スリランカに息づく「オランダ」第一回

中国の習近平政権が、2013年以降国家戦略として打ち出した「一帯一路」あるいは「海のシルクロード」イニシャチブも重要なきっかけの一つとなって、インド洋周辺の海洋航路に関する国際的関心が高まっている。

石油タンカーや大型コンテナー船が中東・欧州と東アジアを結んで行き交い、またアジア内部を結ぶ海路を縦横に航行している。インド洋の重要な役割は、ある意味では「大航海時代」から続いていると言ってよいくらい長い歴史と変化を経たものである。そのなかでスリランカ(セイロン)は欧州植民地帝国間の争奪の舞台となった。東西航路の真中に位置するスリランカは欧州の海洋列強がどうしても無視できない要地であり、そのためポルトガル、オランダ、英国に長期間支配されるという「数奇」な運命を辿り、また支配国の交代期は国内王朝を巻き込んだ戦闘の舞台ともなったのである。

20年程前、筆者は総務庁の「世界青年の船」の船上講師として東京湾から南アフリカのケープタウンまで3週間かけてインド洋を渡ったことがあった。シンガポールから西へ向かい、モルディブの島々の間を経てセイシェルに向かい、セイシェルから南下してケープタウンに向かった。ケープタウンはオランダが建設した最初の植民地である。ケープタウンへの往路では、それほど激しくはなかったが何回か嵐や大きな揺れを経験し、嘔吐感で食欲どころでない期間もあり、「大航海時代」の往時の船乗りたちの労苦はもっと大きなものであっただろうと想像したものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スリランカへの旅
私が2015年7月(主として南部)と2016年11月(北部)の2回、インド洋上に浮かぶ島国であるスリランカ・モルディブへの小旅行を企画したのは、中国の習主席自身が2014年9月に自らスリランカやモルディブに足を運んだことが示すように、今後インド洋の国際政治における重要性が一層高まる可能性に注目したためである。

筆者は大学院前期を終えた後、特殊法人アジア経済研究所に就職して以降、ほぼ継続的にインドを中心とする政治経済の現状分析を続けてきた。一種の定点観測であるが、新たな動きには敏感でないとこのような仕事は適さない。特定の地域の総合的理解をめざす「地域研究者」になるための要件を満たすことは容易ではない。「地域研究」に特定の方法があるわけではないが、いくつかの必要条件がある。

特に「途上国」を対象とする場合、英語などの世界で生きるエリート層との交流は極めて重要であるが、同時に英語世界とは無縁な非エリート社会階層との接触・交流も独自の課題として重視しなければならない。なぜならエリートと非エリートの相互理解に断絶が存在するからである。そのため、地域を知るための旅行は路線バスや普通列車など大衆の輸送手段を使い、宿泊もできるだけ一般庶民が宿泊するところ、あるいは民宿を選ぶことも必要となる。原則として一人旅とする。周りの現地の人達の観察や対話に関心を集中できるからである。ガイドブックには載っていない現地での交流で得られた情報によって旅行計画をその場で柔軟に大胆に変更することがしばしばある。

第二に、宗教・信仰、大衆芸能、現地の食生活など政治経済以外の分野に対する関心を深めることである。例えば南アジア世界では映画の果たす政治的文化的役割は極めて大きく、映画に関する情報は政治を理解するためにも不可欠である。第三に先入観をできるだけ持たないようにすることである。しかし70代半ばという高齢ともなると、次第に快適な旅を求めるようになり、その分だけ私の事実収集力・分析力が落ちてくることになる。

私のスリランカ訪問も初めてではないが、20年以上も前のかつてイメージを現在に当てはめることはできなかった。何よりもシンハラ人とタミル人の対立の形をとった激しい内戦が1983年から2009年まで4半世紀も続き、テロが頻発し、少なくとも数万人が殺害されている。特にタミル系の拠点であったジャフナなどの北部地域は外国人が安心して旅行できるような状況ではなくなった。殺害された日本人もいる。当時は同僚のスリランカ担当者も北部への旅行は厳禁だと我々に警告していた。今回の私の北部旅行が可能になったのも、内戦が終結し、大幅に治安が回復したためであり、久しぶりに見るスリランカへの期待は大きかった。

