今回は、マーストリヒトをこよなく愛する事務局長の寺町さんから。オランダ人の仕事のパートナーから、一通のメールがやってきます。そこから、推理小説顔負けの大捜索が!
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~謎の失踪を遂げたイタリア画家ロムアルド・ロカテリ―の幻の肖像画を追って~
猛暑の昼下がり、オランダから郵便物が届きました。何だろう? ずっしりと重く、本の様です。差出人を見ると、“GIANNI ORSINI ”。 ああ、オルシニさんだ。
昨年、彼の執筆活動に協力し、夢中であることを調べていたのですが、ようやくその本ができ上がったのだ。包みを開けてみると、A3版の立派な画集がでてきました。
昨年秋、オランダの友人から一本のメールがきました。
「作家である友人が、イタリアの著名な画家であるROMUALD LOCATELLI(ロカテリー)の伝記を執筆している。それに協力してくれないか。」
その作家がオルシニ氏でした。
オルシニ氏からの依頼はこうでした。
「今、イタリアの画家ロカテリ―について伝記を書いている。ロカテリーは1942年、当時日本占領下のマニラで日本軍司令官だった本間雅晴中将の肖像画(縦2m x 横1m)を描いた。翌1943年、マニラで謎の失踪を遂げた。
肖像画は、ロカテリーの最後の作品であること、そして日本の軍人との交流を物語るものとして、伝記にとって非常に重要な位置づけとなる。
本間中将は、肖像画が描かれて間もなくの1942年8月、日本へ帰国。肖像画を潜水艦で持ち帰ったと言われているが、所在が分からない。
肖像画を探す協力をして欲しい。」
私にとっては、ロカテリーも、本間中将も知らないご仁たち。乗り気ではありませんでしたが、大切なオランダの友人からの依頼でもあり、まずはロカテリーと本間中将をネットで検索してみました。
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ロカテリーについて(1905-1943)
イタリアのベルガモで生まれる。イタリアの画壇で成功を収めるも税務問題などで精神的に疲弊し、1939年1月、オランダの友人の手を借りて、オランダ領インドのバタビアへ居を移す。
インドネシアの緑と太陽(青い空)に癒され、積極的な制作活動を再開する。
1940年5月、バタビアを離れ上海、東京を訪問後、マニラに移す。
マニラで大統領や米国政府高官との交流を深め、大統領家族の肖像などを描く。アメリカに渡る予定だったが、太平洋戦争が勃発、日本がマニラを占領したことから機会を逸し、マニラに滞在。
1943年、マニラ郊外の森にバードハンテイングに出かけ、そのまま行方不明となる。
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本間中将について(1887-1946)
佐渡出身。若い頃、英国で駐在武官を務める。英語が堪能。詩をたしなみ、長身で端正な風貌も手伝い、欧米軍人の間で人気があり、尊敬されていた。太平洋戦争開戦時に、マニラ司令官としてマッカーサーをフィリピンから撃退したことから、敗戦後マッカーサーの恨みを買い(と言われている)、直接には責任の無かった「バターン死の行進」の罪で、戦犯としてマニラの法廷で死刑を宣告され、執行された。その時、中将を信頼して想う妻の法廷での証言は、裁判官、検事の涙を誘ったと言われている。
処刑は、彼の名誉を重んじ、絞首刑ではなく銃殺刑で行われた。
これを読んで俄然興味が湧き、依頼を引き受けることにしました。
調査開始です。
>>まず佐渡役場・新聞社佐渡支局へアプローチ
まずは本間中将の出身、佐渡役場・新聞社佐渡支局へのアプローチから始めました。手紙を書き、頃合いをみて電話で問い合わせです。興味を抱いていただき、郷土史家にも問い合わせいただくも、佐渡には本間中将の親類縁者もおらず、本件に関する情報はありませんでした。
