オランダ語の翻訳者として、『レナレナ』(ハリエット・ヴァン・レーク、リブロポート刊)でデビューしたのが、娘の生まれた年。月日の経つのは早いもので、その娘も今年で27歳です。私は1985年から88年までアムステルダムに住み、その後のフランス滞在を経て、日本に帰国しました。良い本、良い作家との出会いに恵まれ、今日まで児童文学の翻訳を続けています。帰国してから、ほぼ毎年のようにオランダと日本を行き来してきましたが、ここでは一番印象深かった2011年秋の滞在を中心に、その前後のことも織り交ぜながら、お伝えしたいと思います。
旅立ちまで
2011年9月7日からの五十日間、私は「翻訳者の家 Het Vertalershuis」という制度をつかい、オランダのアムステルダムと、ベルギーのアントウェルペンに滞在しました。3月に東日本大震災が起こったばかりで、このときほどオランダ行きをためらったことはありません。しかし自分自身の学びに加えて、原発事故後の不安の中にある日本の「いま」を海外に伝えることかができるもしれない。そう思い、大決心して、成田から飛びたちました。
翻訳者の家
「翻訳者の家」とは、翻訳者の語学の上達と、文化理解を深める目的のために用意された長期宿泊施設で、ヨーロッパのあちこちに作られています。オランダでは、オランダ文学財団(NLF)、ベルギー・オランダ語圏ではフランドル文学基金(VFL)がその母体となり、どちらも政府予算で運営されています。アムステルダムの「翻訳者の家」は、日本でいえば、シェアハウスに近いもの。四階建ての建物の1階が事務室、図書室と集会室。2階が共有のキッチンとサンルームになっています。翻訳作業がスムーズに続けられるよう、各部屋にはパソコンもあります。
最長2か月まで無料で宿泊できるため、世界中のオランダ語翻訳者、特にドイツや東ヨーロッパ、ロシア、中国の翻訳者が利用を望み、予約は年間を通してほぼいっぱいです。
オランダの作家たち
毎年10月、オランダでは、「子どもの本の週間Kinderboekenweek」が始まります。その前の9月もさまざまなイベントが目白押しです。編集者や作家にとって1年でいちばん多忙な時期ですが、それでも「会いたい」と連絡を入れると、だれもが快く時間を割いてくれました。そのひとりが絵本作家のイヴォンヌ・ヤハテンベルフです。『とくべつないちにち』(講談社)、『ちいさなかいじゅうモッタ』(福音館書店)などの代表作があり、どちらも子どもがまず自分に自信を持ち、みんなに認められていく過程を楽しく描いています。イヴォンヌさんは、学芸員の松岡希代子さんと私とで監修した「オランダ絵本作家展」の作家のひとり。同展が日本を巡回していた2008年夏に、郡山市立美術館で子ども向けワークショップを行いました。大地震と原発事故のことをまっさきに心配し、「フクシマの郡山は大丈夫?」と連絡をくださった方でした。イヴォンヌさんの住むアルネムは、激戦地として知られ、平和教育もさかんな町です。二人で戦没者の眠る墓地や、「遠すぎた橋」をまわりました。
別の日には、アムステルダム公共図書館(OBA)へ向かい、絵本作家ハルメン・ファン・ストラーテンの個展のオープニングに出席。ハルメンさんが絵を描いた『おじいちゃん、わすれないよ』(ベッテ・ウェステラ文 金の星社)は形見のハンカチを通して、おじいちゃんの死を受け入れる少年ヨーストの心象を描いた作品です。ハルメンさんが絵も文も手がけた、底抜けに楽しい『エルフはぞうのしょうぼうし』(セーラー出版)のシリーズはまもなく人形劇になるそうで、会場中央には、大きなゾウが飾られていました。
ちょうど翻訳中だった『いつも いつまでも いっしょに! ポレケのしゃかり思春期』(福音館書店)の作者、フース・コイヤーにも会うことができました。ライツェ広場にあるホテルのカフェで待ち合わせしていたのですが、コイヤーさんは一向に現れず、不安になって電話をすると……「すまない、忘れていた!」。その日の夕方、出版社で落ち合うことができて一件落着。ハプニングのおかげで、逆に会話がはずみました。翌2012年、コイヤーさんがオランダの児童文学者として初めてアストリッド・リンドグレーン記念文学賞(青少年向けの本に贈られる世界的な賞)を受賞したというニュースを、日本で聞き、わがことのように喜びました。どの作品にも、「子どもたちへの敬意」がしっかりと込められている点が、高く評価されたと聞いています。
