私とオランダ絵画との出会い ―人生を映す鏡を見る―

オランダの質実
こんな経験はないだろうか。夜、照明灯に煌々と照らされたベルギーの道路を快調に走っていた車が、オランダ国境を超えるや、いきなり闇にはいりこみ、車のヘッドライトをたよりに暗い高速道路を走ることになる。昼間だと、ベルギーの丘陵地に石造りの建物が立ち並ぶ白っぽく瀟洒な街を遠望しながら走って来て、オランダにはいると運河沿いの低地にやや黒ずんだレンガ色の建物が寄り合っている街があらわれるのを視認する。あるいは、ベルギーの多くのレストランと比較して、オランダのそれは味の洗練度において、大きく水を開けられているように感じられる。と言うより、ローマ時代的な美食を罪とみなすような気分―これはイギリスにも大いに感じられるのだが―オランダにおける食の簡素さ、何よりレストランがめざす方向性が根本的に両国で違うように思える。KLMオランダ航空の女性CAが見せる国際便出発前の勇壮なまでに力強く通路を歩くきびきびとした動き……。

私は、何もオランダをおとしめるためにこうした思い出を記しているのではない。まったく逆で、すぐれた水夫が、小粋な身だしなみよりも機敏に素早くロープを正確に結ぶことを使命と心得、何より実質を重視するように、言ってみればその剛健、質実、倹約の精神こそ、建国の世紀から変わらぬ、オランダの拠って立つ、本質的で独自の文化だと強く思うからである。優美なものにあこがれながら、空疎な飾りぶりに対しては胡散臭く疑う気持ち、理想が結ぶ幻想より目の前の事物を信頼する視点がオランダにはある。味つけ盛りつけより素材重視なのである。

この国民性が、あの水びたしの低地が―痩せた湿地であったからこそ運河が四通し、水運が発達し進取の気性に富む、自由で合理的で不屈の精神を鍛えたとも言えるのだが―あの黄金の17世紀を作り上げ、この世紀に人間の本性をとらえた真実の絵画が誕生したのだと私は考えている。

 

17世紀オランダ絵画を知る
さて、この稿は私がオランダ絵画を専科にするようになった理由を告白し、あわせて17世紀オランダ絵画のユニークな特質を紹介することを目的としている。

私は先の勤務館―神戸市立博物館では33年間、開館準備室から学芸員をつとめてきた。そして、南蛮紅毛美術を担当しながら大きな展覧会の波を余裕もなく乗り越えてきた。南蛮美術とはポルトガル、スペインの影響を受けた日本美術、紅毛美術とは、主として鎖国期、オランダの影響を受けた日本美術のことである。知らぬ間に過去を振り返る年齢になってしまったというのが正直な感想である。

私と美術作品との出会いは小学生高学年のころ、父が造船所から毎年もらってくる泰西名画カレンダーだった。私の母方の祖父は、油彩の裸婦を描くような田舎文化人だったから、私は隔世で多少のDNAを受け継いでいるのかと思われるし、母もそう信じていたらしい。実際、私は芸術にかかわることなら努力しないでも、ひととおりはこなすことができた。

今から思えば、カレンダーは、17世紀のオランダ派、18世紀のイギリス派、アメリカのロマン主義美術であるハドソン・リヴァー派などの風景画のシリーズが年ごとに選ばれていて、図書館にある19世紀以降の近代絵画の画集には載っていないような名作ばかりで、私を魅了した。ロイスダール? こんなドラマティックで精神的な絵があったのか、と画集の19世紀絵画を見慣れた目に、その暗く劇的な風景画は実に鮮烈だった。こんな絵を研究できたらどんなに幸せだろう、と思った。その頃(昭和30年代後期)、この分野では子供が入手できる作品集とてなく、高校生になってようやく美術展にひとりで行けるようになって、海外の特別展で本物のロイスダール(現在は現地発音を重視してライスダールと表記する)や弟子のホッペマの実作品に触れることができた。美術史を志していたが、「美術で食えるほど世の中は甘くない」と父は口癖のように言っており、ヌードを描くような母方の祖父を、父は風変わりな道楽者としか見ていなかった。ちなみに父は戦前からの職業軍人で、戦後は保安庁から海上自衛隊に移り、神戸で掃海艇の艇長をしており、掃海―機雷などの危険物処理が専科だった。

それでも私は大学で美術史を選び、卒業論文で、ヤーコプ・イサークス・ファン・ライスダールを選んだ。修士論文は逆の視点で、オランダ美術の日本への影響を調べ、今日に至っている。日欧美術交流史、というのが今の私が掲げる看板である。父の言ではないが、「役にも立たない」文学部は今や劣勢である。しかし、初志貫徹、私はそこをめざし、そこで育てられた。私は美術の力を信じて、今も美術館で人々が「ホンモノ」と出会う機会を作り続けている。

