金文字の招待状

まだ東西ドイツが分離していた頃の1970年代半ば、私たち一家は西ドイツのJuelich(ユーリッヒ)に3 年間住んでいた。

オランダとの国境の町Aachen(アーヘン)から23キロの道のりをゆっくりと山の方へ上り、アイフェル山系の森の中に入ると、西ドイツ原子力研究所があった。上空から写真が撮れないよう、建物はすっぽりと森に包まれていた。ドイツ語では、単語をいくつもくっつけてワンワードにしてしまうことがよくある。西ドイツ原子力研究所も、ヴェストドイチェスケルンフォールシュングスアンラーゲ(Westdeutcsheskernforschungsanlage)といった。

分解すれば、ヴェスト(西/west)ドイチェス(ドイツの/deutcshes)ケルンフォールシュングス(原子力の/kernforschungs)アンラーゲ(研究所/anlage)となる。夫はそこで研究員として雇われた最初の日本人かもしれなかった。

 

アーヘンは、昔々の紫式部の頃フランク王国の首都だったので、当時の立派な教会や市役所が今でも残っている。観光名所としてだけではなく、現役として役目を果たしているところがすごい。1200年も昔の石造りの建物の中で、コーヒーが飲めるなんて。法隆寺ではそんなことはできない(はず)。

 

ユーリッヒからは、時々アーヘンに買い物に行って、青空市場(マルクト)で新鮮な魚介類を手に入れていた。ユーリッヒには、お魚屋さんがなかったし、スーパーでもたまに冷凍のイカがあるくらいで、買いたくなるような海の幸は普通はない。イカは、どうもイタリア人向けのように思われた。アーヘンで求めていたのは、主にタラやタイで、オランダ人の好きなニシンを買ったことはなかった。

 

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隣の国のオランダで原子核物理の国際会議があるというので、夫が一人で出張にでかけた。しばらく留守のはずだったが、デン・ハーグから電話がかかってきて、「ホテルの部屋がさ、すごく広いんだよ。家族4人でも泊まれるから、来ない?」。大急ぎで支度をして、小さな息子2人を乗せ、アウディーのステーションワゴンでアーヘン経由、一路西へと向かった。

 

折悪しくその日は大雪で、車の正面から地吹雪のような雪が襲ってきて、白い虫の大群に囲まれているかのようだった。恐怖を感じスピルバーグの世界をスピードを落として進んでいった。道路標識の「デン・ハーグ」を頼りに何時間か走ったあと、標識が見つからなくなった。慌てて道路際に車を止めて、歩行者の方に、「すみません、デン・ハーグはどっちの方向でしょうか?」と訊いたら、「ここです」と言われてしまった。

 

砂浜沿いのホテルには人もあまりおらず、子供連れでも気兼ねなく泊まることができた。ゲルマン系の国では、ホテルに泊まると子供たちが走り回ったり喧嘩して泣いたりすることで親は肝を冷やす。とにかく「シーッ!」といって黙らせないといけない。その点、広くてガランとしたホテルは、気が楽なのだった。

デン・ハーグはオランダの首都。アムステルダムのほうが名は知れているが、首都ではない。規模はアムスの方が格段に大きい。昔話としてよく語られることだが、アムスの町を縦横に走る運河が市民のアイススケート場だったという。冬は自転車に乗る代わりに、スケートで目的地まで行くという日常だった。それが今はカチンカチンに凍らなくなってしまったの、と言う。また、車ごと行方不明になった人を探すときには、まず運河に沈んでないか調べる、という話もきいた。なんでも、バックして車を停めようとして、そのままドボンと落ちてしまうとか。でもこれはマユツバかもしれない。

 

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小学校の時の社会科の時間に、オランダの首都はデン・ハーグと教えられた後、ほとんどその名前を聞くことはなかったが、戦後だいぶたってから、日本人が初めてデン・ハーグにある国際司法裁判所の判事さんになられたというニュースで、再びその名をきくことになった。

国際司法裁判所というのがあるんだ、と驚いた。地球の正義を守ってくれそうで頼もしい。しかもハーグにある、という。すると三菱長崎造船所に勤めていた父親が、「田中耕太郎さんと言う人が判事さんになったんだよ。この人、知っているよ」と言いだした。法曹界とは無縁の父がなぜ田中耕太郎さんという非常に偉い方を知っているのか。国際司法裁判所に赴任される前は、最高裁判所長官であられた方だ。そしてカトリックの信者さんであり、7か国語がおできになる語学の天才との名声が高かった。

 

