25 4月

オランダと私

リレーブログ第7回は、世話人の岩波さんです。幼い頃から今までのオランダとのおつきあいを語っていただきます。
*********************

私にとってオランダのイメージは、「低地に住む、自転車が大好きな、強くて大きな人たちが世界的ビジネスを行う国」です。

初めてオランダを意識したのは、東京オリンピックの時でした。当時小学1年生でしたが、オランダのヘーシング選手が柔道「無差別級」で金メダルを獲得し、「柔道で一番強い人は、日本人ではなくてオランダ人か!」と子供心にびっくりしました。

相前後して、我が家の本棚に、世界文化社が出した『世界の国を紹介する』全24巻のシリーズが加わるようになりました。オランダは、第6巻にベルギーとルクセンブルグを加えて「ベネルックス」として紹介されております。この本は今でも手元にございますが、その中に、「白人の中でもっとも大柄だというオランダ人」という文章が記載されていたので、私の中で、オランダ人は強い人に加えて「世界で一番大きい人」というイメージも定着しました。

 

次にオランダを知ったのは、犬養道子さんの『お嬢さん放浪記』と『アンネフランクの日記』を通じてでした。犬養さんのオランダでの大洪水の描写に、低地国であることを実感し、また『アンネフランクの日記』では、我が母と同じ年のアンネフランクとその家族が、ドイツのフランクフルトからオランダにわたり、第二次世界大戦下にどんな生活を強いられていたかを学び、ユダヤ人難民を国内に受け入れるオランダは「寛大なよい国だ」と思いました。その後、関連本の『思い出のアンネフランク』『アンネとヨーピー』『アンネの伝記』等が出版されるたびに購入し、オランダ人のヨーピーさんやユダヤ人のアンネフランクの義理の妹さん等が来日すると知るや、講演会にも行って、本にサインをしてもらいました。

 

1960年代~70年代はTVコマーシャル全盛の時代で、ネスカフェ(今はネスレですね)が、インスタントコーヒーのコマーシャルでの中で、「アムステルダムの朝は早い」のキャッチフレーズとともに、コーヒーの湯気と、運河と跳ね橋と自転車に乗った人々を紹介していました。その美しい映像に、「いつの日かアムステルダムに行ってみたいなぁ」とあこがれ、一方で「私は自転車に乗れないからオランダに行ったら不便だわ」と嘆いておりました。

 

オランダでもう一つ大好きなのが、絵画です。大学1年の一般教養で「美術史」の授業をとったとき、古今東西の様々な絵画の名作を先生からスライドで見せてもらいましたが、その中で一番衝撃を受けたのがレンブラントの「夜警」でした。「アムステルダム国立美術館に所蔵されているのだ」「あの光と影が醸し出す描写を、いつかぜひ一度この目で見たい」と切望しました(それから20年後に実現します)。

 

社会で働くようになってからは、オランダには、世界的企業がいくつもあることを知るようになりました。Fortune 500 Globalの企業として、Royal Dutch Shellや保険のINGは常連ですし、ブランドうさぎのミッフィーちゃん、私にはコーヒーメーカーイメージが強いけれど家電製品のみならずヘルスケアの部門でもご活躍のフィリップス、ビールのハイネケン、日本市場でもシェアが高いユニリーバ、そしてKLMオランダ航空等々、九州とほぼ面接が同じくらいの、人口が1700万人足らずの国なのに、世界的企業の数とその売り上げおよびビジネス展開は、素晴らしいと感心してしまいます。オランダ東インド会社はまさにグローバル企業のパイオニアであり、その商人魂が、脈々と受け継がれているのでしょう。

 

一生に1度は、どうしてもオランダを訪ねてみたくて、1990年代の初め、パリから無理して1泊で出かけました。当時のアムステルダムは至るところ「落書き」だらけの街で、いささかがっかりしましたが、あこがれのレンブラントの「夜警」を眺め、アンネフランクの隠れ家に行き、屋台のニシンを食べて、運河クルーズにも乗船して、大満足いたしました。

