のプリントウエア(銅板転写陶器)でした。と、わけ知り顔で書きだしましたが、実は私も最近知った話なのです。

マーストリヒトはオランダ最南端、アムステルダムから電車で約2時間半のベルギー、ドイツに接するローマ時代からの古都。マース川に架かる橋をもつ要衝の地です。日本ではEU発足の基となったマーストリヒト条約で馴染みのある小都市です。

 
鎖国期、日本におけるヨーロッパの通商の窓口であった出島からは、マーストリヒト製のテーブルウェア陶器の破片が数多く発掘されており、江戸時代末期に日本人に好まれる舶来の食器「阿蘭陀焼」として出島のオランダ商館経由で「輸入」していたことが明らかになっています。

 
現在、長崎では、かつて長崎湾に突き出していた出島本来の場所に、江戸町側からの入場を可能にする「出島橋」が完成し、今年の11月に落成のお披露目式が予定されています。この機会に日蘭交流のトピックスとして、マーストリヒトウェアの特集展示が出島内で行われます。

去る6月下旬、出島史跡整備審議会の岡泰正先生が、その展示会調査のためにマーストリヒト市の文化財を管轄する学芸員と面談されることを耳にし、お許しを得てマーストリヒトの道案内を兼ね、私も同行させていただきました。(岡先生ついては、オランダの窓に「私とオランダ絵画との出会い」という題で寄稿いただいていますので是非ご覧ください)

当時のマーストリヒト陶器―プリントウェアのメーカーはペトゥルス・レグゥー社、現在のスフィンクス社です。
スフィンクス社といってもピンと来ないかも知れませんが、日本男性が勇躍オランダに到着し、空港のトイレで小用を足す時、先ず目にするのがその便器にプリントされたスフィンクスの朝顔のロゴマ-クです。朝顔の高さにわが身の足の短さをつくづく思い知らせされるのと同時にオランダ人の身長に圧倒されるものですが、その白い陶器を作っているのがスフィンクス社です。
現在の工場は、マーストリヒトではなくユトレヒトの郊外に移っているとのこと。スイスの洗浄システムのメーカー、クロエ社の傘下に入り、現在に至っています。

 
マーストリヒトでは担当のウィム・ダイクマン先生にお世話になり、かつてレグゥー本社があった場所に近く、港に面したレグゥーのネオ・クラシック様式の邸宅をめぐり、ガラスおよび陶器産業を興隆させた大実業家の足跡をご案内いただきました。
二日目のマーストリヒト市では、セラミックセンターの収蔵庫にも特別にご案内いただき、3万点以上保管されているというレグゥー社、その後のスフィンクス社、モーザ社などの製品について、実物を見ながらご教示いただきました。 銅版転写の原版が保管されている収蔵庫は湿度を低く設定してありました。

レグゥー社の創立者ペトゥルス・ラウレンティウス・レグゥーは、1801年に生まれました。日本では江戸時代後期にあたります。若くして事業を起こし、ガラスと陶器の会社を大きくして、マーストリヒトの経済発展の基礎を築きました。
その人物と鎖国期の日本が結びついていたとは、恥かしながらマーストリヒトに3年も住んでいたのに、この度の見学で初めて知りました。まさに目から鱗でした。

レグゥー社はスフィンクス社と名を変え、やがてホテルウェアなどの食器産業から主にトイレットウェアを手がける会社へと変貌してゆくわけですが、思い返しますと、15年前、私が滞在していた頃には既にマーストリヒト工場での操業を停止しており、広大な工場跡は廃墟のような様子で、近くを歩くのはちょっと憚られる雰囲気でした。
現在、その工場跡地はマーストリヒト市の再開発エリアとして建物は大方撤去され、シンボルである巨大な本館は、モダンな映画館や、マーストリヒト大学の学生寮として改装工事が急ピッチで進んでいます。

 
マーストリヒト市内にはスイスからフランス、ベルギーを経てロッテルダムから北海に注ぐマース川がゆったりと貫流していますが、スフィンクス社工場跡地の裏手にはレグゥー社当時の倉庫群とマース川への運河につながる港湾施設が残されています。
19世紀に建てられたこのレンガ色の建物群のうち、倉庫はお洒落なカフェや個性的な工房に利用されており、当時、物流の窓口であった港には、優雅なヨットやボートが係留されています。

