わが青春を振り返って~1967年40日間のヨーロッパの旅~ 前編

新型コロナ感染症の影響で、外出自粛が呼びかけられています。有り余っている時間だけが過ぎていくなか、今年はいよいよ後期高齢者の仲間入り。そこで、50年前のヨーロッパ旅行を振り返ってみようと筆を執ることにしました。

アルバムや当時のパンフレットなどを引っ張り出しながら「わが青春の足跡」を振り返り、断片的に記憶に残っている事柄を時系列に書き起こしてみました。すいぶん記憶が飛んでしまっていますが、若さを頼りに自分の足で動きまわり、二度と味わう事ができない数々の体験をしました。それらは、その後の長い人生の中で出合ういろいろな場面で自信につながり、今があると誇りに思っております。

それでは、しばらく私の旅の足跡におつきあいください。

旅行を楽しむきっかけ

ヨーロッパ旅を記す前に、私が旅行好きになったきっかけから始めたいと思います。

初めての「旅」は1957年の夏、私がまだ小学5年生の時。3つ下の妹とふたりだけで九州・都城にいる祖母を訪ねることになりました。東京から日豊線経由急行、今は廃止なった高千穂号での27時間の列車の旅でした。妹を気遣いながらの列車の旅は緊張の連続でしたが、目に映るもの、聞こえる音、何もかもが新鮮で、世界が一気に広がったような冒険旅でした。

次に鮮やかに思い出されるのは高校2年の時、北海道大学に入った3つ違いの兄を訪ねる旅です。あこがれの学生寮「恵迪寮」に入寮している兄と兄の友人と3人で北海道最高峰の旭岳・黒岳を縦走して勇駒別から音威子府・稚内と1週間のテント生活を経験しました。

この経験を通して、自分は旅が好きだということを自覚しました。そして、1965年、千葉大学園芸学部に入学したその夏、九州の親戚たちを回りながら、九州1周一人旅を計画。均一周遊券(20日間)を利用して、大きなリュックを担いで東京~久留米~長崎~熊本~阿蘇~高千穂~宮崎~都城~鹿児島を巡り、大学2年の夏には、高校の仲間4人とテントを担いで南紀伊の海岸線を1週間歩く貧乏旅行を経験しました。

こうして日本列島の北から南を巡る鉄道の旅を経験した後、視線は外国へと向けられました。行先はヨーロッパ。当時イタリア・ローマに留学していた叔父を訪ねること、その機会にヨーロッパ周遊をしてスイスのマッターホルンに登る計画を思い立ちました。

師として尊敬している叔父

ここで、叔父尻枝正行のことを少し紹介させていただきます。

尻枝正行は私の母の弟で、カトリックのサレジオ会修道院に所属し、生涯、神に仕える信仰生活を送りました。叔父はバチカンの中で仏教関連について研究している唯一の日本人神父として、諸宗教対話評議会の重責を担っていました。

叔父の足跡を時系列で記します。

1932年 鹿児島市にて出生。
1952年 サレジオ修道会に入会。
1957年 イタリアに留学
1963年 イタリア・トリノにて司祭叙階。
1974年 バチカン聖庁の諸宗教対話評議会事務局次官に就任。
1981年 初来日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の随行員として来日。
1986年 アッシジにてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が「世界平和の祈りの集会」を開催された際に日本の仏教団との橋渡しに尽力。
2007年 ローマにて帰天、享年75歳。 バチカン郊外の地ジェンツアーノに埋葬される。

また、白内障で視力を失いかけていた頃の作家曽野綾子氏とバチカンからの往復書簡のやり取りをまとめた共著『別れの日まで~東京バチカン往復書簡~』、『愛の奇蹟~バチカンの小窓より33通の手紙』『永遠を今に生きる~バチカンの小窓』の著書を残しています。

いよいよヨーロッパへ
1950年代前半、ローマまで行こうとすると、飛行機は南回り経由のみで、約24万円かかっていました。1956年、日・ソ間の国交が回復し、横浜港とナホトカとの間にナホトカ航路が再開。海路・ナホトカ航路を経てユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道を利用した廉価なヨーロッパ行きルートができるようになりました。

私はこのルートでのヨーロッパ周遊旅行を計画、一年前から家庭教師とアルバイトを重ねながら何とか目標額30万円のめどを立て、交通公社(現在のJTB)で募集していた40日間「ソ連経由ヨーロッパ行き旅行・ウィーンコース」を申し込みました。