縁あって、現在、オランダ友好協会の世話役を務めておりますが、FANのオランダ通の皆さまから、いろいろなオランダの知識を教えていただけることを、とても楽しみにしております。

 

********************
次回は世話人の田中さんのブログです。お楽しみに!

01 4月

水の都 東京・オランダ

リレーブログ第6回は、顧問の小澤さんです。日本橋周辺などの水辺環境の再生に取り組む建築家らしい、オランダとのつながりを語っていただいています。
*********************

「運河環境の再生構想」から
オランダとの関わりは、12年前の2004年から始まりました。東京で開かれた国際シンポジウムに、市街地環境を再生させる構想の一端である「水辺環境の再生」をテーマとして参加、そこで、当時のアムステルダム都市計画局長の講演を聞く機会がありました。その後、一緒にゴムボートで日本橋川などをクルージングし、局長に小生の日本橋川など水辺環境の再生構想図の絵葉書を手渡しました。それが、オランダとのきっかけです。

その構想図は、運河の下に地下総合都市基盤をつくり、高速道路などの交通施設、水道や電気などのライフラインとともに商業施設をつくるという、採算性や利回りも考慮したプランを図化したものです。国内の専門家よりはオランダなど海外の方々のほうがすぐわかってくれて、ひょっとして海外で実現するかもしれないという思いもありました。その時、「近々アムステルダムに遊びに行きたい」と調子のいいことを交わしたこともあり、2年後の2006年のオランダ初訪問につながりました。

ピンチからチャンスが広がる
最初の旅は、アムステルダムとユトレヒトでした。再度オランダに行くきっかけとなったのは、信号機がないのに事故がない安全な町、ハウテンを知ったことでした。ユトレヒトの傍の町、ハウテンを見るために出かけたのは2008年。しかし、初日のアムステルダムの宿に着くなり切符や宿を手配していた旅行会社が倒産し、予約がキャンセルされている事態に直面しました。野宿になるのかと不安になりましたが、それらのピンチをきりぬく時に体験したことが、オランダとのさらに深い関わりとなったのです。

帰国2日前の宿でもダブルブッキングというトラブルに見舞われ、他の宿へ移動を余儀なくされたのですが、それが次のチャンスとなりました。チャンスとは、その宿でたまたま見た雑誌の記事でした。小生の総合地下基盤構想と同様の計画が、未来のアムステルダム市の計画として紹介されていたのです。期待していた構想の波及が起こっていることを知った歓びとともに、その内容調査のために再度オランダを訪問。その後、毎年訪問することになり、その積み重ねによって、様々な方との繋がりがさらに広がり、描いた絵の発表をはじめ、沢山の機会をいただくことができ、オランダの認識もより深めることができました。

繋がりの昔、今
3度目の訪問は、運河下の地下基盤に関する調査・ヒアリングの旅。大学院生の同行もあったので、事前のリサーチやコンタクト、通訳をアムステルダム居住の奈良さんにお願いしました。以来、奈良さんから沢山の機会をいただいております。同行した大学院生が言うには、このまま日本に帰らず居続けるのではないかと心配するくらいに、小生はオランダになじんでいたようです。小生の発想や行動がオランダ的に見えた、あるいは想像以上にエンジョイしているように見えたのではと想像されます。

時を重ねる度に、日本、江戸、東京、日本橋、室町、築地の町など身近な生活の場の環境づくりにも、オランダが深く関わっていたのだろうと想いを巡らしております。現在は、これからの技術や政策等への最先端の試行や実践、そして根底にある文化にさらなる関心を深めているところです。そうした歴史を含め、これからの世に指針を示しているオランダから得た様々な知見を広めたいと、授業や講演、論文や雑誌、展示など、機会をつかまえては、非力ながらもオランダを話題にしております。