>>次に東京の大新聞へアプローチ
この結果をオルシニ氏に報告したところ、彼から、ロカテリー夫妻がバタビアからマニラに居を移した1940年の6月~7月にかけて2週間東京に滞在し、著名画家の来日ということで新聞社のインタビューを受けたらしいとの情報を得ました。早速この記事の検索を朝日、読売、毎日新聞各社へ問い合わせするも、成果なし。
ちなみにこの時の各新聞社の担当者の対応はまちまちで、結果は同じでも、通り一遍の対応や、親身の対応だったりで、これにより社風などがよく分かりました。
>>そして靖国神社へアプローチ
こうして調査が手詰まりになった時に、ひらめきました。
「そうだ! 本間中将は戦犯だが英霊として靖国神社に祀られているはず。そこで情報が得られるかもしれない」
早速、神社に手紙を書きました。おっつけ電話を入れると、神社・遊就館の学芸員の方が手紙をすでに読まれていて、前向きなお返事をいただきました。
早速訪問。
靖国神社の訪問は約25年ぶりで、ずいぶん立派に様変わりしていました。学芸員に詳しく館内を案内いただき、本間中将の遺影を拝見させていただきました。オルシニ氏に届けたいと撮影の許可をお願いしましたが、規則で遺族の了承を得る必要があるとのことで、神社から遺族と相談してみるとのことでした。
靖国神社からの連絡
それから一週間くらいたった頃でしょうか、神社からメールが届きました。メールには関東在住の本間中将の孫の方からのレターが添付されていました。私からオルシニシ氏に転送できるよう配慮していただいたのか、英文でした。
要約するとこのようなことが書かれています。
・母は本間雅晴の娘で、自分はその孫に当たり、祖先の歴史資料を管理している。
・肖像画が描かれた経緯と背景説明。
・肖像画は今や存在しないが、本間中将のマニラの居宅の広間の壁に懸けられていた肖像画とロカテリーが一緒に写っている写真がある。それを同封する。
末尾に、自分は年末(2018年12月頃)にヨーロッパを訪問する予定につき、必要あればオランダでオルシニ氏に会う用意ある、と結ばれていました。
残念ながら、追い求めていた肖像画は見つかりませんでしたが、その存在が確認され、目的は達せられました。最後に面会スケジュールをすり合わせ、後日二人が無事アムステルダムで面会したとの連絡を受けて、私の役割は終わりました。
年が明け、オルシニ氏からは本が出来たら送る。本には協力者として私の名前を載せるから、と連絡をもらいましたが、オランダ人の約束は案外あてにならないこともあり(m_ _m 失礼)、それから8ケ月、本が届くまで、この出来事をすっかり忘れていました。
約束通り届いた本には、約束通り私の名前が協力者として記載されていました。
謎の失踪の真実解明
ただ、もう一つの主題であったロカテリーの謎の失踪の原因については、オルテニ氏はロカテリーの妻の証言や様々なアーカイブを調べ上げたそうですが、最終的に解明できなかったようです。
当時、日独伊軍事同盟のイタリア人ということで、バードハンテイングで入った森で抗日ゲリラに殺害された説、戦争下情緒不安による自殺説、日本占領前、フィリピン大統領やアメリカの高官と親しかったため、日本軍からアメリカのスパイと見做され殺害されたという説などがあるそうで、オルシニ氏は個人的見解として、最後の説が有力と考えています。
GIANNI ORSINI ギアンニ・オルシニ
1970年アムステルダム生まれ。曽祖父はイタリア人だが、オランダ領バタビアで彫刻業を営んでおり、祖父もそこで生まれた。こうした家系背景からオルシニ氏はオランダ領東インドの古美術品蒐集家となるが、2005年からバタビアなどオランダ領東インドに在住のヨーロッパ人芸術家の伝記作家として活動を始める。オークション業界にも精通しており、19世紀中頃のオランダ領東インドの古美術品鑑定者、評価者としても知られている。