余談だが、わたしが学芸員として博物館準備室に勤務した昭和57年(1982)、父は「それについては一言もない」とぼそりと言った。くやしそうな顔ではなかった。時代が豊かになり、そういう職業に給料を払う余裕が自治体にできたのであって、父が言っていた状況は全体としては今もあまり変化していないように思う。その父は94歳で永眠し、泉下にある。

なぜ私はオランダ絵画に魅かれたか
さて、ではどうしてオランダは、冒頭のような質実な印象を与える国となり、その精神を新しい独自の「発見」として絵画に写すことになったのかを説明しなければ、読者は落ち着かないだろう。周知の歴史を少しおさらいしておこう。

1609年4月、日本では江戸時代初期に、スペインとオランダ連邦共和国との間に12年休戦条約が成立した。新興の北部ネーデルラント(低地の意味)―オランダ、それまで支配していたスペインから事実上の独立を果たしたのである。ちなみに日本での「オランダ」という呼び方は、最大のホラント州を意味する「Holanda」というポルトガル語の発音に由来している。17世紀初頭、先に日本と交易を行なっていたポルトガル商人たちが、新たにやってきたヨーロッパからの交易船に対して、北部ネーデルラントの中心となるホラント州の船、という意味でHを発音せず「オランダ」と呼んだのである。「イギリス」という呼称も「Ingles」のポルトガル発音に由来している。

カトリック色の強いフランドルと、プロテスタントのカルヴァン派、ルター派が優勢な北部―オランダとに分裂が生じた。これはカトリックとプロテスタントという宗教上の分裂だけではなく、政治上、軍事上の分裂でもあった。宗教上の弾圧と、重税を逃れて商人たちが南部から北部へと移住して行った。とくに1580年代には、何万という都市住民がミッデルブルフ、レイデン、アムステルダムなどに逃れた。そうした北部の諸都市は、商売のノウハウを持った商人、職人、そして彼らが蓄えていた富の両方を受け入れることになった。集団肖像画で知られる名人フランス・ハルスが南部ネーデルラント―フランドル出身であったように、商人だけでなく画家たちの移住もあり、美術の世界においても北部には大きな変革の波が押し寄せることとなった。ハルスの両親は、スペイン軍のアントウェルペン攻囲後、北部へ逃れてきたプロテスタントだったのである。画家たちの移住は、南部でおこった絵画のテーマ―たとえば花卉画(かきが)、静物画、風景画などが北部の地で、より特化した様式で描かれるようになるきっかけを作った。

一方、南部のネーデルラント(現ベルギー)では、宗教改革への対抗から、教会が芸術の有力な庇護者となった。1608年にイタリアからアントウェルペンに戻ったルーベンスは、イタリア美術の研究を通して力強い人体表現と、ヴェネツィア派の輝かしき色彩を融合させ、バロック様式を代表する壮大な絵画を多数手がけ、その影響は国外にまでおよぶことになる。

北のオランダは、それまでの独立の抵抗の中で、北部七州のうちホラント州とゼーラント州が、海運によって経済的発展をとげた。アムステルダムは国際貿易港として栄え、ライデンは毛織物業で、ハールレムは上質の亜麻布の製造で富をたくわえた。共和国の誕生後、この地の文化は上層市民階級の富を背景に黄金時代をむかえ、オランダ独自の都市的、市民的性格をもつ寛容で自由な精神が形成され、これが美術作品に投影するわけである。

フランス革命より180年も早く、新たに誕生した市民社会では、宮廷、教会といった大建築を飾る絵画の依頼主は少なく、画家たちは、富裕な上層市民たちだけでなく、ラテン語で書かれた文学の教養を持たない普通の人々も顧客に考えなければならなくなった。君主、枢機卿(すうききょう)、大領主がこの国には存在しなかった。自分たちが水をかき出して造り、勝ち取った国土に対する誇りと祖国愛は、人々の肖像画や、町や田舎の写実的な風景画となってあらわれ、一般の家に掛けることが出来るような小画面の作品が生み出された。風景画だけではなく、花卉画、動物画、風俗画、静物画など絵画ジャンルの専門化が進み、専門分野を描くスペシャリストが誕生した。

 