ミラノ万博でのオランダパビリオン
昨年訪れたミラノ万博の出展でも、オランダは最先端の在り方を感じさせてくれました。

万博のテーマは「食と環境」。日本は食文化を主題として、鮨を食べる映像で訪問者が疑似体験をするというプログラムもありました。外壁を間伐材で覆ったパビリオンは、正直「?」でした。うねった龍のようなはりぼてが目立つロシアや中国のパビリオンに比べて日本は形は控えめなものの、天ぷらのころもを付けたような造りに、少し恥ずかしさも感じました。

そんな力を誇示するようなパビリオンが並ぶ中で、オランダのメイン会場はキッチンカーを周りに数台置いた休息広場でした。「Share」の表示を掲げ、パラソルや野外ステージ、簡易な池、そして牛の像だけで、パビリオンなしでした。炎天下のなか、誇示はもうたくさんだと感じる頃、気楽に休息のひとときを過ごせる「Share」の場づくり。さすが、デザインの最先端を歩んでいるオランダと嬉しく感じました。その奥には低層の目立たないレストランもありましたが、それは休む人の選択肢の一つとしての施設。そこから少し離れた裏に、芝生の斜面のような建物、オランダの農業によるバイオエネルギーの実践を見せる展示館を発見しました。実際の耕作やプラントの様子とともに、超大型の専用農業機械に乗れることもできます。新たなエネルギーを作りだす方法を、映像のみではなく、現物で体験するという説得力のある展示で、ビジネスにつなげんとするたくましい商魂とともに、次への挑戦への取り組み、啓蒙に心が動かされました。

最先端の国オランダを知る歓びと活動
あらゆる分野で最先端をいく歴史があり、現在も最先端を走る国、オランダ。教育、医療福祉、人権、弱者対応、金融、国際対応、貿易、農業、工業、交通、建設、芸術……。訪問を重ねる度に、どの分野も説得力のある新たな取組みがあり、理想の社会に向かっての実践の積み上げもあると感じます。

例えば、絵の歴史では、レンブラントをはじめゴッホやモンドリアンなど、いずれも次の時代を開く技法のみならず見方や考え方も示した先人が生まれ育ち、現在も音楽やデザインを含めて最先端の人材が活躍しています。しかし、日本では、そうした先進性や素晴らしさはあまり知られておらず、むしろ、自国を先進であると自画自賛し、既得権を守り、他国を軽んじ、学ぼうとしていないのではと感じることも度々あります。

多くの方にオランダの素晴らしさを知っていただこうと思っておりますが、力不足でなかなか伝わりません。毎土・日曜の昼、日本橋のたもとで、自動車道路で壊された日本橋川などの運河や水辺の再生事業の呼びかけとともに、オランダなどの絵も展示している野外ライブをしています。今年で13年目に入りますが、続けられる支えは、自分の心にしかないと思っております。その様子は、物乞いの演奏やホームレスに間違えられる時もあるようですが、思い返せば、故郷の環境や記憶の場が変えられ、また、いられなくなるような境遇では、小生もむしろホームレスを自覚していなかったホームレスなのだと気づきます。活動に上から目線を感じる時には、橋の下の目線でいられる歓びに変えます。

逆に自尊心をくすぐられる点は、自分が作成した構想図が、最先端の国の首都アムステルダムや最先端のデルフト工科大学が2008年に発表した内容とほぼ同様であること、そして小生がオランダの発表よりも4年前に発案・発表していることです。先進国よりも先進の構想なのではという自惚れとともに、ここだけではなく広く波及性のある実現に向けて胸を張れる思いがあります。また、組織や予定調和では得られない、思いがけない出会いや語らいもあります。

日本橋のたもとで活動の姿を見かけられた際には、お声がけいただければ幸いです。後ろのカフェテラスで、出会いと語らいの時間をいただければさら更に感謝です。

 
*********************
次回は世話人の岩波さんのブログです。お楽しみに!
 

03 2月

花と絵

リレーブログ第5回は、世話人の鈴木さんです。オランダとイタリアの思い出を語っていただきました。

**********************************************

花と絵

会員の皆さんは、幾度となくオランダに足を運んだことがあるのではないでしょうか。一方、私の訪蘭といえば1度です。しかし、忘れ難い思い出として、心に残っています。

その貴重なオランダ行は、仕事でした。1990年、アジアで初めて「花と緑の博覧会」が大阪で開催されることになりました。その3年前の1987年、オランダ政府から園芸事業調査ミッションの申し入れがありました。当時、貿易事業担当役員だったオランダ友好協会の初代会長の故石原滋氏が団長としてセゾングループ各社の関係者8名で視察団が構成され、私はその一員に選ばれました。