OBAは子どもの本の集まりに積極的に会場を提供しています。9月17日には、最上階にあるホールで、「第三回 子どもの本の午後Middendag van het Kinderboek」が開催されました。発起人は、画家・詩人・作家として多彩な活動をくりひろげる児童文学者のテッド・ファン・リースハウト。国際ブックフェアの会場ではなかなか聞こえてこない、作家や画家の生の意見が発表され(印税率低下の問題や、オランダの絵本に比べ、ベルギーの絵本が元気な現状の分析など)、オランダ児童書界の熱気を体感できました。
ヨープ・ウェステルウェール校
4月28日には、友人のリスベット・テン・ハウテン(元レオポルト出版編集長)がボランティアをしているアムステルダムの基礎学校を訪れました。基礎学校とは、日本の幼稚園と小学校をあわせた学齢にほぼ対応する学校です。
訪れたヨープ・ウェステルウェール校は、移民の多い地域にあり、通っている生徒もほとんどが移民の子どもたち。オランダの生徒たちは自由でにぎやか、という私の先入観は、この学校で完全にくつがえされました。先生は子どもたちの気持をしっかりつかんでいて、私のような部外者が入ってきても、だれも気に留めず、クスクス笑いだすこともなかったのです。
5~6歳児のクラスで、先生は、黒い肌の少年ルベンとクモの絵本『おかたづけグモDe opruim-spin』を読みはじめました。掃除機で吸われそうになったクモの隠れ場所を、ルベンが見つけてあげるこの物語は、人気作家のハンス&モニック・ハーヘンが教材として書きあげたものです。オランダ語のほかトルコ語版、アラビア語版、パピアメント語(かつてオランダ植民地だった西インド諸島の3つの島で使われている言語)版も出版されています。子どもたちはクモの歌を歌ったり、1から8まで足の数をかぞえたり、全身で物語を楽しんでいました。書店に並ぶ本は、肌の白い主人公が主流ですが、こんな配慮のある本こそ、教育の現場では求められているのがわかりました。
私が翻訳した作品『いつも いつまでも いっしょに! ポレケのしゃかり思春期』でも、主人公ポレケは、同じような学校に通い、ボーイフレンドのミムンはモロッコ人。クラスの中で移民でないのは、ポレケと親友のティナだけです。そして作家フース・コイヤーは、大人と子どもをまったく対等の存在として描いています。こうした視点は戦後、オランダの児童文学の基礎をつくったアニー・M・G・シュミットの流れを受けたものだといえるでしょう。ポレケは文化の違いに悩み、そのうえ「大人ってほんとに身勝手!」と憤りさえ覚えるのです。
共生の文化を求めて
外国人に参政権を与え、同姓婚を認めるなど、オランダは世界に先駆けて差別を無くす努力をしてきましたが、学校は移民の多いブラックスクールと、白い肌の子どもが多いホワイトスクールに自然に(?)分かれ、現実はバラ色ではありません。しかし多文化を伝えようと誠実に取り組み、それは学校だけでではなく博物館、図書館に行っても実感します。たとえばアムステルダム「熱帯博物館Tropenmuseum」の一部にある子ども博物館(Tropen junior)では、毎年違う国をテーマに、踊ったり歌ったり、創ったり、の参加型イベントを工夫しています。
オランダの人口は現在約1600万人。移民の割合は人口の約3割ですが、14歳以下の子どもに限っていうと、大都市では6割に達する地域もあります。異なる背景を持つ子どもたちの共生をめざす考え方は、様々なハンデキャップのある子どもたちに対する、特別支援教育も支えています。
なぜ、「共生」がこれほど重視されるのでしょう? 多文化主義のオランダでは、違う人種、文化、風習の共存をはかることが社会の安定、人びとの幸福に直結しているからです。個人主義もいきすぎると、他人(他の文化、宗教や価値観)に対する無関心に通じます。無関心ならまだしも、Geert Wildersが率いるPVVのような極右政党の人気を例に出すまでもなく、現実問題として移民排斥的な動きが強まっています。
急激な移民の増加により、オランダ社会はおたがいを理解する姿勢を養う必要に迫られ、2005年より行政主導で学校に取り入られた「シチズンシップ教育」は、そうしたニーズに答えるものでした。「シチズンシップ教育」は、異なる意見や価値観を持つもの同士が、争いを治める方法をお互いがさがし求めながら、解決をめざすプロセスを重視し、それを子どもたちが自分の頭で考え、行動し、つかみとっていくことをめざします。ユトレヒト大学のMicha de Winter教授は、こうした試みを「ピースフル・スクール」として学校教育に広めており、すでに国内約600校が取り入れています。あのヨープ・ウェステルウェール校も、そんなピースフル・スクール(een vreedzame school)のひとつだったのです!