 
岡先生、ダイクマン先生、そして私は、港のオープン・カフェで、初夏の陽射しのもと、喉をうるおしながら話を続けました。
江戸時代、レグゥー社の皿や鉢などの陶器が、ここから川船でマース川に出て、ロッテルダム港まで運ばれ、そこで大型帆船に積みかえられ、北海、大西洋、喜望峰を回り、インド洋、オランダの通商の拠点、バタヴィアに行きつき、そこからはるばる長崎の出島まで運ばれていたことを思うと感慨深いものがありました。
出島にやってきた陶器は、「阿蘭陀焼」として日本中で販売されました。オランダは、伊万里を「輸入」していただけではなかったのです。
出島に到来したマーストリヒト陶器が誕生した場所と、出発の港を目の前にして、冷えたベルギーのビールを飲みながら、お二人の先生の学術的な話を聞いていますと、陶器の通商を超えた歴史のロマンを感じ、ガラにもなく感動が私を満していきました。

帰途、アムステルダム、デルフト、デン・ハーグで美術館行脚。デン・ハーグのマウリッツハイス美術館では、岡先生がゴーデンカー館長と懇意でもありVIP待遇で鑑賞させていただきました。

 
今回、果たして道案内役が務まったかどうか心もとない限りですが、第二の故郷のマーストリヒトの歴史の側面を体感することができ、また岡先生から道々、絵画の見方などなど、いろいろなことを教えていただき、濃厚で有意義な一週間の「研修の旅」を終えたのでした。

23 5月

ムシと樹とオランダ人

久しぶりのリレーブログは、今年から世話人に仲間入りした勝野さんです。虫とオランダ人のおもしろいエピソードです。

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こんにちは。今年の総会で新世話人として承認して頂いた勝野です。よろしくお願いいたします。

私は2007年12月から2011年1月までオランダのナイメーヘン市に住んでいました。今回は、オランダに住んで半年経ち、ちょっと慣れてきた頃の2008年5月の出来事について書いてみます。
*注:虫がお嫌いな方は写真を拡大なさらないようにして下さい!

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私が住んでいたのはナイメーヘン市の南の郊外のデューケンブルグという地域。家の近くには大きな木の並木道があり、その横のお堀では鴨の親子が泳いでいるのどかなところでした。
01

 

5月のある日、その並木道の木がどうも白っぽくなっているような気がしたのです。タンポポの綿毛のようなのでも自分で発生させているのだろうか? と気楽に思っていたのですが、日を追うごとに木々はますます白くなっていきます。まるで細い糸に覆われているかのように。これはただごとではない。

意を決して近づいてみると、糸の中には何千何万という数の虫が!

この虫が出す糸はどんどん液体のように流れていって、鴨の親子がいるお堀にまでなだれこんでいます。

こんな状態になってしまった木がこの通り沿いに約50本もありました。

オランダ人にとっても目を引く光景らしく、写真を撮ったり、集まって井戸端会議を開く方々がいたので、会議に参加してみました。

私:キモチワルイですよね。
ご近所さん: あらそんなことないわよ。ステキだわ。
私: (ええっ、ステキ??)なぜステキなんですか?
ご近所さん: この虫は害はないのよ。そのうちキレイな白い蝶々がたくさん出てくるわ。そしたら木も元通りになるのよ。

そうか、オランダ人はこの現象をCoolだと思っているのか! 目から鱗が落ちた瞬間でした。日本だったら「消毒しろー!」という声のもとに、あっという間に農薬等が撒かれていたことでしょう。

その後虫たちはさなぎの時期を経て、6月下旬に無事羽化し、悪さもせずに飛び立っていきました。蝶には・・あまり見えませんでしたが。

しばらくすると葉っぱも復活し、ご近所さんが言っていたように木も元通りになりました。

なんでも日本のやり方が一番なんて思っていなかったけれど、このような現象もポジティブに受け止め、自然を無理に人間に合わさせないという考えがこの国の人にはあるのだなと思わされた、オランダ滞在初期のインパクトのあるできごとでした。

 

19 1月

ここもオランダ?なの?