新しい社会と芸術家たち
さてそこで画家たちのことである。17世紀の画家、建築家、そして陶工、絨毯工のような工芸家たちは、聖ルカ組合に属していた。これは外部からの同業者を排除し、自分たちの利権を守るための同業組合(ギルド)で、オランダでは、1759に廃止されるが、非公式にこの組織のかたちは存続した。この中世以来の組織に属する画家たちは、まぎれもなく画業に従事する職人だったのである。見習いの少年は(女性の画家も少数ながら存在した)、親方画家のもとに徒弟としてはいり、月謝と家賃と食費まで払って仕事を覚え、最後に「マスターピース」を提出して承認されれば、親方、すなわちマスターに認定された。

画家たちは、教会と宮殿の代わりに公共施設や慈善団体、富裕階層の邸宅を飾るための仕事を受け、また絵画市場へ供給する作品を売って生計をたてた。署名のある絵画の平均価格は約16フルデン(ギルダー)、無署名のものは7フルデンだったという。生計をたてるための絵画販売市場が成立していたのである。縁日の屋台でも絵や版画が売られていたし、購入された絵画は、農家の部屋にまで浸透した。絵画は投資の対象としても売り買いされたのである。当時の熟練した職工の週給は8~16フルデン、漁師の1週間の稼ぎが6~8フルデンだったというから、自宅に上質の絵画を飾ることは、手が届かないことではなかったが、さりとて、貧しい庶民にとって、かなりの贅沢でもあった。

当然ながら、フェルメールも聖ルカ組合に属していた。フェルメールの最大級の作品《絵画芸術(画家のアトリエ)》は、彼が所属し、理事をつとめたデルフトの組合に寄贈するために描かれたものではないかと推定されている。彼が多作しないでもよかった理由は、妻が裕福であり、副業にしていた画商の収入もあり、ある時期までであったにせよ、経済的にゆとりがあったからだと考えられている。

 

市場における絵画の画題には、ヒエラルキー(序列)が存在した。高い教養と構想を要すると考えられていた歴史画(物語画)が最上位に置かれ、肖像画、風俗画、風景画(海景画)と続き、静物画が最も低くあつかわれていた。この序列は、18世紀のフランス・アカデミーまで続いていくのである。当時の収集家たちは、高名な画家の作品を求め、好みに応じて画家に発注し、そうした注文作品の価格は高価になった。

イタリアのバロック絵画への関心を示す画家たちも多く、ユトレヒトには、そうしたロマニスト(古代やルネサンス作品を研究するためローマに遊学したイタリア以外の画家たち)が集まっていた。歴史画は、もっぱらアムステルダムが優勢だった。歴史画を描くにあたっても、イタリアは、オランダの画家たちにとって、陰に陽に意識すべき芸術家のメッカであり続けたのは確かである。

 

 

はかなさの裏の現世の肯定
空路オランダに到着した日本人男性は、スキポール空港のトイレの小便器の高さにまず驚く。便器の中には、ハエが一匹プリントされている。


飛散対策なのだろうが、清潔にしていても人が排泄すれば、ハエはたかるもの、これも世の摂理なのだ、というオランダ的な考えが、そのプリントの根底にありそうに思える。それは露が光る美しい花に虫がたかる迫真的な「ヴァニタス(生のはかなさ)静物画」に通じる思想である。果実は傷み、香り高いレモンも中身はすっぱい。群衆が集まれば、その中に飲みすぎてもどす人、スリなどが必ず描かれる。時には、女に言い寄る男、聖職者が賭け事に加わる光景まで描かれる。だらだら続く日常を切り取り、現実の愚行の一場面を絵画化することで、「反面教師」として人生の教訓を悟らせる役目が絵画に与えられる。現世の快楽を肯定し謳歌するがゆえに、与えられた時間の限りあることを見るひとに悟らせるのである。娼婦たちが誰よりたくましく、時にこの上なくエレガントに描かれていることも、この考えと無縁ではないだろう。これが17世紀オランダ絵画を見る「作法」、「心得」のひとつである。もちろん、日常の中に聖なるものを感じ、ことのほか清潔に部屋を維持し、節約につとめ、子どもたちをきちんと教育するという、母親の美徳を読み取らせるよき鑑としての行ないも描かれた。このテーマでは、デ・ホーホの諸作品が思い浮かぶだろう。

 

