12月3日、外務省主催の『日蘭平和交流事業』が開かれました。
この事業は先日大使公邸で上映した映画『子供たちの涙 ~日本人の父を探し求めて』のテーマだった、先の大戦時の負の遺産の、オランダ人の戦争孤児や戦争犠牲者をゲストに招いて、両国の関係を改善する事業で今年で20回(年)を迎えます。
この数年個人的なつながりで参加してきましたが、今回外務省から、FANに対し、ホストとして2~3人参加してほしいとの要請がありました。
当日会長の村岡さんのご都合が悪かったので、副会長の白石さん、事務局長の寺町さん、そして、水迫の3人で出席しました。
レセプションは品川のホテルで開かれました。バンケットホールは華やかな雰囲気でしたが、みなさんを待つ間、その雰囲気とは裏腹に複雑な気持ちに包まれました。自分がその立場だったらどう思うだろう。戦争時、敵国であった日本軍に大切な時間、人を奪われてしまった。その国を旅し、同じ事実を共有していないその国の人と出会う――。簡単なことではないはずです。
しばらくして、17名のオランダ人がいらっしゃいました。今回のゲストは戦争犠牲者15名、孤児2名です。
山田美樹外務大臣政務官のご挨拶からレセプションが始まりました。オランダの国旗の色を配した服装に、温かな配慮が伺えて、外務省として大切にしている事業であることがよくわかりました。
佐倉日蘭協会から歌詞の配布があり、オランダ人と日本人で一緒に歌を歌いました。一緒に歌を歌うというのは交流のプログラムとしてよくありますが、今回、歌は人と人との架け橋となるのだという、その意義を心から実感しました。
戦争孤児の女性と話す機会がありました。つらい体験だったが、70年経ち、心の奥底にしまう術を身につけている。今回、日本に来ることで、その悲しみがまたぶり返してしまうのではないか、行かないほうがいいのではないかと随分迷ったけど、捕虜収容所があった九州水巻市訪問時は日本の子供たちの歓迎を受けたり、日本人と直接会ってお互いを知ったことで胸のつかえがとれた、本当に来てよかったとおっしゃっていました。
また、中央大学の学生もいらっしゃいました。中央大学では「中央大学日蘭交流会」を持続的に開催しており、学生がワークショップを行った上で、オランダの方たちと勉強会、交流を図っているそうです。戦争をまったく知らない(おそらく両親も知らない)世代が体験者から話を聞いて、その思いを受けとめるのは、とても意義のあることだと思います。
散会時、外務省の担当者からも、来年も協力をお願いしたいとのことで、一応の役割は果たせたかと思います。
最後に個人的な体験ですが、水迫からご報告します。円卓の席から立ち上がって、オランダ人同士、あるいは日本人と雑談がはじまるなかで、椅子に座ってスマホをいじっているおじいさんがいらっしゃいました。ビュッフェスタイルの食事の用意ができたとアナウンスがあったので、つたないオランダ語で、「食事が用意できましたよ」と声をかけると、はっと立ち上がり、「オランダ語ができるの?」と聞いてこられました。ちょっとだけ、と答えると、堰を切ったように自らの体験を話され始めました。
その方は戦争孤児でした。私が理解できたのは、「お父さんと最後に会ったのは14歳だった」(あるいは4歳)だけでした。おじいさんが話される内容が濃くなるのに反比例して、私の理解度はどんどん小さくなっていきました。一方で、おじいさんの心にひたひたと沈む悲しみは強く、強く響いてきました。心の傷が70年たった今、再び生々しく蘇り、おじいさんは分かってほしいと声の限りを尽くして私に語ってくれました。悲鳴にも似た心の叫びでした。理解してほしいというより、言わずにはいられなかったのかもしれません。
後でオランダ語を話す外務省の外務事務官から、おじいさんは英語ができないために、自分の気持ちを訴えたかったのだけど、それができなかったのだと聞きました。でも、それが今、できたと言っていたそうで、少しでもおじいさんの心の楽になったなら、参加してよかったと思いました。
生きていれば、誰しもつらい出来事のひとつやふたつは体験します。でも、このような悲しい体験は、誰の人生においてもまったく不必要なはずです。現在、そして将来にわたって、そんな心の傷を負う人をひとりでも少なくしていくには、本を読んだり、映像を見たりすることも大切ですが、同時にご本人にお会いしてお話を聞きながら、手を添えて肌の温かさを感じ、目を合わせながら同じ時間を共有することが、どんなメディア媒体よりも力強く、貴重なのだということを、今回のレセプションを通じて身にしみて感じました。
今回来日したオランダ人のみなさんが、来日前よりも少し心が軽くなって暮らすことができますように。