2017年第一弾のメンバーブログは副会長の白石さんです。昨年訪れたオランダについて。白石さんの訪れたオランダは、カリブ海にありました!

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行ってきました!

カリブ海に浮かぶ小さなオランダアルバ島へ。カリブ海にはABCアイランドというオランダ王国の島が3つ浮かんでいます。Aはアルバ島、Bはボネール島、Cはキュラソ島です。蘭領リーワード・アンティル諸島と言われ、これらの島からはオリンピックや、ワールドベイスボールにオランダ代表として野球選手を大勢出していることで有名です。高度な自治が認められたオランダ王国の構成国となっています。

アルバという名は、スペイン語のoro huba(黄金がある)から来ているという説があるようです。島の北海岸沿いに金精錬工場跡というのがありますが、かつては金が採れたのでしょうか。

 

大航海時代以降、これらの島はスペインが発見しオランダに征服されたという歴史を持っています。アルバ島はハリケーンの影響を受けないリゾート地として開発されました。
観光客は殆どがアメリカ人でカリブ海のラスベガスとも言われています。主な産業は観光ですが、住民の生活レベルは高いということです。住民がハッピーだという証拠に自動車にこのようなナンバープレートがついています。「HAPPY ISLAND」

 

島には特にオランダらしい雰囲気はありませんが、島の北に唯一観光客の呼べるカルフォルニア灯台という名所があります。そこの売店にオランダ前女王、今国王、オランダの特徴的な写真などが飾られています。また、道路もいわゆるオランダ形式のラウンドアバウトで信号のないロータリー状になっています。

 

大変乾燥した気候なので、サボテン以外の植物は育たないようです。街路樹、家の塀、空地も皆サボテンです。家の塀などはサボテンのトゲで守られるのでしょう。いいアイデアだと思います。このサボテンはなんと10メートルにも伸びるそうです。ただ雨が降らない土地柄で水不足は深刻。でも先進国の洗練を受けて海水を真水に変える大きな工場がありました。世界でも2番目の大きさだとか。その工場から住民は水道を引いて生活水にしているということです。文明の力は素晴らしい。

サボテンの実を初めて目にしました。

 

宗教はカソリックが主流です。オランダはプロテスタントですが、宗教までは規制してはいないようです。ただ教育と軍事はオランダ式です。殆どの子供達は最終的にはオランダ本国で教育を受けるそうです。
数年前にはアロエの輸出が世界でもダントツでした。アロエのハンドクリームやスキンジェルなどがお土産として売っていました。納得です。

パピアメント語というオランダ、スペイン、ポルトガル語などが混ざった混成語が一般に
使われています。人種も殆どが混血です。文化の異種混淆が未来社会にとって重要だとは様々な学者が述べていますが、まさにその姿をこの地方に見ることができます。

たまたま訪れたリゾートホテルの庭にある石山でイグアナを発見。彼(彼女?)はのんびりと散歩の途中だったようです。
こうしてアルバ島を体験して、多様なオランダをここにも発見した感がしました。

 

09

 

23 11月

シンタクラースオランダ上陸

こんにちは。世話人の水迫です。11月からオランダはハーグに滞在しています。11月は、国王の日に続くオランダ最大のイベント、シンタクラースがはじまる月です。果たしてどんなイベントなのでしょうか?

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まず、シンタクラースについてご説明しましょう。

シンタクラースは聖ニコラウスのことで、オランダでは14世紀から聖ニコラウスの命日(12月6日)を祝う習慣があったそうです。現在では、11月中旬(第2週の土曜日)に、シンタクラースと彼の従者ズワルトピート(黒いピート)が、スペインから蒸気船でオランダにやってきて、白い馬に乗って、オランダ全土を行脚してながらよい子を訪ねます。その期間、こどもたちが馬のごはんであるニンジンや、手紙などを靴に入れ、暖炉の前において置いておくと、夜中にズワルトピートが煙突からやってきて、チョコやキャンディと交換してくれます。そして12月5日、朝、リリーンと玄関の呼び鈴が鳴るのでドアを開けると、人の姿はなく、あるのは大きな麻袋。シンタクラースがよい子へのプレゼントとおいていったのです。プレゼントを配り終えると、ズワルトピートとともにスペインに戻ります。しかし、帰る姿を見た人は誰一人としていません。ちなみに、サンタクロースの原型はこのシンタクラースにあるといわれています。

