吉屋 敬 オランダ・風の肖像 (1)

ハウダ焼き Goudsplateel

 

いがぐり頭

我が家は、チーズで有名なハウダ(GOUDA)から10キロほど北東に位置する美しい湖畔に建っている。湖と言っても、日本と違って水位の落差がない国なので、水面と地面は数十センチしか差がない。汚れた靴を洗うには、ちょっと片足を運河か湖に付ければいいほど水位が高い。水面が頭より高いところを流れている天井川はあちこちにある。土手下から見上げると、風を孕んだヨットが天空を翔け抜けていくではないか! オランダならではのSF的な光景に、最初は度肝を抜かれたものだ。

ハーグ、ライデンを経てこのハウダに引っ越して来たのは1984年のことなので、もう今年で33年になるだろうか。ハウダはオランダのほぼ中心にあって、アムステルダム、ユトレヒト、デン・ハーグ、ロッテルダムを結ぶRandstadと呼ばれる、重要な四大都市の中に位置している。特にハウダ周辺は、大都市の中心部に残された「Groenehart=緑の心臓」といわれる自然保護地域でもあり、オランダの政策で都市化や工業化から守られている地域でもある。

 

引っ越してきた当時は、レーウヴェイクセプラッセン(Reeuwijkseplassen=レーウヴェイク湖)と呼ばれる湖沼地帯にある我が家から、一番近い町であるハウダによく探索に出掛けた。ハウダはチーズと陶器とろうそく、蜂蜜を挟んだワッフルで有名な町だが、30年前のハウダには取り立てて大きな産業はなく大企業も存在しないひなびた町だった。マルクト広場に建つ小さいが趣のある白い石のゴシックの市役所、ファサードにチーズを計量しているレリーフがある計量所(昔の公正取引所)、堂々とした鐘楼を備えた農民ゴシック様式と言われる石造りの立派なシント・ヤン教会(ステンドグラスは特に有名)、その前にある付属施療院と薬局(現在は美術館)、運河沿いに並ぶ16、7世紀以来の歴史ある建造物には中世の雰囲気が色濃く残っている。ちょっと散策するだけでこの町が13世紀からすでに発展し、15世紀にはオランダで五番目に重要な町だったという事実が納得できる。しかし私が1980年代に頻繁に訪ねた頃のハウダの家は古びて手入れも行き届かず、オランダの中でも貧しい部類に属する町だということもうなずけた。

市内には私がよくぶらりと立ち寄る店が何軒かあった。一軒はマルクト広場の裏手ラーヘ・ハウエ(Lage Gouwe)にある陶器店だった。このころは私が知る限り、ハウダにはまだ10軒以上の陶器店が残っていたように思う。大抵の陶器店の店先にはデルフト焼き風の青い絵付けの焼き物が雑多に置いてあったが、デルフトで一番有名な窯元ポルセレイネ・フレス社の製品のような高価なものはない。気楽に買える二流品、三流品を扱う店が主流で、その通りにはそうした雑多な店や民家が並んでいた。私がよく行く店には、いつ行っても雑然と並べてある皿やカップ、壷などがほこりをかぶって同じ場所にあったので、もう何か月も売れないまま置いてあるに違いなかった。その中に濃い青や赤、黒、黄土、褐色などの、ちょっと泥臭い色合いで描いた皿や壺があって、異彩を放っていた。モチーフは花をデフォルメしたアールヌーボー風のものが多いが、それはどの陶器とも違って非常に力強い印象を与える陶器だった。そのハウダ焼き=Goudsplateelと呼ばれる焼き物を私は美術館や骨董屋で何度も見ていたが、どういう焼き物なのかはよく知らなかった。

 

 

私はその店に行くたびに、ハウダ焼きではなくデルフトに似た青の染付の灰皿や小皿を日本へのお土産用に買った。個性的なハウダ焼きには、小品より大きな作品におもしろく優れた物が多かった。しかしそれなりに値が張ったから手が出なかったのと、強い独特な色合いが自宅のインテリアには合わない、というのが購入しない大きな言い訳だった。それと、私がそこに行く一番の目的は、店の一角で黙々と絵付けをしている頑固そうな絵付け師のおじさんに会って、彼から色々な話を聴き出すことだった。私の勘では、70代くらいのおじさんならハウダやハウダ焼きのことを何でも知っていそうだったし、おじさんが優しくて実直な人に見えたからだ。おじさんは白い髪を短く刈りこんでいて、日本にもいそうな律儀で昔風のいがぐり頭の職人さんという感じだった。彼はいつもとても不愛想で無口だった。何か聞くとボソッ、ボソッと答えてくれるが、その不愛想なところが何か朴訥で私には好感が持てた。そして予想通り、何度も通ううちに私は彼から色々な話を聞きだすことができた。

 

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わしが若かったころはな、そうだな、今から40年前も前の戦前の話だがな、ハウダの町には数十軒の陶磁器屋があって、数百人もの陶器職人がいて活気を呈していたもんだよ。もともとハウダでは特産品の長い柄の繊細な白い陶器のパイプが作られていたことは、外国人のあんたも見て知っているだろうが。ほら、そこのシント・ヤン教会の前の煙草屋でも売ってるだろう、あれのことさ。昔は北部11州のスケートマラソン(Elfstedentocht)が行われる時、出場者たちはみんなその3、40センチもある細いパイプを尻のポケットに差し込んで滑ったもんだ。

それを首尾よく折らないで無事にゴールインできればな、道中で転ばなかったという何よりの証拠となったんだ。

 