当時は、ヨーロッパの鉄道割安チケット「ユーロパス」はありませんでした。高校の地図帳と今は廃刊となったトーマスクック社『国際鉄道時刻表』をにらめっこしながら利用する鉄道を探します。都市間の移動は極力夜行列車を利用して車中泊、早朝到着後、市内観光をしたのち、また夜行列車で移動という貧乏旅行です。交通公社経由で事前に切符を日本円で購入することができ、ドイツ国内の連続チケットは半額になり合計4万円程度だったと記憶しています。

宿泊はユースホステルを事前に予約。当時は1ドルが360円の時代です。ユースホステルとはいえフランス、スイス、ドイツともホテル並みの快適なもので1泊2,000~3,000円程度だったと記憶しています。その頃のユースホステルは、宿泊者のボランティア(奉仕活動)が義務付けられており、食料品を倉庫に運んだりしました。

メールどころかファックスもない時代、ローマにいる叔父との手紙のやり取りを重ね、旅行の半年前には、ほぼ受け入れの承諾を得ることができました。

出発 ナホトカ航路(横浜港からナホトカへ)
第1日目7月28日

1967年(昭和42年)、7月28日、40日間のヨーロッパ周遊の旅へ出発です。
両サイドに大きなポケットがついているキスリングに飯盒と固形燃料、コメ1升と寝袋、写真フイルムを12本を詰め込みました。余談ですが、当時、富士フイルムのネガフィルムは各国のJAL営業所カウンターに持ち込むと自宅まで郵送してくれるサービスがありました。それを利用してパリのJAL 営業所からネガフィルムを送り、私が帰国する前にすでに両親は、私の旅の模様を写真を楽しんだそうです。

私が乗ったソ連船の真っ白なハバロフスク号は、横浜港大桟橋からナホトカへ向けて出港。大桟橋には、両親と高校・大学時代の仲間らが見送りに来てくれて、銅鑼が鳴り始めると船はボーボーという汽笛とともに桟橋を離れていきました。岸壁がだんだん遠くなると、無事に帰ってくることできるのか急に心配になり、胸にこみあげてくる思いに涙をぐっと抑えていたのを鮮やかに覚えています。

横浜港からナホトカまでは2泊3日の船旅です。太平洋を北上し、津軽海峡を越えて日本海に入ると揺れがひどくなりましたが、船内は非常に快適でゆったりした時間が流れています。昼間はデッキで卓球したり、ホールでは映画を楽しんだり、サロンでは毎夜、ダンスパーティがあったりしました。外国人を見る目が慣れてきて、これから見知らぬ国への不安が少しずつ薄れてくるのが分かりました。

船内の食事は、船内放送でアナウンスがあります。席は指定ではなく、テーブルに自由に着席します。基本的にロシア料理が中心で、初めてのフォークとナイフの食事に苦労したましたが、すぐに慣れました。ウエイトレスは、金髪で色が白く美人でしたが、顔を覗くとなんとなく違和感があり、よく見ると鼻の下にうっすらと産毛が生えているのに気づき、ロシア人の女性は毛深いのかも……などと思いました。

私は身長175センチで低いほうではないのですが、トイレでは背伸びをしないと用を足すことができないほど高く、外国人の大柄な体格を改めて実感したりしたものです。

シベリア鉄道でハバロフスクへ
第3日目7月30日

昼過ぎにナホトカ港に入港。港は軍港らしく戦艦が停泊していました。カメラを向けるとインツーリストの添乗員に注意され、慌ててカメラをザックへしまい、岸壁に横着けされた入国管理事務所の建物へ。初めて外国の地に足をおろした瞬間でした。入国審査を無事に済ませたのち、シベリア鉄道のナホトカ駅に移動。 ホームは日本のように高くなく線路から少し上がっている程度で、列車は見上げるようで、くすんだ緑色がいかにも頑丈そう。駅の周りには国民服の中国系の顔をした人たちがいて、なんとなく彼らの冷たい視線が気になりました。車内は2段ベッドのコンパートメントになっており、車掌は愛想がよい太った女の車掌でした。ハバロフスク駅までは、16時間の旅でした。

第4日目(7月31日)