オランダでは、10年ごとに「フロリアード」という国際 園芸博覧会が開催されているように、園芸大国としてその名を世界に知られています。私たち視察団は、アールスメール花市場やボスコープ植木市場、植物研究所などを10日間にわたり状況視察しました。

園芸大国の実情をつぶさに見学できたことは大いに参考になり、その後、グループ内の園芸事業部門の運営にたずさわるきっかけにもなりました。

 

オランダといえば「チューリップ」の代名詞となっていますが、実は日本もチューリップ球根の大きな輸出国なのです。主要生産地である富山では大正時代から栽培が始まり、昭和13年に初めて米国に輸出されました。以後、チューリップ栽培は順調に推移し、オランダに次ぐチューリップ輸出国となったのです。富山県の砺波野では、今でも4月下旬に700品種、300万本のチューリップが咲き乱れます。

当時、輸入球根は生産地保護のために隔離栽培が義務づけられていました。オランダ政府から自由化ための隔離栽培撤廃の強い申し入れもあって、現在、隔離栽培は撤廃されています。

植物検疫官がオランダに常駐することで撤廃となったのですが、球根のみならず、切り花をはじめとして園芸植物が大量に輸入されるきっかけにもなりました。日本のチューリップ生産地の減少という負の部分もありますが、一方で様々な花を楽しめるようになりました。アマリリス球根ポットも、そのひとつです。我が家でも、冬になると、このアマリリス球根ポットを窓辺に置いて、早咲きの花を楽しんでいます。

 

外国で体験することは、様々な気づきを与えてくれます。オランダでの花の視察旅行の他にもうひとつ、体験をお話したいと思います。それはイタリアを旅した時でした。

私はクリスチャンで、「アッシジのフランチェスコ」という洗礼名をもっています。2007年10月、イタリア人で藤田嗣治の研究家、ピノ・マレラ氏に同行してアッシジを訪れました。それまでの藤田嗣治に関しての私の知識は、東京美術学校(現:東京芸術大学)の西洋画科を卒業後、フランスへ留学、フランスに帰化したおかっぱ頭でロイドめがねという風貌の画家という程度のものでした。

訪れたアッシジでは、サンピエトロ寺院美術館で、藤田嗣治展が開催されていました。そこに展示されていた作品は絵画ではなく、1951年にミラノ・スカラ座でのオペラ『蝶々夫人』の舞台演出のための舞台スケッチと舞台衣装の作品群でした。日本を舞台にした『蝶々夫人』は、外国でよく知られたオペラです。舞台スケッチには、日本の文化・風俗を表現することに細心の注意を払ったものでした。1955年、アメリカ・シカゴで上演されたミラノ・スカラ座のプリマ・ドンナ、マリア・カラスの舞台衣装なども展示されていました。藤田嗣治が、日本文化と風俗を海外にしっかり伝えるために尽力していたということに大変感銘を受けました。以来、藤田嗣治(レオナール・フジタ)の作品を鑑賞するのが楽しみになりました。

帰国してからは、藤田嗣治の随筆集である『地を泳ぐ』、『腕一本』をはじめ、彼の生涯を解説した『異邦人の生涯』などを読み漁りました。日本人としての誇りを作品に表したその生き方を読み取るために、展覧会には必ず足を運んで、じっくり鑑賞することを楽しみのひとつにしています。

 

次回は、特別寄稿を予定しています。お楽しみに!

15 12月

我が青春時代のオランダ

リレーブログ第4回は、会長の村岡さんです。オランダには特別な思い出があるそうです。その思い出とは??