そうさな、そのもっと前の1920年代にはな、ハウダの労働者人口の四分の一が陶磁器産業に関わっていたんだ。わしが子供だった頃の30年代はハウダ焼きの黄金時代だったね。ハウダにはな、15,6世紀からレンガ工場やタイル工場、今言った白い陶製パイプや日常雑器を焼いていた工場が沢山あって、それが町の重要な産業だったんだ。

タイルはデルフト焼きと同じ青の染付だが、日常雑器もデルフト焼きとして作られていた。この青で絵付けした焼き物はデルフト以外の場所で焼かれていても、全部「デルフト焼き」「デルフト手」って呼ばれてるんだ。

今世紀(20世紀)初めころ、そのデルフト手以外にも、並行して黒とか赤とか黄土色とか、濃い緑色とかの個性的な強い色を使ったアールヌーボー風の大胆な花の絵付けで、独特のハウツプラテール(Goudsplateel)という焼き物が生まれたんだ。これはハーグにあったローゼンブルフっていうすごい焼き物があったんだが、その影響を受けて生まれたものだよ。

その頃は上手い絵付け師、というよりはアーティストが何人もいてな、ハウダ焼きはえらい人気だった。わしの親父は絵付け職人としては結構うまかったね。大きな陶器工場の絵付け師として随分沢山作品を描いたさ。ほら、この棚に飾ってあるのが親父の作品さ。もう手持ちはほとんどなくなっちゃったが、何点かがすぐそこの美術館にも飾ってあるよ。

ハウダ焼きには大きく分けて3種類あるんだ。一つは青のデルフト焼き。二つ目ってのが大胆でカラフルなアールヌーボー風の絵付けで、ハウダ焼きっていうと大抵はこの手を指してるんだ。美術館にあるような有名作品は絵付け師ではなくて、アーティストがやっていた。それぞれが工夫をこらして、新しいデザインを創りだすのを競争していた。今こういうのを描ける人は少なくなったし、いてもデルフト焼きと同じで全部昔のもののコピーだ。本物のアーティストはいなくなってしまったよ。

もう一つは、19世紀末に創始された繊細で薄手なローゼンブルフ焼きの影響を受けたアールヌーボーの絵付けで有名な磁器だ。ハウダ焼きはハーグにあったこのローゼンブルフ窯の影響で始まったんだが、ローゼンブルフは実にきれいな焼き物だったねえ。ローゼンブルフは年代で様式や模様が違うが、ローゼンブルフは人気が高く収集家が多いので、いい作品が市場に出ることはまれになってしまったし、出たとしても目の玉が飛び出るほど高価で手が出ないよ。

 

ローゼンブルフ窯ってのはな、1883年だったかな、優れたアーティストのコーレンブランダーっていう人がハーグに窯を築いて、革命的と言われた斬新な花鳥の装飾文様と独特な色の焼き物を創り出したんだ。ハウダ焼きはそれに影響されて、遅れること20年後の1900年にハウダで焼き始めた焼き物のことだ。ハウダ焼きのデザインも色も、ローゼンブルフに酷似しているのはそのせいさ。ローゼンブルフ窯は何回か大きな経営危機に陥った。だがそのたびに優れたアーティストとか経営者がでて、陣容を立て替えては切り抜けて来た。ファンも多かったな。19世紀終わり、たしか1899年だったな、斬新な革新的技術とデザインで二度めの危機を乗り越えた。エイアースハール(Eierschaal)、つまり卵の殻っていう意味だが、こう名付けた極端に薄手で繊細な真っ白な磁器の制作に成功し、そこに繊細なアールヌーボー様式の紋様を付けた焼き物を創りだしたんだよ。アーティストたちが競って絵付けに加わり、パリ万博にも出展して各国の美術館に購入されたって聞いたよ。だけどな、1914年、第一次大戦が勃発して経済も社会も衰退してしまった。そのあおりを受けて、ローゼンブルフはわずか30年の短い命を終えてしまったんだ。だから今では、ローゼンブルフ窯は収集者にとって垂涎のまとの幻の陶磁器になっちゃったってことが、あんたにも理解できるだろう?

この店はわしで二代目だ。レンガ職人だった親父が戦前に絵付けを習得して、陶器工場の絵付け師になった。まだハウダ焼きの全盛期だったね。わしはもともと電車の運転士になりたかったんだが、事故で足を怪我してなれずいくつかの職を転々とした。親父は戦後間もない1948年に独立してこの店を開いた。だから戦後の就職難の時代、親父の仕事を継ぐのが一番手取り早いと思ったんだ。特に絵付けが好きってわけじゃあなかった。最初は親父の作品を見よう見まねで、仕方なく絵付けを覚えたよ。今思えば、これがやはり自分には一番合っていたことが判ったが、その頃はあんまり興味もなかったから生活の為だったね。もちろん資格を取るために短期間絵付け師養成学校にも通った。だがわしが跡を継いだ頃は親父はもう高齢で働けなかった。親父はハウダ焼きの絵付け職人として誇りをもって生き、十年前に90歳で死んだよ。

最期の数年はもうろくして何もわからなかったがそれでよかったのさ。ハウダ焼きがこんなに廃れてしまったことを見るのはつらかっただろうしな。

わしの子供は3人いるが、息子はサラリーマン家庭、娘二人も陶器と無関係の勤め人と結婚していてだれも家業を継ぎたがらない。親父と合計して90年続いたこの店も、二代目のわしでもう終わりだな。まあ惜しいと言えば惜しいが、全て運命、時代の波ってもんさ・・・。

 

 

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(文章・写真/吉屋 敬)