14 11月

オランダとの出会いと今

事務局長の寺町です。私のオランダの「出会い」と「今」をお伝えしたいと思います。

 

オランダへ
大学卒業後、商社に就職しました。極東、東南アジアとの貿易を主とする部署に配属され、韓国、台湾、タイなど海外事業を担当しました。扱う商品は無味乾燥な合成樹脂です。

入社してかれこれ約30年たったある日、上司から打診がありました。
「今度、オランダへ行ってくれる?」
主にアジアの国々を担当していた私にとってヨーロッパは未知の地域。不安と期待を胸に、2002年、単身でオランダに渡りました。これが、私とオランダとのつきあいのはじまりです。

赴任先はオランダ南部リンブルグ州で、工業団地で自動車部品を作っている会社でした。オランダ人は150人、日本人はたった2人だけでした。

資金繰りがつかず、借金のお願いでロンドンの銀行まで頭を下げにいったりしたことはありましたが、経営全般は有能な部下のオランダ人常務さんが取り仕切ってくれましたので、ずいぶん楽をさせていただきました。

とはいえ、いつも楽をしていたわけではありません。何しろ極東・東南アジア育ちですので英語が苦手。毎週月曜朝に開かれる幹部社員たちとの定例会議が頭痛の種で、日曜の夜はブルーになったものです。

 

オランダ最南端に住む
住まいは工場から車で30分ほど行ったところにあるマーストリヒトでした。マーストリヒトはアムステルダムから電車で2時間半ほど、オランダ最南端に位置するローマ時代から続く古い街です。マース川ほとりの丘に囲まれた自然とモダンが調和した大学街でもあり、EUの基となったマーストリヒト条約が締結された場所でもあります。そして、オランダでは珍しい美食の街としても有名です。

街で日本人を見かけることがほとんどなかったので、通りを歩くと図らずも目立ってしまいます。日本草の根エンバサダーとして、身なりに気をつけ、ルールを守り、近隣の皆さんと親しくお付き合いすることに努めました。お陰様で友人にも恵まれ、大変充実した3年を過ごすことができました。

 

弁当で社内紛争?
オランダでひとり過ごす私を不憫に思い、家内がお見舞いに来てくれた時です。お願いしてお弁当を作ってもらいました。その日の昼、工場の食堂で「愛妻弁当」をドーンと開くと、仲間たちからどよめきがおこりました。男性陣は「オーッツ!ニホンノオクサン、スバラシイ!」と称賛の声、女性陣からは「テラマチサン。ヨケイナコト、シナイデ!」とブーイング。オランダの奥さんは、オットのために愛妻弁当など作らないのです。おかげでしばらく女性群から睨まれるはめになりました。

 

オランダの友人たちとの休日
オランダ人の友人と私を結びつけていたのは、自転車とおしゃべりとウォーキングです。休日になると自転車で遠出をしたり、ウォーキングの仲間に入れてもらって、1泊2日で森や草原を歩いたり、時には干潮時の海を対岸まで渡るワッドローペン(泥歩きという意味)というオランダならではのアクティビティに参加したりしました。夜はもちろんビールやワインを片手にわいわいおしゃべり。

マーストリヒトの春は、カーニバルとともに訪れます。オランダ南部の州ではそこかしこでカーニバル関連のイベントが行われますが、マーストリヒトは陽気で派手なことでこと有名です。カーニバルが行われる3日間は、街中仮装した人だらけになり、普段着でいるほうが裸で外出しているような感覚に陥るほどです。普段は真面目な私もここぞとばかり仲間と仮装して街に繰り出しました。

 

オランダと今
3年の任期を無事終えて、2005年に帰国しました。再び東京での日常に戻りましたが、思いがけず転機が訪れます。そのきっかけとなったのは、オランダ時代の友人でした。マーストリヒトでの親しい友人にGuus Roellさんというアンテイーク商がいました。日本に帰国する時、冗談まじりに「日本で支店を開こうか」言っていたのが、定年退職後、現実となったのです。

現在、桃山・江戸時代に出島からヨーロッパに輸出された古美術品を日本の博物館に納めるという、里帰りに取り組んでいます。実績はわずかですが、時空を超えてオランダから日本へ帰ってきたものを手にしたとき、作者と、この作品に関わった様々な人たちのことが偲ばれます。

ただ残念なことに、当方をリードしてくれた博物館の学芸員の方が、この夏、出張先のミラノで急逝。仲間を失い、この取り組みがどこまでできるか分かりませんが、引き続き歴史資料の里帰りに少しでも貢献できればと思っています。

 

次回は会長の村岡さんです。お楽しみに!

