スリランカに息づく「オランダ」第二回

第一回目はこちらをご覧ください。
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北部都市ジャフナと内戦後の北部(2016年11月)
スリランカ内戦(1983年~2009年)は極めて凄惨な内戦であり、北部・東部の少数派タミル系(ヒンドゥー教徒が多い)住民が多数派のシンハラ族(仏教徒主体)支配に反発して独立国家樹立を求めて闘争を展開したものである。

タミル系過激派とされるLTTE(タミル・イーラム解放のトラ)は政府軍と戦いながら、北部の大都市ジャフナを中心に北部・東部に領域支配を行い「国家」の形態を創出し一定の行政権さえ行使するほどになった。その点では今日の「イスラーム国」と類似しており、短期間であれ「領域国家」だったというわけである。なおスリランカのタミル人は二つのカテゴリーに分けられる。一つは「スリランカ・タミル」と呼ばれており、紀元前後からインドから渡来し、長い間スリランカで生きて来た歴史を持つ。社会的ステータスも高く、経済的にも裕福な者も少なくない。

もう一つは「インド・タミル」と称され、19世紀に発展し始めた茶プランテーションの労働者として南インドから連れてこられたタミル人であり、劣悪な条件に置かれた者も多く、ごく最近まで無国籍のままで放置されてきた者も少なくなかった。しかしスリランカのタミル人の分離運動を担ったのは「スリランカ・タミル」であった。

内戦は2009年に転機を迎え、政府軍の猛攻でLTTEは敗北し、一応「和平」が達成されたことになっており、表立った事件は消えた。中国の政府軍への兵器供給が力関係を変える一因となったとも言われ、中国のスリランカへの影響力が拡大する契機ともなった。

内戦中は北部・東部への旅行は極めて危険であったが、今回(2016年)はコロンボから急行列車で北部最大の都市ジャフナまで問題なく旅行することが可能となった。「和平」は回復されてはいるが、内戦の傷跡は至るところで感じられた。

確かに北部の鉄道は内戦後、急速に近代化され南部よりもはるかにスムーズに運行されている。南部・中部での列車の揺れはすざましく、つり革のぶつかる音による不調和な交響曲が止むことはない。他方、北部は道路などインフラの復旧も進んでいるが、これらは内戦の苦い経験に基づく、軍や治安部隊を早急に展開できるための条件づくりという側面も大きい。

仏教徒、ヒンドゥー、カトリック、ムスリムなど複雑な宗派民族構成を有するスリランカの国民融和の道は容易ではなく、今後とも形を変えた宗派対立が生じる可能性は否定されていない。義務教育での「宗教」の教科書は、宗派別に、「仏教」、「ヴァイシュナヴァ派(ヒンドゥー)」、「キリスト教」、「イスラーム」の4種類のものが発行されており、生徒は自分の属する宗派の教科書で「宗教」を学ぶ。

 

ジャフナのオランダ要塞
北部最大の都市ジャフナはタミル人の町で海に面した港町である。経済活動も活発である。海をわたればインド亜大陸が横たわっている。その海岸に突き出すように横たわっているのがダッチ・フォート(オランダ砦)であった。このフォートはオランダ建築の傑作とされるインド洋最強の堂々たるものである。総敷地面積は2haであるが星形つまり五稜郭方式である。

スリランカ内戦の過程でフォート内の建物(病院・教会・執政官住居など)が無残にも破壊された。特に1986年から1995年にかけては、反政府タミル人勢力のLTTEはこのフォートを軍事的拠点の一つとして利用していた。つまり今日においても軍事的に利用価値があったわけである。

しかし内戦終結後に早い時期に復興計画ができ、ジャフナ旧オランダ・フォート保存計画が実施に移され、私が訪問した時には、すでにフォートそのものはかなりの程度復興されていた。そこでの表示によると、復興費総額1億450万ルピー(約9000万円)のうち6割はオランダ政府の贈与で賄われた。

オランダは1665年から1795年までこの地を支配していたが、その後、英軍がフォートを軍の駐屯地として使用していた。1948年2月にスリランカが英連邦内自治国として独立すると、スリランカ政府にフォートが引き渡された。オランダが建設したダッチ・フォートは南部のゴールなどを含め複数残存している。今回は行けなかったが、ジャフナ南西の港マンナールのフォートは現在も海軍基地として使用されている。