手から手へ展
2011年秋の滞在はとても充実したものでしたが、原発事故後の不安の中の「いま」をオランダに伝えたいという願いは、かないませんでした。東日本大震災についての報道は、その直後に起きたトルコの大地震やギリシャの金融危機にかき消され、「日本は遠い国なのだ」と、寂しくなったことを覚えています。
その願いを少しでも実現したくて、スロバキア在住の絵本作家、降矢奈々さんの声がけで始まった「手から手へ展 From Hand to Hand」に協力しました。降矢さんをはじめとする日本のイラストレーター有志が、「震災そして原発事故後の世界から私たちの未来を考える」というテーマで、世界中の作家に絵や作品による参加を呼びかけていたのです。私も親交のある絵本作家に声をかけ、最終的にオランダから6名、ベルギーから3名の作家が参加しました。
こうして2012年3月に始まった「手から手へ展」はボローニャ、ブラチスラバ、ワルシャワのあと、オランダへの巡回を果たしました! 9月、日本文化センター・アムステルダムの共催により、’t Japanse Winkeltjeのある建物の2階ギャラリーで、展示が行われたのです。オープニングの様子をご紹介します。
一枚目の写真は、かけつけた絵本作家たち(右から降矢奈々、スロバキアの画家ペテル・ウフナール、オランダのハリエット・ヴァン・レーク、ヨーケ・ファン・レーウェン、アレックス・デ・ウルフ)。ちなみにハリエットさんは、私のデビュー作『レナレナ』の作者で、『ボッケ』(朔北社)などの作品もあります。
日本文化を伝える場にしようと、オープニングには和食がならび、現地の邦人アーティストによる演奏のあと、平和を祈って竹内秀策さんによる「バタフライダンス」や紙芝居『二度と』の実演がありました。
オランダからは、前述のイヴォンヌ・ヤハテンベルフにくわえ、ヒッテ・スペーや、ワウター・ヴァン・レークも参加しました。写真は図録に収められた二人の作品で(下画像)、上がヒッテさん、下がワウターさんです。
「手から手へ展」は、コペンハーゲンにも巡回されたのちヨーロッパを離れ、2013年春から、作家や展示の規模を拡大して、日本全国をまわりました。「手から手へ 絵本作家からこどもたちへ 3.11後のメッセージ」展と題されたこの展覧会を通して、私たちは、作家の想いが、その絵を見た人の心に届き、その人がまた自分の想いを誰かに届けてくれればと願いました。そんな中で、オランダの絵本作家たちも、「いま」から明日にむかって生きることを考えたアートを、日本の子どもたちのためにそれぞれ送ってくれました。嬉しいことは続きます。ワウターさんが、『ケープドリ』シリーズ(朔北社)の新作出版を機に、2014年6月に来日。たくさんの子どもや大人たちと、交流の場を持ちました。それは、日本の「いま」を伝えたいという私の思いをはるかに越えた、豊かな方向性を持つコミュニケーションに発展していったのでした。
最後に、ワウターさんが日本に残した言葉を伝えて、本稿をしめくくりたいと思います。
「間違いが、新しいことを生みだす。進化だって、コピーを間違って親とは違う子どもが生まれた結果だよ。間違えがなければ、ずうっと人間は類人猿のままだった。間違いの間違いの間違いがずうっと続いて、でも人は、未来に向かっていくんだ」
この言葉を聞いたとたん、原発事故のあと閉ざしていた自分の心に、すうっと風が入るのを感じました。私たちは、そう、間違うことだってあるのです! 大切なのは、生命のバトンを未来へつないでいくこと……。同時代を生きるワウターさんの、突き抜けた楽観性に、私はオランダ人である彼の、人間に対する深い信頼を感じました。
絵本は「人」そのものです。日本とは少し違う視点や価値観を持つオランダの児童文学を、もっともっと読んでもらえればと思います。子どもだけではなく、大人の皆さんにも! オランダ社会の縮図としての面白さ、人間そのものへの洞察力、独特の教育観、的確な描写にちりばめられたユーモア。その奥深い魅力にきっと驚くはずです。
*本稿は筆者が月刊誌『子どもの文化』に寄稿した「絵本作家ワウター・ヴァン・レークとの10日間」(2013年10月号)「オランダとベルギーの今―「翻訳者の家」で過ごした日々―」(2012年5月号)、「オランダ・ベルギーの本と子どもたち」(2009年3月号)をもとに、加筆・修正したものです。また書名のあとの出版社は、すべて日本語版の版元です。
野坂悦子
オランダ語、英語の児童文学の翻訳家・作家。1985年から5年間、オランダとフランスに住む。訳書に『第八森の子どもたち』(福音館書店)、『フランダースの犬』(岩波書店)など。 2001年、紙芝居の文化の会創立に加わり、海外担当として15年にわたり 日本の文化である紙芝居を世界に紹介している。紙芝居、絵本の創作も手がけ、 作品に『やさしいまものバッパー』(降矢奈々絵、童心社)、『ロロとレレのほしのはな』 (トム・スコーンオーヘ絵、小学館)などがある。 日本国際児童図書評議会(JBBY)理事、日本ペンクラブ、日本文藝家協会会員。