**********************************************

会長とは名ばかりで、オランダには住んだこともなく、同国についての知識に乏しい私には、これまでの執筆者のような立派なご報告をするような材料を持ちあわせませんので、オランダに纏わるごく個人的な懐旧談をひとつだけ。

もう50年以上前の1963年(昭和38年)、私は、当時は未だ西ドイツだったフランクフルトに遊学中でした。学生の身分で、お金はないけれど暇はありあまるほどありました。丁度ボン大学に留学されていた高校時代のドイツ語の恩師であると共に、勝手に兄貴とも恃んでいた村田経和先生のお誘いにのって、ベネルックス3国を回る旅に同行させていただきました。村田先生は、旧日本陸軍の公式銃として評価の高い「村田銃」の開発者である高名な薩摩藩士村田経芳の曽孫です。残念ながら2011年に逝去されました。先生の他に、後に上智大学で教鞭をとることとなるヨープスト氏も一緒でした。

さて、先生の中古の“通称かぶと虫”フォルクスワーゲンを駆って、ベルギー・オランダ・ルクセンブルグを回る気儘な3人旅がはじまりました。泊まりは、ペンションとか、町の郊外のプチホテルがほとんどでしたが、ちょくちょく3人部屋を利用しました。そんな時のヨープスト氏の村田先生に対する態度は、まるで寄り添う恋人のようで、その何とも言えない艶めかしさに、慣れない私はハラハラドキドキ、戸惑うばかりでした。でも、心配ご無用、実は村田先生には、既にお付き合いしていたインゲボルクさんの存在を、私自身が知らなかっただけでした。インゲボルグさんは、当時ボン大学に在学中、その後先生と結婚、日本に来られて、現在はいわゆる「外人タレント」として活躍。先年、NHK朝ドラ「マッサン」ではヒロイン・エリーのスコットランド人の母親役で出演されました。

城壁と渓谷の城砦都市ルクセンブルクは、あっという間に一巡り。

ベルギーのブラッセルでは、旬のムール貝を文字通りバケツ一杯、白ワインとともに堪能しました。

そして愈々オランダに入国。ハーグ、アムステルダムを観光して、旅の最後に赴いたのは、ドイツとの国境に近いライン川沿いの街Arnhem。アーネムと云いますが、当時はアルンヘムともアンヒムとも発音していたように思います。「だまし絵」の版画家M.C.エッシャーの生地でもあります。

その郊外デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園内には、「クレラーミュラー美術館」があります。ドイツの実業家夫妻が収蔵していたヴィンセント・ファン・ゴッホの絵画を主体に、1938年に開館した美術館です。「ゴッホの森」と呼ばれる、森というより、幾分荒涼とした疎林の中の「ゴッホ美術館」は、アムステルダムのそれと並ぶ「二大ゴッホ美術館」ですが、近年の研究によると、贋作とされる作品も相当含まれると云うことです。これは、先日、吉屋敬さん(ゴッホ研究家で、オランダ在住の女流画家。作家吉屋信子の娘さん)から伺ったことです。

さて、私に関しては、この美術館の中のトイレで、なんと、大事に首にかけていたロケットを失くしてしまいました。その中には、当時先を約束していたガールフレンドの写真が納まっていたのです。何故かその時から、急に彼女が遠い存在になってしまい、とうとう約束も反故となったのでした。若い時分にはよくあることでしょうが、このことから、オランダは、私の人生の転機ともなり、同時に苦い重荷ともなっています。

つい先日、当時寂しく綴っていた、その名も「続・孤独の詩集」の中に、その頃の心境を歌った一篇を見つけました。限りなくお恥ずかしいお話しの更に恥の上塗りともなりますので、掲載は遠慮して、これで次の方にこのリレーブログを引き継ぎたいと思います。

写真:水迫尚子

**********************************************

次回は世話人の鈴木さんです。お楽しみに!