 

デルフト島観光
ジャフナ半島はポーク(Palk)海峡を隔ててインド南部のタミル・ナードゥ州に近接している。この海峡は浅瀬で大型船舶が通行するには困難で東アジアから西アジア・アフリカに向かう船舶はスリランカ南部を通行せざるを得ない。

この海峡でインド側に最も近い島がデルフト島である。いうまでもなくオランダの都市デルフトが島の名前となりそのまま現在まで残って定着したものである。オランダが自国の都市名を植民地の都市に使用したことは珍しくはない。デルフトは南ホランド州の古都で東インド会社が中国から持ってきた陶器の影響を受けたデルフト焼きで有名であり、デルフトブルーという独自の陶器で知られている。伊万里焼の影響とも言われている。

デルフト島にも小さなダッチ・フォートの残骸が残っている。これは実用にはならないほどの小規模なものである。しかし現在デルフト島は島全体が国境との関連で戦略的要地となっており、スリランカ海軍の基地も存在している。デルフトの唯一高級(?)なレストランで伊勢エビなどの豪華な海産物の食事をしていると、無聊をかこっていた海軍士官から家族を残してきたキャンディーの町の話をさんざん聞かされた。キャンディーはスリランカ中部にある素晴らしい古都である。

デルフト島へ行くにはジャフナを朝早く出なくてはならない。デルフト島に行くフェリーはクリカドゥヴァン(KKD)島にあり、朝9時半出発のフェリーが1日1回しか出ていないからである。そこに行くにはジャフナ・バスステーション発のバスで1時間半はかかり、しかもバスが定時通り出発するか保証がないから早めに行く必要がある。

このバス路線の面白さは、KKDまでいくつかの島をつなげる浅瀬を埋め立てたかたちでつくった舗装道路が結んでおり、バスはいわば両側に海を見ながら走る点にある。これらはヴェラナイ島やプンクドゥティーヴー島などである。至る所にラグーンがあるといってよい。しかし一旦島に入ると道路は必ずしも舗装されておらず、天井に頭がぶつからないように手すりにしがみつくことになる。

デルフト島に向かうフェリーはKKDから出航する。乗船する場所に海軍兵士がいて外国人はパスポート番号などを記入させられる。その帳簿を見るとだいたい1週間に一人ぐらい欧米人の旅行者が来ているようである。そういえば、ジャフナなど北部で外国人旅行者はほとんど見かけない。ゴールなど南部で溢れているのは中国人観光客であるが、北部では一人も出会うことがなかった。北部はまだ不安定だという印象が強いためか、あるいは政府寄りの姿勢が強かった中国のイメージはタミル人の間では悪く、中国人も警戒して近づかないためかもしれない。

兵士は私に「帰りのフェリーはデルフトを午後2時半発だから、それに乗り遅れると島で一夜を過ごすことになるよ」とからかい基調で注意する。通常1時間かかるところ偶々高速艇であったため30分程度でデルフト島に到着した。

乗客は約100人であったが、地元民以外は私とキャンディーから来たスリランカ人の4人家族だけである。このフェリーは往復とも無料である。確認するのを失念したが、この地域はインド海域に接しており、海軍の管轄下にあるためと思われる。無料フェリーはデルフト島住民の生活上の便宜をはかることで国境を固める意味があると思われる。

デルフト島の住人は約5000人とされるが、人口の80%がカトリック教徒、20%がヒンドゥー教徒というスリランカでは異例の宗派構成となっている。カトリック教徒はポルトガル支配時代に改宗した者の末裔である。オランダは新教への改宗を試みたが成功しなったともいわれる。この島には野生の馬が生息している。これはかつてポルトガルやオランダがアラブ馬などを持ち込み売買していたなごりと伝えられる。青梅のイノシシとは違って極めて臆病で人間が近づくと全力で逃げて行く。

 

 

清水 学(しみず まなぶ)
1942年長野県生まれ。東大教養卒。1970年アジア経済研究所入所。1974-77年インド・ボンベイ市ターター社会科学研究所、1984-87年エジプト・カイロ市国立社会調査犯罪学研究所にて在外研究。1994年以降、宇都宮大学、一橋大学、帝京大学で教職。専門は南西アジア・中央ユーラシア地域研究と現代世界経済論。