11月第2の土曜日、このお祭りの最大イベントであるシンタクラースのオランダ上陸をスケベニンゲンに見に行ってきました。ところで、そっとお伝えしますが、シンタクラースには”メイン”と”ローカル”の2種類があります。全国ネットで生放映されるシンタクラースがメイン、ローカルネットで生中継されるのがローカルです。公式のほうは毎年、寄港する場所が変わり、今年はMaassluisという場所です。「当日、どのくらいの人数のシンタクラースがオランダに来るの?」と聞くと、なに聞いているのとばかり、「ひとりに決まってんじゃん」。昔はメインとローカルの上陸時間に時間差をつけてシンタクラースがオランダに一挙に到着しないようにしていたそうです。子どもの夢をぶち壊さないよう周到に仕込むその情熱は、さすがイベント大国です。

スケベニンゲンの港に設けられた特設舞台は盛り上がりをみせています。

ズワルトピートがすでにあちこちで出没し、子どもに挨拶したり、お菓子をくばっていたりしています。シンタクラースのお手伝いをするズワルトピートは、シャネルズ顔負けの真っ黒い顔、天パの黒髪、赤いくちびる、羽飾りのついた帽子、カーニバル風のカラフルな派手な衣装が特徴です。

シンタクラースの助手として、お菓子くばり、お掃除、お料理、馬のお世話などあらゆる仕事をします。シンタクラースの従順な助手というよりも、ちょっとおっちょこちょいでせわしなく、子どもと一緒に騒ぐのが大好きなキャラクターのようです。だからか、子どもたちの間で絶大なる人気を誇ります。子どものコスプレも、シンタクラースよりも圧倒的にズワルトピートのほうが多いです。

ここ2~3年、ズワルトピートは人種差別的だという議論がもちあがり、黒塗り廃止にまで追い込まれそうな感じになっています。が、そんな論議はどこ吹く風とばかりに、当日は黒塗りだらけ。とはいえ、公式シンタクラースのほうでは、顔に煤がついたズワルトピート(煙突を使うのだから顔は汚れるしという理由から)で決着をつけようとしているようです。

ズワルトピートは確かにシンタクラースが黒人をお付きにしたという話から始まっているものの、人種差別議論は、ちょっとナンセンスかなと思いました。というのも、子どもにとってズワルトピートはズワルトピート以外の何者でもないからです。黒塗りキャラとしてできあがっており、そこに人種などの問題はみじんにも感じません。子どもたちの笑顔で分かります。これからはじまる楽しいイベント週間にやってくる楽しい仲間。そして、大人の側も、ズワルトピートの黒塗りにすることで、子どもの世界に帰ることができるペルソナのような役割を果たしていると思います。

スケベニンゲンでは、仮設会場の歌やらダンスやらがますます盛り上がりをみせていると、ボーッという汽笛が聞こえてきました。100人はくだらない数のズワルトピートを乗せた船がやってきました。赤い帽子、赤いマント、真っ白なおひげのシンタクラースの姿もあります!

船が港に横づけされ、シンタクラースを先頭にスケベニンゲンに上陸。まずハーグ市長がお迎します。次にスペイン大使からも歓迎のスピーチ。次いでプレゼント配り隊、楽隊ピートと、ズワルトピートもぞくぞく上陸します。

上陸後、ルートに従い街の中をパレードします。街中のルートにはすでに人垣ができています。ズワルトピートも出没し、子どもにお菓子を配っています。ちなみに企業ピートもいて、子どもにはお菓子、大人にはチラシを渡していました。

待つこと30分ほど。警察に先導され、パレードがやってきました。楽隊ピート、馬ピート、バービーピート、なぜかシンデレラ、デパートピート、八百屋ピート、踊るピート、地元魚屋ピート、消防ピート、DJピート、いろんなピートがやってきます。ピート、お菓子くばってー、こっち向いてー、ハイタッチして~とあちこちから歓声があがります。