14 11月

オランダとの出会いと今

事務局長の寺町です。私のオランダの「出会い」と「今」をお伝えしたいと思います。

 

オランダへ
大学卒業後、商社に就職しました。極東、東南アジアとの貿易を主とする部署に配属され、韓国、台湾、タイなど海外事業を担当しました。扱う商品は無味乾燥な合成樹脂です。

入社してかれこれ約30年たったある日、上司から打診がありました。
「今度、オランダへ行ってくれる?」
主にアジアの国々を担当していた私にとってヨーロッパは未知の地域。不安と期待を胸に、2002年、単身でオランダに渡りました。これが、私とオランダとのつきあいのはじまりです。

赴任先はオランダ南部リンブルグ州で、工業団地で自動車部品を作っている会社でした。オランダ人は150人、日本人はたった2人だけでした。

資金繰りがつかず、借金のお願いでロンドンの銀行まで頭を下げにいったりしたことはありましたが、経営全般は有能な部下のオランダ人常務さんが取り仕切ってくれましたので、ずいぶん楽をさせていただきました。

とはいえ、いつも楽をしていたわけではありません。何しろ極東・東南アジア育ちですので英語が苦手。毎週月曜朝に開かれる幹部社員たちとの定例会議が頭痛の種で、日曜の夜はブルーになったものです。

 

オランダ最南端に住む
住まいは工場から車で30分ほど行ったところにあるマーストリヒトでした。マーストリヒトはアムステルダムから電車で2時間半ほど、オランダ最南端に位置するローマ時代から続く古い街です。マース川ほとりの丘に囲まれた自然とモダンが調和した大学街でもあり、EUの基となったマーストリヒト条約が締結された場所でもあります。そして、オランダでは珍しい美食の街としても有名です。

街で日本人を見かけることがほとんどなかったので、通りを歩くと図らずも目立ってしまいます。日本草の根エンバサダーとして、身なりに気をつけ、ルールを守り、近隣の皆さんと親しくお付き合いすることに努めました。お陰様で友人にも恵まれ、大変充実した3年を過ごすことができました。

 

弁当で社内紛争?
オランダでひとり過ごす私を不憫に思い、家内がお見舞いに来てくれた時です。お願いしてお弁当を作ってもらいました。その日の昼、工場の食堂で「愛妻弁当」をドーンと開くと、仲間たちからどよめきがおこりました。男性陣は「オーッツ!ニホンノオクサン、スバラシイ!」と称賛の声、女性陣からは「テラマチサン。ヨケイナコト、シナイデ!」とブーイング。オランダの奥さんは、オットのために愛妻弁当など作らないのです。おかげでしばらく女性群から睨まれるはめになりました。

 

オランダの友人たちとの休日
オランダ人の友人と私を結びつけていたのは、自転車とおしゃべりとウォーキングです。休日になると自転車で遠出をしたり、ウォーキングの仲間に入れてもらって、1泊2日で森や草原を歩いたり、時には干潮時の海を対岸まで渡るワッドローペン(泥歩きという意味)というオランダならではのアクティビティに参加したりしました。夜はもちろんビールやワインを片手にわいわいおしゃべり。

マーストリヒトの春は、カーニバルとともに訪れます。オランダ南部の州ではそこかしこでカーニバル関連のイベントが行われますが、マーストリヒトは陽気で派手なことでこと有名です。カーニバルが行われる3日間は、街中仮装した人だらけになり、普段着でいるほうが裸で外出しているような感覚に陥るほどです。普段は真面目な私もここぞとばかり仲間と仮装して街に繰り出しました。

 

オランダと今
3年の任期を無事終えて、2005年に帰国しました。再び東京での日常に戻りましたが、思いがけず転機が訪れます。そのきっかけとなったのは、オランダ時代の友人でした。マーストリヒトでの親しい友人にGuus Roellさんというアンテイーク商がいました。日本に帰国する時、冗談まじりに「日本で支店を開こうか」言っていたのが、定年退職後、現実となったのです。

現在、桃山・江戸時代に出島からヨーロッパに輸出された古美術品を日本の博物館に納めるという、里帰りに取り組んでいます。実績はわずかですが、時空を超えてオランダから日本へ帰ってきたものを手にしたとき、作者と、この作品に関わった様々な人たちのことが偲ばれます。

ただ残念なことに、当方をリードしてくれた博物館の学芸員の方が、この夏、出張先のミラノで急逝。仲間を失い、この取り組みがどこまでできるか分かりませんが、引き続き歴史資料の里帰りに少しでも貢献できればと思っています。

 

次回は会長の村岡さんです。お楽しみに!