ここで書こうと思ったのは現在のインド洋問題というより、2回の旅行で予期していなかった「オランダ」との出会いに関する随想である。私はオランダ専門家でもないし、また歴史学者でもない。今回の旅行で期せずして「オランダ」と邂逅することが多く、スリランカにおける「オランダ」を考えるきっかけを得ることになったからである。オランダ支配時代の建造物などが、現在においても新たな存在理由を主張しているように見えたからである。それで素人がスリランカで感じた「オランダ」理解を、一つの随想として記したものであり、読者の方もそれを前提に読んでいただきたい。

 

欧州植民地帝国に翻弄されたスリランカの歴史
最初に16世紀初め、ポルトガル人がインドのゴアからシナモン貿易の独占を求めてスリランカに進出を試みて、キャンディー王国を除くスリランカを征服した。しかし、その後の1580年から1640年までの間、ポルトガルの支配は徐々にオランダ(VOC:東インド会社)の支配にとって代わり、オランダの支配は1796年まで約140年間支配した。

オランダがスリランカに初めて登場したのは1602年であり、キャンディ国王ヴィマーラ・ダルマスーリヤ1世に謁見し、胡椒とシナモンの交易権を得る見返りにポルトガルに奪われている領土を奪還すると約束した。1627年にはポルトガルに対抗するためのオランダ・キャンディー王国の間で攻守同盟が成立する。それ以来、スリランカを舞台にポルトガルとオランダは凄まじい争奪戦を展開することになる。ポルトガルはゴールのフォートを再構築してオランダの攻撃に備えた。

勝敗を決したのは1640年である。オランダ兵とポルトガル兵はゴール近郊で激突し、血みどろの戦いを経てオランダがゴールを制圧した。ゴールはオランダのスリランカ進出の拠点となった。1655年にはバタヴィアから2500人の兵士をゴールに送り込み、ゴールからコロンボ攻略作戦を展開した。7か月の戦闘でポルトガルは1656年5月降伏する。1658年の北部ジャフナの占領でスリランカにおけるポルトガル支配は終焉した。コロンボではフォートが再建されたが、バタヴィアのVOCの方針は「少ない負担で大きな収益」の方針に従い、その規模はポルトガル次第の3分の1に縮小された。

しかしオランダは遂に英国との抗争には敗北し、1824年の英オランダ条約によって多くの支配領域を英国に譲渡し、英国はその後1796年から1948年まで約150年間スリランカを支配することになった。英国の場合、1815年にポルトガル、オランダの支配にも屈しなかったシンハラ王朝のキャンディー王国を滅亡させ全島支配を初めて達成している。その意味で海岸の拠点を通商・戦略目的に確保することに重点をおいたポルトガル・オランダ型支配と異なる対象国の全一的な植民地支配体制モデルを英国は構築したのである。

アジアで欧州勢力の植民地支配に屈した地域は圧倒的な面積・住民をカバーしたが、スリランカのように三大帝国であったポルトガル、オランダ、英国にそれぞれ150年程度の長期の支配を経験した国は珍しい。その結果、それぞれの帝国の植民地政策の大きな影響を受け、現在においても多様な影響の跡を残している。スリランカに関しての私の印象論としては、ポルトガルはカトリックを植え付けたとともに、シンハラ語にポルトガル語系語彙を残している。オランダは宗教的にはカルビン主義の影響は極めて限定的であり、むしろ建造物への影響が顕著であるように見える。オランダ流資本主義理念がどれくらい影響を与えたのかはわからない。英国は政治制度や政治社会思想の面で今日のスリランカに影響を及ぼしている。フェビアン社会主義はスリランカで大きな影響を持った。

