出島復元記念講演会 @オランダ王国大使館出島ルーム

江戸時代、オランダと日本の交易の玄関口だった長崎県の出島。みなさんも歴史の授業で学んだことがあると思いますが、海に浮かんでいたかつての姿を取り戻そうと「出島復元」の計画が現在も進行していることをご存知でしょうか。

復元計画が始まったのは1951年。50余年の歳月を経て2016年に19世紀初頭の街並みが蘇り、今年11月に表門橋が完成します。この橋の完成により、江戸時代、通詞や役人、使用人などがそうしたように、橋を渡って出島に入ることができるようになります。

FANでは表門橋の完成を目前にした9月22日、「出島復元記念講演会」を主催しました。会場はオランダ王国大使館の出島ルームです。生憎、雨に見舞われてしまいましたが、54名にご出席いただき有意義なひと時を送ることができました。早速、講演会の模様をご報告いたします。

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9月22日、朝は確かに晴れていました。秋らしい涼やかな風が吹き、講演会後の懇親会はさぞ気持ちのいいプールサイドで参加者皆様と楽しい時間を過ごせるものと、信じておりました。天気予報は午後から夕方にかけて、雨!、なんということ。願い虚しく天気予報は的中し、雨の中54名の方々の出席をいただき、講演会は予定通り出島ルーム、懇親会は屋内ということで無事開催されました。

今回はトン・ファン・ゼイラント氏(オランダ王国大使館参事官)とイサベル・田中・ファンダーレン氏(東京大学史料編纂所共同研究員)が大変に興味深く、且つ新たな視点での日蘭関係や出島に関する情報をご提示いただき、参加者は緊張感をもって聞き入りました。

 

トン・ファン・ゼイラント氏からのお話しから
オランダ政府が日本とオランダの交流を目的としたプロジェクト「Holland-九州」 は平戸オランダ商館復元を含み、数々の事業を行っています。

平戸茶会―平戸松浦藩に伝わる武家茶道「鎮信流」と共に平戸のお菓子文化は飛躍的に発達しました。オランダのクリエーターと平戸の菓子職人が智慧を出し合って新たな平戸菓子が誕生。オランダ茶会を松浦資料館で開催し、オランダ人も着物を着て濃茶、薄茶とお菓子を楽しみました。その他、お酒、染物、陶器などを共同創作し、新しい製品への挑戦をしています。

日本で亡くなったオランダ人の墓が長崎の悟真寺にあります。オランダ人も供養のためにお参りしています。

音楽の分野においても「JAZZ in Kyushu」を開催し音楽アーテイストとの交流を深めました。今年の11月には出島表門復元完成を記念して、ロイヤル・コンセルトヘボウオーケストラが長崎で演奏会を行います。

今年最大の出来事は何といっても出島表門橋(旧江戸橋)の復元完成です。すでに出島の建物は全て復元され、表門橋の完成を待つばかりでした。こうした交流を通じて更に日本とオランダが友好的な付き合いが続くことを祈っています。

 

イサベル・田中・ファンダーレン氏のお話しから
今まで、出島の住人として注目されてきたのはオランダ人が中心でした。でも出島には数人のオランダ人以外に時にはその2倍の人数を要する奴隷身分であったインドやマレー系の若い男性もいたのです。彼らはこれまであまり光が当てられませんでした。しかし、大いに日蘭関係に貢献し、「黒坊」(クロン坊、クロ坊)と愛称された存在でした。「長崎版画」「西遊日記」「長崎見聞録」など日本人が描いた当時の史料を参考にしながら、その役割について考えてみたいと思います。

17世紀奴隷売買が盛んな頃、この商売に携わった国の中にオランダも含まれていました。
オランダ東インド会社が扱った奴隷の量は南米に送られた奴隷と匹敵する位であったといわれています。南米へは主にアフリカ系人民がプランテーションに携わるための働きを期待されて送られていました。オランダは主にアジア系のインドやマレー人を家内労働目的の働き手として売買にくみしていました。

そうした奴隷身分の若い男性を引き連れて、オランダ人は出島にやってきたのです。何故なら、出島には妻を同伴することを許されず、女性は遊女以外入ることを禁じられていました。従って身の回りの世話をする男の召使が必要だったからです。商館長には15~20人の召使がつき、その下の身分でも一人に2~3人の召使がいました。召使がオランダ人よりも圧倒的に多いという事です。

オランダ東インド会社は1619年にバタヴィア(インドネシア・ジャカルタ)に商館を設立して、日本やアジアとの交易活動を始めました。初め奴隷はインド系が多かったのですが、その内にインドネシア系が殆どを占めるようになります。バタヴィアの奴隷達の中には、オランダ人の妻になった者もいます。奴隷の子供とオランダ人の子供は一緒に遊んだりしましたが、教育を受けたのはオランダ人の子供だけでした。

出島で彼らはどのような仕事をしたのでしょうか。料理、洗濯、掃除と共に野菜の栽培や家畜の世話などもこなしました。時にはバトミントンに戯れていたようで、版画などが残っています。日本のバトミントン発祥の地といえるかも知れません。

料理は完全なオランダ風ではなく、インド・マレー系、或いは日本の料理人の影響を受けたハイブリットなオランダ料理でした。日本人が遊学のために江戸から訪れた折に、こうした料理を振舞われ、異国情緒にひたった記録が多くあります。

オランダ人は召使のことをモノとして見ていましたが、日本人は紀行文などに人間として愛すべき存在として書いています。司馬江漢などは日本の冬を越す彼らに同情をこめた絵を描き暖かい眼差しで見ていました。

彼らはオランダ人の出島生活をサポートし、オランダ人と日本人の関係をスムーズに運ぶ重要な存在であったといえます。

オランダの伝統的なクリスマス行事の「シンタクラース」にピートという黒人のお供が登場しますが、これは昔の奴隷売買の記憶を呼び覚ますとして、現在は多々批判があり、議論がつきません。又、アメリカにおいても、過去の奴隷制度に対する賛否両論の争いがつい最近もありました。死者まで出たのは記憶に新しい出来事です。過去を現在の目で見るのは難しいですが、歴史を研究する者として時には不愉快な出来事も世に知らせる義務があると思っています。歴史は切り取られたものではなく、現在も続いているものだと改めて認識します。


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講演終了後、ロビーに美しく盛り付けられたお料理を目の前にして感嘆の声があふれ、ビール、ワイン、ソフトドリンクと共に懇親の時間はあっという間に過ぎていきました。

なお、今回のイベントはオランダ大使館のご厚意で開催できました。多くの参加申し込みがあり、こちらの様々な要望に対し親切にご対応いただきました大使館及び事務方の方々に心から感謝申し上げます。

FANはこれからもオランダをキーワードに有意義で楽しいイベントを企画していきたいと思います。
その時、再び皆様にお会いできることを楽しみにしております。

 

 

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