03 10月

美味しい?まずい?  ―江戸時代、長崎出島における日蘭料理交流―

リレーブログ第二回目は、日蘭交流史を研究している白石広子さんです。

今回は、「食」にまつわる興味深いお話です。
*********************

1641年に平戸オランダ商館は江戸幕府によって引っ越しを命じられ、長崎出島に移転しました。その後1855年まで214年間の長きにわたってオランダ商館は出島にありました。衆知のように日本とオランダの交流はヨーロッパ諸国の中で群を抜いて長く、深いものだったのです。

江戸時代の商館員は出島でどのような食文化のもとに生活したのでしょうか。

例えば下級商務員、船員の場合を見てみましょう。これは幕末に渡来した有名なオランダ人医者のポンぺ・ファン・メールデルフォールトの蘭領印度医学会紀要に載せた報告書に書かれたものです。

「食べ物は米にカレーソースと魚を副えたもの、鹿肉のスープ、野菜、鶏卵、豚肉などで、昼食は人参、鶏卵位、たまに朝夕は上等の白パンと茶、それに揚げた魚や蒸し焼きの鶏などがつく」とあります。
オランダでは伝統的に朝食、昼食は軽くすませ、夕食に重点をおいた食事をし、食事の間にコーヒ―、紅茶、酒などの嗜好品と共に軽食をとるという食習慣をもっていました。
西明眞理氏の研究によると、オランダ料理を以下のように分析しています。

  1. 野菜がもっとも重要な位置を占める
  2. 質素で炭水化物と脂肪にとんだ家庭的な料理
  3. 菓子の種類が豊富
  4. オランダで最も一般的な飲み物はビール、ワイン。ハチミツ酒である。ワイン、ブランディ、ジンは初め薬物として用いられた。リキュールのような甘い飲み物は女性用とされた
  5. デザートは食事の重要な位置を占めた。スープや豆料理といった質素な食事はデザートによって完全なものとなった。デザートとは各地でとれる自家製材料を使って、作られた堅いケーキのようなもの

こういう料理はオランダの風土と密接に関係があります。気候の厳しさ、重労働、日射が少ないことで甘くて高カロリーの食物が求められたようです。

ただ野菜を重視する食習慣は日本になじみやすかったのかも知れません。

オランダ料理はテーブルを使うので別名「ターフル(テーブル)料理」といいました。
ビール、アラキ酒、チンダ酒、馬鈴薯、パイナップル、パセリ、不断草、チシャ(サラダ菜)、チョコレート、ボートル(バター)、トマトなどはオランダから伝来したものです。

オランダ商館の上級商務員(商館長、次席館員、荷倉役、上筆者(書記官)医者、簿記役など)がオランダ正月などで食べた料理が次の2枚の図に再現されています。


森島中良『紅毛雑話』はこれらと共に21種の料理レシピが載っています。


(『長崎出島の食文化』親和文庫 1993)

1,2図を見ると広く日本人の中に入りこんでいた南蛮料理や南蛮菓子を、取り入れてより洗練を加えオランダ料理として供応料理に仕上げたものが、いくつか見られます。

南蛮料理とはオランダ以前にキリスト教布教のために日本にやって来たポルトガルやスペイン人が伝えた料理のことをいいます。オランダ人と違ってしばらく市中に日本人と雑居していたために、ポルトガル語や料理も人々の中に広まったものと思われます。

例えばヒリョウズ(がんもどき)てんぷら、ヒカド(鮪、大根。甘藷を混ぜて煮て醤油で味をつけたもの)牛肉調理、豚肉調理などです。南蛮菓子はカステラ、金平糖、ボーロ、有平(アルヘル)糖、カルメラ、ビスケットなどがあり、現在の我々にもなじみがあります。