 

海洋国家オランダの遺産「海洋考古学博物館」(2015年7月)
スリランカで注意して見ると、ポルトガル支配下で発展し現在でも同国最大の都市コロンボにも「オランダ」が存在している。オランダ植民博物館(Dutch Colonial Museum)は象徴的な記念碑であり、今日でも多くの観光客の訪れる場所となっている。繁華街の下町の中心地ペター地区の真中にある。博物館に入ると当地で死去しオランダ人の墓石が並んで展示されているが、墓の上部に死者であることを示す髑髏が彫られている。なかなかリアルで衝撃的である。コロンボのフォート(砦)はポルトガル時代からの要衝である。他方、コロンボ空港の北にあるニゴンボの町にはオランダ時代に作られた運河があり、現在でも小舟による生活物資の輸送に利用されている。

スリランカ南西部の要塞都市であるゴールは戦略的要地であり、ポルトガル・オランダ・英国のインド洋支配の歴史が凝縮されている港湾である。現在では有数の観光地となっておりフォート(砦)の威容を見ることができる。

インド洋への関心が高まるなかで、オランダは文化的歴史遺産の保持を通じてあらためて存在感を示そうとしているように見える。その代表的なものはオランダ政府がイニシャチブをとって2010年に完成させたゴールの立派な「海洋考古学博物館」である。この博物館はVOCが管理していた長大な旧オランダ倉庫跡を利用したものであるが、展示の仕方もシステマティックに整理されている近代的な博物館である。道路の対面にある規模の小さい「ゴール国立博物館」の未整理な展示と比べて対照的であった。

しかしまだ十分知られていないためか2015年7月時点で訪問客は非常に少なかった。「海洋考古学」というのは海底に沈む遺産の「発掘」を通じて歴史を見直そうとする学問である。それは、戦闘、海難その他の理由で沈没し海底に眠っている船舶などの「遺産」を探査し、それを研究するものである。当時の文化交流・貿易を含む歴史的事実を明らかにしうる貴重な仕事であるが、技術的に困難で膨大な作業を伴うものである。オランダが特に熱心な理由の一つは、ゴール周辺に沈没したと見られる十数の船舶のうち過半数がオランダ船のためである。私は潮騒のなかに不幸にして遠いインド洋に沈んだ船員・兵士たちの望郷の叫び声を聞いたような気がした。海底に残る「遺物」を引き上げる作業は相当困難な作業のようであるが、今後その成果は日本を含む当時の貿易品、それらの分析を通じて当時の社会経済活動の実態・水準の解明が進むことは確実であり、その成果が期待される。なお海底での「遺産」見学とダイビングを兼ねた観光も開始されたようである。

「海洋考古学博物館」での展示のなかで突出しているのはアヴォンドステル(Avondster)という船である。この船は1659年7月2日錨から外れて座礁し真二つに分かれ海底に沈んだことが分かっている。同船にはインドへ輸送中のビンロウジ(檳榔子 Areca nut)が積載されていた。この船は幅12メートル、横40メートルで、当初建造したのは英国であるが、後にオランダに奪われたものである。英国とオランダ間、インドからバタヴィアまで65回の航海の果て、ゴール港で沈没した。これは300年以上も海底に沈んでいたものであるが、1993年に存在が確認され、引き上げられ、調査が開始されておりビンロウジも発見されたのである。

 

 

清水 学(しみず まなぶ)
1942年長野県生まれ。東大教養卒。1970年アジア経済研究所入所。1974-77年インド・ボンベイ市ターター社会科学研究所、1984-87年エジプト・カイロ市国立社会調査犯罪学研究所にて在外研究。1994年以降、宇都宮大学、一橋大学、帝京大学で教職。専門は南西アジア・中央ユーラシア地域研究と現代世界経済論。