コイン収集、よもやま話と日蘭関係のメダル

まずはなぜ私が50年以上の長きにわたってコイン収集に携わってきたか、についてお話します。

初めての就職先が当時の西ベルリン、パンナムというアメリカの航空会社のベルリン駐在員でした。多分1968年ころ、後で妻となるハンネローレとオーストリアのチロル地方に旅行。その際、彼女が贈ってくれたのが2枚の金貨と銀貨で両方とも直径4㎝をこえる立派な貨幣でした。(もっとも1780年銀貨と1915年金貨は昔の刻印を使ってウイーン造幣局で、再制作、リストライクされたものでしたが。)

僕はそのコインの金属的な美しさだけでなく、マリアテレジアやフランツヨゼフ皇帝の肖像のすばらしさと裏面の双頭の鷲の刻印の繊細さ、克明さに心を奪われました。また当時の歴史や文化の香りも漂ってくるようで、このようなコインを集めようと決心したのです。

当時は日本との給与格差は大きく、ドイツではサラリーマンでも日本の2-3倍以上の収入はありました。また、幸い(?)なことに酒やたばこをたしまなかった僕は、給与の大部分を使う事が出来ました。子供のころから切手などを収集していたので、その方面の感覚もあったのでしょう。ドイツ語圏(ドイツ、オーストリア、スイス)の大型銀貨が主体でした。また航空会社に勤めていた関係で、どこに飛んでも無料という有利さと、休みを自由に取れることをフルに活用して、ドイツ語圏各地のコイン交換会に妻と出席、僕は自分の集めている分野のコインを購入、妻は僕の販売用コインをテーブルに広げて、そのコインを売ることに専念。

当時、結構な雑収入を得ることも出来ました。何せ当時の交換会には東洋人は皆無。僕が東洋の珍しい古銭を持ってきているのではないかと、我々のテーブルに殺到したわけです。特に日本から取り寄せて四角い古銭(2朱金,2分金、1分銀、1朱銀など)は超の付く人気ぶりで、それを原資にしてコレクションを充実させること出来ました。

その後、収集範囲がドイツ語圏からイギリス、フランス、ロシアなど欧州各国に拡大。各地のコインオークションにも参加して各国の収集家とも知り合いになりことも出来ました。

 

ただ、収集を続けているとある時に自分の限界に突き当たります。それは財力(コイン収集に出費できる金)と、知識(その土地や歴史、宗教など)が主な要因です。他人と同じ分野を集めても、いいコレクションは望めない、という事に気が付いたのです。そこで新らたな収集分野に挑戦をしようと思いました。

僕は、10年以上ヨーロッパに住み、日本人、そしてベルリン時代からの親友はインドネシア人という事で、収集範囲をぐっと絞って、オランダ東インド会社のコインに的を絞ったのです。

コインはその国の政治経済状況を鏡のように映し出します。VOCがインドネシアの為に作ったコインも(最初は本国オランダで、その後VOCが解散した後、19世紀からインドネシアでも例外的に作られた)、その時々の時代をすぐに反映します。その変化などをたどっていくことが収集の醍醐味になって行きます。

ただ、僕がこの領域を集め始めたころのインドネシアはまだ開発途上でコインなどを集めていた人は皆無で、希少コインなどはオランダか、シンガポール、香港のオークシンでの入手が主でした。勿論インドネシアの友人のつてを頼って現地で購入したこともあります。

このオランダ東インド会社のコインを集めはじめてオランダに行くことも多くなり、オランダの友人も出来始めました。いつもオランダ滞在中は友人の家で滞在します。オランダとの密なかかわりが始まりました。ユトレヒト近郊で、ここには王立貨幣博物館あり、彼を通じて貨幣博の人とも頻繁に会い、意見交換などができるようになりました。

それから、日本に戻っても年に2~3回はオランダの友達を訪問しています。

 

オランダ東インド(インドネシア)の荘園で使われたお金
この友人は旧インドネシアで19世紀末から発行されたプランテーション(荘園)トークンの世界での第一人者です。

トークンとはいわゆる疑似貨幣で、支払いはその発行された荘園のみ使えるコインです。荘園では主にたばこ、ゴムなどが生産され、主にスマトラ東海岸やボルネオに多く存在していました。

荘園のオーナーはオランダ人のみでなくフランス人、ドイツ人、イギリス人で、よってそのトークンも各国語で書かれていて、大変興味深いものです。ただ荘園での労働者は福建省から連れてこられた労働者が主で、トークンには中国語で書かれているものも多々あります。給料は払われたものの、荘園に縛られ、もらったお金(トークン)はオーナーが作った売店で使わされ、経営者に還元される仕組みになっていて、植民地の暗い一面を見る事が出来ます。