03 10月

美味しい?まずい?  ―江戸時代、長崎出島における日蘭料理交流―

リレーブログ第二回目は、日蘭交流史を研究している白石広子さんです。

今回は、「食」にまつわる興味深いお話です。
*********************

1641年に平戸オランダ商館は江戸幕府によって引っ越しを命じられ、長崎出島に移転しました。その後1855年まで214年間の長きにわたってオランダ商館は出島にありました。衆知のように日本とオランダの交流はヨーロッパ諸国の中で群を抜いて長く、深いものだったのです。

江戸時代の商館員は出島でどのような食文化のもとに生活したのでしょうか。

例えば下級商務員、船員の場合を見てみましょう。これは幕末に渡来した有名なオランダ人医者のポンぺ・ファン・メールデルフォールトの蘭領印度医学会紀要に載せた報告書に書かれたものです。

「食べ物は米にカレーソースと魚を副えたもの、鹿肉のスープ、野菜、鶏卵、豚肉などで、昼食は人参、鶏卵位、たまに朝夕は上等の白パンと茶、それに揚げた魚や蒸し焼きの鶏などがつく」とあります。
オランダでは伝統的に朝食、昼食は軽くすませ、夕食に重点をおいた食事をし、食事の間にコーヒ―、紅茶、酒などの嗜好品と共に軽食をとるという食習慣をもっていました。
西明眞理氏の研究によると、オランダ料理を以下のように分析しています。

  1. 野菜がもっとも重要な位置を占める
  2. 質素で炭水化物と脂肪にとんだ家庭的な料理
  3. 菓子の種類が豊富
  4. オランダで最も一般的な飲み物はビール、ワイン。ハチミツ酒である。ワイン、ブランディ、ジンは初め薬物として用いられた。リキュールのような甘い飲み物は女性用とされた
  5. デザートは食事の重要な位置を占めた。スープや豆料理といった質素な食事はデザートによって完全なものとなった。デザートとは各地でとれる自家製材料を使って、作られた堅いケーキのようなもの

こういう料理はオランダの風土と密接に関係があります。気候の厳しさ、重労働、日射が少ないことで甘くて高カロリーの食物が求められたようです。

ただ野菜を重視する食習慣は日本になじみやすかったのかも知れません。

オランダ料理はテーブルを使うので別名「ターフル(テーブル)料理」といいました。
ビール、アラキ酒、チンダ酒、馬鈴薯、パイナップル、パセリ、不断草、チシャ(サラダ菜)、チョコレート、ボートル(バター)、トマトなどはオランダから伝来したものです。

オランダ商館の上級商務員(商館長、次席館員、荷倉役、上筆者(書記官)医者、簿記役など)がオランダ正月などで食べた料理が次の2枚の図に再現されています。


森島中良『紅毛雑話』はこれらと共に21種の料理レシピが載っています。


(『長崎出島の食文化』親和文庫 1993)

1,2図を見ると広く日本人の中に入りこんでいた南蛮料理や南蛮菓子を、取り入れてより洗練を加えオランダ料理として供応料理に仕上げたものが、いくつか見られます。

南蛮料理とはオランダ以前にキリスト教布教のために日本にやって来たポルトガルやスペイン人が伝えた料理のことをいいます。オランダ人と違ってしばらく市中に日本人と雑居していたために、ポルトガル語や料理も人々の中に広まったものと思われます。

例えばヒリョウズ(がんもどき)てんぷら、ヒカド(鮪、大根。甘藷を混ぜて煮て醤油で味をつけたもの)牛肉調理、豚肉調理などです。南蛮菓子はカステラ、金平糖、ボーロ、有平(アルヘル)糖、カルメラ、ビスケットなどがあり、現在の我々にもなじみがあります。