延々とピートパレードが続き、やっと白い馬にのったシンタクラースの姿が見えてきました。聖人というよりも、みんなに愛されている棟梁みたいな印象です。

シンタクラースは子どもだけではなく、大人、ひいてはオランダ人全員のお祭りだと実感しました。大人はシンタクラースとズワルトピートが本当にいるとはもはや思っていませんが、シンタクラースが船でやってきたその瞬間から、子どもとはまた違う次元でその存在を信じているように思います。このお祭りを前に「大人らしくふるまう」作法は無用のよう。そして、自分が小さい頃眼をキラキラ輝かせていたように、あるいはそれ以上に、子どもらがシンタクラースを楽しめるよう、全力を尽くしています。

12月上旬まで、街角でズワルトピート、シンタクラースに出会うのを楽しみにしています。

17 10月

スヘフェニンゲンの思い出

リレーブログ第8回は、監事の田中さんです。ロッテルダムの日本人学校の校長だった田中先生の、オランダの思い出の一片をおすそわけ。
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新聞に、「盗難ゴッホ 伊で発見」という記事が載っていました。14年前の2002年12月、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館から盗み出された油絵2点が、イタリア南部ナポリのマフィアのアジトで発見され、押収したというものです。 作品は、「ニューネンのプロテスタント協会を出る会衆」と「スヘフェニンゲンの海の眺め」の2点で、いずれもゴッホがフランスに移り住む前の1810年代に描かれた作品とされているものです。額縁がなくなった以外おおむね良好な状態で、オランダへ返還される予定とのことです。地元メディアによると、市場価格は2点合わせて数百万ユーロ(数億円)になるということです。

新聞に載ったこの二つの絵は、ゴッホ美術館で見た記憶があり、滞在当時のカタログを久々に出してみました。カタログでは「ニューネンの改革教会」「嵐が迫るスヘフェニンゲンの浜辺」という題名で載っていました。この記事のおかげで、スヘフェニンゲンの風景をあらためて思い浮かべることとなりました。

スヘフェニンゲンはハーグ市内から電車で15分ほどのところにあるリゾート地域の美しい海岸で、夏は日光浴を楽しむ人で賑わう所です。また、魚介類を扱う店があり、ロッテルダムからよく買い出しに通った思い出のある海岸でもあります。ここではマグロや数の子なども手に入れることができました。

「スへフェ」という発音は喉の奥を震わせるようなオランダ独特の発音をします。世界大戦中、敵国ドイツ兵を識別する言葉に使われたと言われています。在住する日本人から、最初は「スケーべニンゲン」と教わり、なんともまた変わった地名があるものだと思ったものです。発音が難しいためスケーべとしたほうが簡単で、地名が覚えやすかったのかもしれません。この浜辺はトップレスで日光浴をする姿が見られることがあり、そうした光景に出くわすと、見て見ぬ振りしながらも、まさにスケベニンゲンとなってしまうのです。

ここでは、日本であまり知られていない行事があります。それは正月元日に行われる寒中水泳です。元日の朝、オランダ各地から大勢の人が集まり、真冬の冷たい北海に入るのです。浜辺に大きなステージが作られ、大音響とともにインストラクターがエアロビクスのような体操をし始めると、水着姿の群衆が一斉にそれに合わせて掛け声を出しながら体操をし始めます。冷たい海に入るため、長時間にわたり入念に準備運動が行われ、その熱気は寒気の中に湯気が立つほどでした。12時の時報とともに、一斉に海に向かい入水するも、その多くは下半身が浸かるくらいのところですぐに引き返すのでした。北海の冷たさは、それ以上人を寄せ付けなかったのです。

この光景は、日本でいう禊(みそぎ)のオランダ版ではないかと思いました。オランダの元旦はこうして開けるのです。この時の様子を撮った記憶があり、アルバムの中から探し出し、今は昔となったスヘフェニンゲンの思い出に浸るのでした。

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次回は世話人の水迫が、シンタクラースを現地より実況中継する予定です! お楽しみに。