ハバロフスクに着くと、すぐにホテルに案内され、ひとまず部屋でくつろいで、翌日、市内観光。西洋風の落ち着いた建物が立ち並び、外国へ来たんだという実感がわきました。革命50周年らしく、街中にレーニンのポスターがやたら目につきます。中国との国境に横たうアムール川辺を眺めた後、レーニン像のある広場など市内観光を楽しみながら、夕刻、ソ連国営航空にてイルクーツクへ。
生まれて初めて乗る飛行機、しかもに共産圏の飛行機ということで、緊張が走ります。こわごわ乗り込んでしばらくすると、機体がふわっと宙に浮いて、眼下の街並みがどんどん小さくなっていきました。何とも言えない気分でした。

第5日目 8月1日

午前中はイルクーツク市内観光をしながら、世界一の透明度を誇るシベリアの珠玉、バイカル湖を遊覧船で周遊。湖岸の博物館見学の後、ソ連の観光団とソ連の学生達がギターを弾きながらロシア民謡を歌ってくれ、私たちもハミングで参加。思わぬ文化交流のひと時を楽しみました。
イルクーツクからソ連国営航空でソ連の首都、モスクワに向かいます。
夜の9時を過ぎているのに、未だ地平線には太陽があり、夕方4時くらいの白夜の光景です。眼下には、どこまでも続くツンドラの原生林が広がり、ただただ驚くばかりでした。

第6日目 8月2日

翌日着いたモスクワは、ナホトカやハバロフスクとは比べようもない、さすが大都市。ロシアの風格があり、共産圏の暗さは少しも感じられません。とはいえ、自動車はガタガタで古いものが多く、ウインドウの商品を見ても、この国が宇宙開発の先端をいっているのかと、ちぐはぐな感じを受けます。赤の広場、クレムリン宮殿、レーニン廟、モスクワ大学等を見学。クレムリン宮殿内のイワン皇帝の大きな「鳴らずの鐘楼」の見学では長蛇の列に並んで、入場を待ったのを覚えています。

第7日目 8月3日

旅行前にモスクワでは物々交換で喜ばれると聞いていたので、シームレスのストッキングとかチュウインガムを持参していたのですが、穴の空いた5円玉が珍しがられたのは意外でした。そして、公園のベンチに座っていると何処からともなく小声で「ドルを交換」と言いよって来る人がいたのには驚きでした。
夜中23時にモスクワの白ロシア駅から「国際列車ショパン号硬席寝台に乗り、ミンスク・ワルシャワ経由で最終地ウイーンへ。

いよいよツアーの最終地ウイーンへ
第8日目 8月4日

途中ポーランドのワルシャワで、列車の台車交換のため約2時間停車。 駅の外に出て散策すると、まだ大戦の弾痕を残した壁や建物を至る所に見ました。ふらっと立ち寄った公園では、金髪の女の子たちが遊んでいました。しばらく見ていると、ままごとに入れてくれて、小さなコップで乾杯をしたりしました。別れ際にコップに差してあった赤い花をくれ、地面に敷いたシートを振って私たちを送ってくれました。シートをふる少女たちの情景を今でも時々思い出します。それは言葉が通じなくても心で会話ができる体験でもありました。

第9日目 8月5日

午前中、最終目的地、ウイーン駅に到着。ウイーンの街は、本当に静かで、ここが首都なのかと疑いたくなるほど人通リが少なく、老人が多く、街全体が眠っているような感じでした。とはいえ、公園の大きさ、刈込みの素晴らしさは日本の公園とは、遠く及びもしない美景を作り出していました。公園の近くで5年前からウイーンに音楽留学をしている女性にばったり会い、久しぶりの日本語であいさつを交わした後、彼女のアパートに招待されて、味噌汁、海苔、梅干しなど純日本風の食事をごちそうになりました。食事の後、労働奉仕としてかつお節削りを手伝いました。

いよいよ夜行列車でイタリアへ向かう日が来ました。それは、日本から一緒だった仲間たち15名が2つのグループに分かれ、ドイツに、イタリアにと、それぞれの次の目的地に向かう旅発ちの日でもあります。お互いに手を取り合って別れを惜しみ、今更ながらここが外国であることに、急に心細さを感じました。

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次回は、鈴木さんのヨーロッパ旅行の最大の目的である叔父上尻枝正行氏との再会を中心に、思い出を語っていただきます。お楽しみに。