上記図中にもビスケットやカステラ、牛や豚の料理などが並んでいます。

パンもポルトガル人から伝えられたもので、長崎には既にパン屋さんが多く存在し、オランダ人はこれを利用していたようです。今のパンと違って、酒蒸し饅頭のような仕上がりで、日本人には特に珍しいものではなく、人気がなかったと伝えられています。

商館には「出島くずねり」と呼ばれていた3人の日本人調理人が奉行所から派遣され、その内2人の「くずねり」がカピタンの江戸参府に同行したようです。こうした「くずねり」が西洋料理の伝播者だったのです。南蛮料理をオランダ風に工夫して洗練させ、日本にある魚や野菜を料理のレシピに加えたのも、もしかしたら「くずねり」の仕業だったのかもしれません。こうして出来た本国とは少し違った出島オランダ料理を習得した料理人が、明治以降今に至る日本の西洋料理のルーツだったのです。

商館員達はオランダ本国の食習慣に従いつつ、日本の食材を味わい、日本におけるオランダ料理で大いに食事を楽しんだと想像されます。その陰には日本人「くずねり」の力があったと信じたいものです。日蘭交流の舞台は出島オランダ料理を通しても繰り広げられていました。

参考資料
『長崎料理史』和田常子 柴田書店 1958(昭和33)
『日本食物史下』笹川臨風・足立勇 雄山閣 1973(昭和48)
『日本食物史』江原絢子・石川尚子・東四柳祥子 吉川弘文館 2009(平成21)
『長崎出島の食文化』料理再現図 親和文庫 1993(平成5)
「出島オランダ商館における西洋料理に関する一考察」西明眞理
『日蘭文化交渉史の研究』板沢武雄 吉川弘文館 1959(昭和34)
『長崎料理』「百花繚乱の長崎料理」脇山順子 長崎新聞社 2005(平成17)

次回は、寺町さんのブログです。

お楽しみに!

17 8月

ワタシは自由だ! ~アムステルダムのゲイパレード~

こんにちは。世話人の水迫です。これから不定期にFANの運営メンバーによるリレーブログを始めます。僭越ながらトップバッターとして、オランダからの便りをお送りします。

7月末からオランダに滞在しています。8月1日にアムステルダムでゲイバレードが開かれるというので行ってみました。50万以上の人々が見学するそうです。

アムステルダム中央駅から中心街に歩いていくと、ゲイの人々の象徴である虹色の旗があちこちに飾られていました。

IMG_7944

先に白状しておきます。ゲイバレードと聞いて、ドラッグクイーンたちが楽しそうに集う様を見学するだけで、あくまでも内輪で盛り上がるイベントだと思っていました。

が! 広場や通りにDJが繰り出して町全体がクラブ化しています。お腹に響く大音響のリズムにあわせて地元の人も、ゲイの人たちも、観光客も、踊ったり、飲んだり、とにかく嬉しそう。お祭り特有の楽しさだけではなく、なんだかはじけるような喜びに満ち満ちています。

男の人が男の人を好きになる。女の人が女の人を好きになる。オランダでは早くから同性婚が認められていますが、世界的に見ればまだまだマイノリティ。「ワタシはワタシ。何にも束縛されない自由な存在なんだ!」運河に次々と繰り出すボートの上で、自分らしくいられることへのが喜びを爆発させ、ガンガン流れる音楽と一体となって、街に、見学している人々に伝染しています。ゲイパレードのことをよく知らなかった私にも、その喜びが伝わってきました。

 

にしても、これだけの混雑、イベントを問題もなくよく運営できるもんだと、オランダ人のイベントオーガナイズ力に感心しました。

 

オランダはリベラルを尊ぶ大人の国と言われます。ゲイパレードで改めてそれを感じました。月並みですが、人種とか、性別とか、性向とかはその人を形作るものであるけれど、いちばん大切なのは、ワタシは自由だということを知ることなんですね。

 

次は副会長の白石さんによるブログです。お楽しみに。