このトークンは政府発行の貨幣ではないため、経営者が言わば勝手に作り、銀(当時はこの地域で銀決済が普通でした)など使わずに、手持ちの安い金属材料を使いました。銅、真鍮、ニッケル、アルミなどが主な材料です。全部でおよそ300種類のトークンが存在しますが、荘園解散後、他で使えないため、多くが破棄されたので、けっこう入手が大変です。この大変興味深い領域のカタログを発行したのも私の友人です。私も資料提供などして昨年、新しいカタログが発行され、私が初めて見つけたトークンも載っています。

このトークンを手に取り、当時の異郷で働いていた労働者のことを思い浮かべるとじっとこみあげてくるものがありますね。

コイン収集は、ただ集めればよい、ということではありません。貨幣の使われた時代や当時の環境にタイムスリップできることも出来るのです。オランダとのかかわりで集めているものが、他にもあります。オランダに興味を持たれている方々の集まりなので、とりあえず書き留めておきます(FANの皆さまでこの荘園トークンをご覧になりたい方はお申し出ください。持参いたします)。

 

幕末期、日本からの遺欧使節団をオランダが歓迎し作ったメダル
文久元年(1861年)幕府は開港延期交渉の為、36人からなる使節団を欧州6か国に派遣。1609年に家康がオランダ東インド会社(VOC)に朱印状を出して以来日本とは特別な関係があって、当地では大歓迎を受けました。

この使節団の目の前で、前文で出てきたユトレヒトを造幣局でメダルの試し打ちが行われたのです。文面には日本語とオランダ語でー日本の大君の正史 オランダに来る―と彫られており、年号として一番大切な1609年と製造年1862年が刻印されています。又裏側にはオランダの紋章と徳川家の葵の御紋と日章旗が並んでいます。

江戸期にコイン、メダルを含め、葵の御紋は正式の使われたことはなく、極めて珍しいものと言えます。

同行した使節団全員に銅メダルが配られ、通訳をして参加していた福沢諭吉ももらっているはずです。また正士、副士に金、銀で作られたものがそれぞれに贈られました。

 

昭和天皇が皇太子時代にオランダ訪問記念メダル
昭和天皇が皇太子時代の大正10年(1921)3月3日より8か月間イギリス、フランス、ベルギー、イタリア、バチカンとオランダに公式にご訪問された、日本史上初めての皇太子訪欧であり、戦艦香取が使われました。

ちなみにオランダには6月15日にアムステルダム到着。同月20日にはデン・ハーグよりパリに向けて出発しています。

このオランダ御訪問に際し大型のメダルが銀と銅で(私の知る限りでは金は存在しない)、直径9センチに上る堂々たるものがユトレヒトで制作され、関係者に配られました。

驚くべきは、たぶん世界で初めて皇太子の正面から見た顔がメダルに刻まれていることで、それまで天皇や皇太子がメダルなどに表れていることはありませんでした。

欧州では自国の皇帝、国王などはコイン、メダルにあらわされることは一般的であったためで、日本の慣習に疎かったとみられます。(日本でも戦後は解禁(?)されましたが政府発行の金貨などにはいまだに天皇の肖像などは使っていません。)

 

オランダが関東大震災で寄付を募ったメダル
大正12年(1923)に起こった関東大震災に際して、オランダで日本への義援活動が起こった(このことを知っていることが少なくてとても残念ですがFANメンバーはちゃんと記憶にとどめましょう!)。

詳しいことは不明ですが、この銀と銅で制作されたメダルを一般市民に買っていただき、利益を日本政府に寄付した模様です。オランダの新聞に同年10月24日と10月31日に記事がありました。このメダルも皇太子ご訪問記念メダルと同様のモチーフを使っています。震災復興への援助が急を有るため刻印を作る手間を惜しんだのです。

皇太子ご訪問記念と震災援助メダルのモチーフは、日本の武士が17世紀で活躍したオランダ商人が固く握手する場面が前面にあって、その左奥には富士山、中央には1600年に日本にたどり着いたリーフデ号が描かれています。

皆さんもコイン、メダルの収集を始めてみませんか? 外国で手にして今でも机の隅に眠っているコインを観察して、集め始めましょう!!

 

 

 

 

 

17世紀のオランダ商人と日本の侍が固い握手をしているもので、背景にリーフデ号も描かれている。

 

 

関 昭雄
元パンナム社員。ドイツを主に1960年代から10年以上ヨーロッパ駐在。コインが使われた時代にタイムスリップできるコインの魅力にひかれ、駐在当時から現在まで蒐集を続けコイン蒐集家として知られている。

 

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