上記図中にもビスケットやカステラ、牛や豚の料理などが並んでいます。

パンもポルトガル人から伝えられたもので、長崎には既にパン屋さんが多く存在し、オランダ人はこれを利用していたようです。今のパンと違って、酒蒸し饅頭のような仕上がりで、日本人には特に珍しいものではなく、人気がなかったと伝えられています。

商館には「出島くずねり」と呼ばれていた3人の日本人調理人が奉行所から派遣され、その内2人の「くずねり」がカピタンの江戸参府に同行したようです。こうした「くずねり」が西洋料理の伝播者だったのです。南蛮料理をオランダ風に工夫して洗練させ、日本にある魚や野菜を料理のレシピに加えたのも、もしかしたら「くずねり」の仕業だったのかもしれません。こうして出来た本国とは少し違った出島オランダ料理を習得した料理人が、明治以降今に至る日本の西洋料理のルーツだったのです。

商館員達はオランダ本国の食習慣に従いつつ、日本の食材を味わい、日本におけるオランダ料理で大いに食事を楽しんだと想像されます。その陰には日本人「くずねり」の力があったと信じたいものです。日蘭交流の舞台は出島オランダ料理を通しても繰り広げられていました。

参考資料
『長崎料理史』和田常子 柴田書店 1958(昭和33)
『日本食物史下』笹川臨風・足立勇 雄山閣 1973(昭和48)
『日本食物史』江原絢子・石川尚子・東四柳祥子 吉川弘文館 2009(平成21)
『長崎出島の食文化』料理再現図 親和文庫 1993(平成5)
「出島オランダ商館における西洋料理に関する一考察」西明眞理
『日蘭文化交渉史の研究』板沢武雄 吉川弘文館 1959(昭和34)
『長崎料理』「百花繚乱の長崎料理」脇山順子 長崎新聞社 2005(平成17)

次回は、寺町さんのブログです。

お楽しみに!

17 8月

ワタシは自由だ! ~アムステルダムのゲイパレード~

こんにちは。世話人の水迫です。これから不定期にFANの運営メンバーによるリレーブログを始めます。僭越ながらトップバッターとして、オランダからの便りをお送りします。

7月末からオランダに滞在しています。8月1日にアムステルダムでゲイバレードが開かれるというので行ってみました。50万以上の人々が見学するそうです。

アムステルダム中央駅から中心街に歩いていくと、ゲイの人々の象徴である虹色の旗があちこちに飾られていました。

IMG_7944

先に白状しておきます。ゲイバレードと聞いて、ドラッグクイーンたちが楽しそうに集う様を見学するだけで、あくまでも内輪で盛り上がるイベントだと思っていました。

が! 広場や通りにDJが繰り出して町全体がクラブ化しています。お腹に響く大音響のリズムにあわせて地元の人も、ゲイの人たちも、観光客も、踊ったり、飲んだり、とにかく嬉しそう。お祭り特有の楽しさだけではなく、なんだかはじけるような喜びに満ち満ちています。

男の人が男の人を好きになる。女の人が女の人を好きになる。オランダでは早くから同性婚が認められていますが、世界的に見ればまだまだマイノリティ。「ワタシはワタシ。何にも束縛されない自由な存在なんだ!」運河に次々と繰り出すボートの上で、自分らしくいられることへのが喜びを爆発させ、ガンガン流れる音楽と一体となって、街に、見学している人々に伝染しています。ゲイパレードのことをよく知らなかった私にも、その喜びが伝わってきました。

 

にしても、これだけの混雑、イベントを問題もなくよく運営できるもんだと、オランダ人のイベントオーガナイズ力に感心しました。

 

オランダはリベラルを尊ぶ大人の国と言われます。ゲイパレードで改めてそれを感じました。月並みですが、人種とか、性別とか、性向とかはその人を形作るものであるけれど、いちばん大切なのは、ワタシは自由だということを知ることなんですね。

 

次は副会長の白石さんによるブログです。お楽しみに。