布教の歴史をひもとくまでもなく、聖フランシスコ・ザビエルが日本の地を踏んだのは1549年。まず九州南部(鹿児島)から始まり、平戸(長崎)や豊後(大分)にも足跡を残した。中国地方を通り大内の殿様に優遇され、京都に至っている。しかし、豊臣秀吉は頑固だった。ザビエルは跳ね返される。しかし、何百年もあとまで残る信仰の種はしっかり植えられていた。

その布教と殉教の歴史を称えるために、1949年に「ザビエル400年祭」が日本で開催された。主たる開催地は東京。ヨーロッパ各地から聖職者や関係者が日本に来られたが、戦後は職業としての通訳はまだ確立されていなかったに違いない。田中耕太郎さんはご自分が通訳をなさるつもりでいらしたが、外国人の一団が26聖人の殉教の地、長崎にも行くことになったため、長崎の関係者に対して、「長崎の殉教の歴史を調べる時間がないので、現地の方がどなたか英語でレポートして下さらないか。そうしたら自分がそれをスペイン語その他に通訳する」という依頼を出された。ところが戦時中敵国語として排斥されていた英語だけに、スペシャリストはなかなか見つからず、ついに「三菱になら誰かいるかもしれない」ということで、父の勤める三菱長崎造船所に問い合わせがきたのだった。

 

終戦直後にアメリカ軍の将校たちが長崎にもやってきて、父はその通訳も一部引受けていた。英語が専門ではなかったが、いつかアメリカに留学したいと思って英会話に熱を入れていたらしい。ザビル400年祭は多くの信者さんたちで大盛況だったことが写真からわかる。「殉教の歴史」を英語で発表する父を見たさに、母は私を連れて会場に赴いたが、会場はなんとチャーチではなくて、諏訪神社の境内だったことをはっきりと覚えている。神社の正面からだと、左の上のほうにテラスのようになった見晴らしの良い広場があって、そこに多くの外国人の神父さんや尼僧の方々が集ってこられた。

父が英語を話しているところを目撃した記憶はないものの、田中耕太郎様と並んでステージのようなところに座っていたことと想像する。私はといえば、コーヒーブレークの時に、大勢の外国人に取り囲まれて、びっくりしてしまった。終戦から4年程度の1949年。日本人はみな痩せていたが、白い肌の西洋人の女性たちはふっくらとして、青い目とピンクの頬が美しかった。それからしばらくして、父のところにスペインの方から子供服が送られてきたようだった。しかし、母が梅ヶ枝海岸あたりの税関のようなところに受け取りに行ったら、泥棒に盗られた後だった。

その時に、主催者団体からいただいた父への「感謝状」が今も残っている。

 

廣瀬直之(父の名)殿

「右の者、(中略)聖フランシスコ・ザビエル師来訪400年記念の巡礼外客に対する案内に従事したことを証明する」と書かれている。

日付は昭和24年(1949年)6月1日。

 

長崎市の郊外で裸足で野山を駆け巡って遊んでいた私が、長じて霞ヶ関の文部省に奉職し、国連のユネスコを担当することになるとは、予想だにしていなかった。そして原子核物理学者と結婚してアメリカ、ドイツで7~8年を過ごして帰国。45年位前の日本では、36才の私は就職がほぼ無理であったため、昔取った杵柄で国際会議や同時通訳、翻訳を主たる業務とする会社を立ち上げた。

 

1983年、私は40歳になっていた。日本の国際化の波に乗り、5年後には思わぬほど業績が拡大し事業が軌道に乗ったのは我ながら驚きだった。各国大使館ともご縁ができて、いろいろなお仕事を頂いていたのだったが……。

1999年の夏、一通の立派な招待状がオフィスに届いた。なんとポルトガル大使からで、招待状には金文字で「あなたをザビエル450年祭の展覧会とディナーパーティにご招待申し上げます。是非おいでくださいますように」と書かれていたのである。文字通り、鳥肌が立ったのは言うまでもない。

 

 

郷農彬子
1964年東京パラリンピック通訳。長崎市出身。日本女子大学英文学科卒業。中学時代より英語の特訓を受ける。高校1年のとき、初めてアメリカ人とオーストラリア人の通訳を経験。1967年文部省(文科省)入省。国連ユネスコ担当。その後アメリカとドイツに7年間滞在。帰国後の1983年、国際会議の準備・運営、通訳、翻訳を主たる業務とする(株)バイリンガル・グループを設立。大学講師、厚労省政策審議会委員、国際会議業界代表幹事などを歴任、現在に至る。

 

 

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