先述のとおり、オランダの社会構造は、イタリアやフランスなどとは大きく異なっていた。スペインとの独立戦争で共和国が誕生し、宮廷はあったが絶対的ではなく、プロテスタントの教会は、少なくとも絵画芸術や美術工芸の庇護者にはなり得なかった。権力と富はむしろ市民の側に存在した。肖像画を求めるのは、商人、造船主、銀行家、医師、弁護士、説教師たちで、富裕な人々は単身像だけでなく、夫婦や家族の肖像を求めた。お金を出し合って描いてもらう市庁舎や集会所に掲げる集団肖像画も制作された。まさにレンブラントの《夜警》は民兵隊の寄せ集め的な無秩序を逆手にとって、演劇的光源を駆使して大画面に構成したものである。東インドでの成功者はもとより、上層階級の市民(パトリシア)、農夫、パン屋、魚屋など、17世紀のあらゆる階層の顔が、確かな腕前の画家のタブローで記録されていること自体、奇跡と言っていい。画家の名人芸によってとらえられた人々は、美化されていない。その率直な描写は、17世紀の生身の人間の息づかいを今に伝えている。「私が天使を描かないのは、天使を見たことがないからだ」と19世紀の写実主義の画家クールベは言い放ったが、似通ったリアリズムをもって、17世紀前半期にオランダの市民、庶民の日常の細部を描く絵画が数多く誕生したことは、驚嘆すべき現象だったのである。

リアリズムの裏にオランダらしい人間の本質的行為の意味が隠されている。鳥はオランダ語ではフォーゲル(vogel)で、その動詞形で俗語のフォーゲレン(vogelen)は、そのものずばり性的な関係を示唆する。鳥をプレゼントするのは、そのままエロティックな意味を持つのである。魚を釣る(vissen)、も同義である。脱いだスリッパ、鉢の中の豆をつぶす道具、ニンジン、銃、メイドが手をかざす蝋燭、ストッキング、楽器でさえ官能や形而下的(けいじかてき)な愛、世俗の愛の隠喩となる。そうではあるが、大切なのは、ヤン・ステーンの例でもわかるように愛を売る娼婦たちが声高に非難されているわけではないことである。慎むべき愚行も目くじらを立てて非難するというより、愛すべき人間的な行為として寛容にうけとめるのである。王も墓彫り人も同じ時間を生きる。人生は、はかなくむなしい、しかしだからこそ、より人間らしく生きようではないか。その生き方が、簡素で質実で清潔な日常生活に裏うちされているのが、オランダ美術の心である。

ひとことで言えば、オランダ美術に通流するのは、反アカデミズムなのである。そこにバタフィー族の誇りと矜恃(きょうじ)、ローマへの対抗意識、北方の厳しい自然への畏怖が溶けこんでいる。ギリシア・ローマを規範とする理想化された美術への反旗が、イタリアを強く意識しながら、イタリア的なるものに呑まれないレンブラントの芸術を誕生させたと言ってよい。もちろん、オランダ美術は写実性の高いネーデルラント絵画の伝統を引き継いでおり、フェルメールもこの系譜の中に立っている。

その美術の特質を、子供のころの私が、かぎとったのだと思われる。私は見かけの口当たりのよいものを疑う。見栄えばかりで中身の空疎なものを嫌う。本質的で人間らしいものを信じ、愛する。金は新聞紙に包んでも金だし、桐箱に収めてもメッキはメッキである。私のこの屈折した性格が、人生を映す真実の鏡としてのオランダ絵画に共鳴したのである。

私は再びスキポール空港の小便器のワンポイント、ハエの意匠を思い出す。17世紀、画家も購買者も同じような意識を共有していたのである。人生のヴァニタスである。スキポールという地名自体が、もともとの船の難所に由来するわけで―いわば船の墓場空港というような―その逆説、皮肉さをもって―実際はそんな気持ちはないのかも知れないが―空飛ぶ船の港に冠しているあたり、それでこそ、わがオランダだと私は爽快に感じるのである。

 

 

 

 

岡 泰正
1954年舞鶴市生まれ、神戸で育つ。関西大学大学院博士課程前期修了。日本近世美術工芸史、オランダ絵画、日欧美術交流史を専攻。2011年学位取得(文学)。
1982年より神戸市立博物館準備室に学芸員として勤務、同館展示企画担当部長を経て、現在、神戸市立小磯記念美術館ならびに神戸ゆかりの美術館館長を兼任。長崎市出島史跡整備審議会委員。
神戸市立博物館において、ルーヴル美術館展、オルセー美術館展、マウリッツハイス美術館展などの展覧会の企画に関わる。主な著書に『めがね絵新考』(筑摩書房)、『司馬江漢』(新潮社)、『びいどろ・ぎやまん図譜』(淡交社)、『身辺図像学入門』(朝日新聞社)、『日欧美術交流史論』(中央公論美術出版)他。『めがね絵新考』で第四回倫雅美術賞受賞。漆工、陶芸の研究で第一回鹿島美術財団賞受賞。ロッテルダム市からエラスムスプライズ受賞。

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