スリランカに息づく「オランダ」 第三回

連載最終回の3回目です。第一回第二回も併せてお読みください。
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インド亜大陸と「オランダ」
デルフト島の軍事的戦略的位置はインドに近接しており、しかもスリランカへの影響力が大きいタミル・ナードゥ州と近接している点で重要である。オランダはスリランカ以外の南アジアではインドにも積極的に進出していた。ポルトガルに対抗しつつ、17世紀を通じて、主として海岸に沿った商業利権の獲得、そのために戦略的要地に拠点を構築していった。

オランダ領インドと言われたのは4つの地域である。現在の西部インドのグジャラート州のスーラット、アフメダバードなどで、現在のインド首相ナレンドラ・モディの出身地である。次に東インドのベンガル地方、さらに南インドのコーチンなどを中心とするマラバール海岸、第4にベンガル湾に面したタミル・ナードゥ州のコロマンデル海岸である。

いずれも今日のインド経済にとって重要地域であるが、特にベンガル地方の現在のコルカタ(カルカッタ)近くのフーグリー・チンスラーは特に重要であった。オランダ時代には硝石、香料、綿花、インディゴなどを取り扱った。VOCは通常アジア貿易においてバタヴィアに商品を集中するプロセスをとっていたが、スリランカとベンガル地方はバタビアを経由せずにオランダと直接交易することを認めていた例外的な二つの地域であった。なお、フーグリー・チースラーは英領時代のインド民族運動の中心地の一つとなり、現在インド国歌「ヴァンデ・マータラム」はここで生まれている。

 

現代につながる「オランダ」
このようにスリランカ北部を歩きながら改めて気がついたことは、ある意味では当然であるが、オランダのフォートが残っている地域はオランダ支配時代(多くの場合ポルトガル支配時代から)において戦略的要地であっただけではなく、今日においてもスリランカにとって同様に戦略的要地の役割を果たしているということである。

ジャフナ・フォートもマンナール・フォートも、それを管轄しているのは遺跡などを管理する文化関係の省庁ではなく、国防省、あるいは海軍となっている。デルフト島は事実上海軍が管理している国境の島である。さらにジャフナ・フォートの復興は内戦が終結した年に早くも着工され3年後には復旧が完了するという手際のよさである。優先的に緊急に復旧に手を付けた可能性がある。ジャフナ・フォートがLTTEの拠点として機能したことを見ると、今日においても軍事的意味を失っていないのである。内戦がゲリラ闘争の側面が大きく、強固なフォートは利用価値がある。オランダの優れた土木技術がフォートの価値を現在にまでつなげているといえる。フォートの復興計画が歴史的遺産の復旧という側面をもつことを否定するわけではないが、同時に現実的に軍事的意味ももつプロジェクトでもあった。現在のインド洋問題にオランダは主役ではないが、全く無関係というわけではない。

世界史を捉える方法として「世界システム論」を唱えたウオ―レンシュタインによれば、歴史上世界市場ヘゲモニー国家として存在したのは、オランダ、英国、米国の3ヶ国しかない。それ以前のポルトガルとスペインはヘゲモニー国家とは言えなかった。オランダは単に経済的影響力の大きかったためにヘゲモニー国家といわれるのではない。国際的な秩序の構築を試みた点が重要で、グロチウス(1583-1645)が『海洋自由論』を著し、国際法の論理を初めて考察しようとしたことが象徴的な史実となっている。

オランダはヘゲモニー国家としての地位を享受したのは1625年から1675年の約50年間であったとされるが、まさにオランダにとっては「黄金時代」であった。ちょうど徳川時代初期に対応している。スペインとの独立戦争を戦いつつ、独自のヘゲモニーを確立しつつあったオランダと江戸幕府の基礎を固めた徳川政府は時代的に重なったのである。オランダの「黄金時代」を担った東インド会社(VOC)が設立されたのは、関ケ原の戦いの2年後の1602年であった。VOCは当初台湾を貿易上の拠点にしていたが、1661年以降現在のインドネシアのバタヴィアに拠点を移した。家康がオランダ人のヤン・ヨーステンや英国人ウィリアム・アダムスを外交顧問などにして重用したが、彼らの当時の国際関係に関する知識と同時に判断力を評価したものと思われる。スペイン・ポルトガルではなくオランダに注目した家康の判断力にはかなり的確なものがあったと評価される。

 

鄭和は中国・スリランカの友好のシンボルになりうるか
最後に中国とスリランカの関係について言及したい。

鄭和(1371-1434)は明の永楽帝の命で7回にわたる東南アジア・南アジア・東アフリカと7回にわたる遠征隊を率いている。当然ゴール港にも何回か寄港している。1405年にゴールに寄港した時には、スリランカはシンハラ系のコーッテ王国の統一化が進み、同国はヴィーラ・アラケシュワラ王(Vira Alakesvara)の支配下であった。しかしこの国王は明への朝貢と従属を拒否したことから鄭和との摩擦が生じた。その5年後来訪した鄭和は、アラケシュワラ王に戦争を仕掛け(明・コーッテ戦争)、その結果、国王とその妃たち、何人かの貴族を捕虜として拉致して中国へ連れ帰り、1411年7月6日、南京で永楽帝に献上している。その後、1414年に帰国が許されるが、これによってスリランカでの同国王の権威は地に落ちることになった。

コーッテは北のタミル王国を含めスリランカを統一した最後の王朝であったが、鄭和来訪以降の混乱は、その後の国内の混乱とキャンディー王国の独立化につながり、ポルトガルのスリランカの植民地支配を導く前提条件の一つとなったのである。

なお、コーッテ王国の首都であったコーッテは、コロンボ近郊にあり、1985年以来スリー・ジャヤワルダナプラ・コ-ッテ(略称コ-ッテ)としてスリランカの首都となっている。非常に面白いのは、ゴールにある国立博物館の3分の1が2014年に大改造され、中国・スリランカの友好を称える特別室となっており、その最大の出し物は鄭和とその遠征となっている。いうまでもなく国王拉致問題には一切触れられていない。両国関係の友好関係を示す事件ではないからである。ここにも歴史認識の問題がからんでいる。

展示物のなかで、鄭和が没した場所がカルカッタ(Calcutta)と書いてあったので、カリカット(Calicut)の間違いであると指摘したら、急に博物館側の態度が変わり著しく丁寧な対応となった。ちなみにカリカットはインド亜大陸南西部のケーララ州にあるコージコーデのことである。なお、オランダが現在、どのような印象をスリランカ人に与えているかはわからない。しかしジャフナにある語学学校の表示で英語、フランス語、ドイツ語にならびオランダ語が併記されているケースがいくつかあったのは興味深かった。オランダを経由してEUで仕事を得るルートがあるのだろうか。内戦中に北部のタミル人は国外、特に欧州に移民となって流出したのである。

<主な参考文献>
K.M.de Silva, A History of Sri Lanka,,2005, Penguin India Ltd.

 

清水 学(しみず まなぶ)
1942年長野県生まれ。東大教養卒。1970年アジア経済研究所入所。1974-77年インド・ボンベイ市ターター社会科学研究所、1984-87年エジプト・カイロ市国立社会調査犯罪学研究所にて在外研究。1994年以降、宇都宮大学、一橋大学、帝京大学で教職。専門は南西アジア・中央ユーラシア地域研究と現代世界経済論。