07 1月

私のオランダ:小さな国・大きな世界

2019年の運営スタッフブログは、FANの台所をしっかり見守っている田中成幸さんです。30年にわたるオランダ巡礼の旅のきっかけとは?
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オランダ人との初めての出会い

外国に興味・関心を持つ機会は、殆どの場合、「偶然」によることが多いと思います。

ビートルズが好きな人は、英国に。サッカーが好きな人は、ブラジル・ドイツに。ワインが好きな人は、フランスに。チョコレートが好きな人は、ベルギーに興味・関心を持つように。

私の場合も、その「偶然」により、オランダに興味・関心を持つようになりました。

私が22歳(1979年)の時、地下鉄東銀座駅で初めてオランダ人と「接点」を持つことになりました。同じ車両に乗り合わせていました年齢60代オランダ人観光客(女性2名・男性1名)の1人の女性から、改札を出た時、英語で「銀座に本屋さんはありますか?私の息子は、演劇の先生をしており、日本の能の本を頼まれました。」と尋ねられました。

当時の私の初級英会話レベルでもよく分かる英語でしたので、「ありますよ。ところで、どちらのお国から来られたのですか?」と聞き返しました。

「私たちは、オランダから来ました。群馬県新町で開催されます30キロ歩行大会に参加します。あなたは、歩くのが好きですか?」。

当時の私のオランダに対するイメージは、「低地・1964年東京オリンピック柔道無差別級金メダリストフェイシング・コーヒーメーカーPHILIPS」であり、日本の健康志向ブームも低かったためか、「30キロもただ歩く、暇な人たちもいる者だ。」と内心思いました。

自分の英会話の勉強にと思い、銀座周辺を二時間ほど案内しました。

初めにリクエストのあった「能」の本を購入するため、洋書店「銀座イエナ」(平成14年1月17日閉店)を案内。次に、皇居周辺を案内しました。彼女ら全員60代のオランダ人は、第二次世界大戦を実際に経験しており、旧植民地インドネシアにおけるオランダ対日本の軍事衝突の歴史も認識していました。皇居周辺を案内しながら、「昭和天皇」について少しばかり説明しましたが、私の説明にはあまり関心が無いように思いました。戦前の両国間関係の「負の部分」が、彼女らオランダ人一般市民の心の中にも残っていたのかもしれません。

10月末で夕方の寒さもあり、「喫茶店に入り、少しお話しをしましょう。」と私が提案しました。

コーヒーとチーズ・サンドイッチを食べながら、彼女らのオランダでの生活を色々と話してくれました。女性二人は、ナイメーヘンとゴーダ出身。男性は、アムステルダム出身。全員、定年しており、皆一人暮らし。ナイメーヘン市は、「歩け歩け大会」の世界的メッカであり、毎年、日本からも参加者いると教えてくれました。

ナイメーヘン出身の女性に「あなたに手紙を書いていいですか?よろしければ、ご自宅の住所を教えて下さい。」とお願いすると、「ええ、喜んで。」とメモ用紙に書いてくれました。

この後、宿泊していた都内のホテルまで三人を送りました。

別れ際、ナイメーヘン出身の女性から「ロビーで少し待っていてください。あなたにお土産があります。」と言われ、彼女はホテルの部屋に戻りデルフト焼きのプレートを持ってきました。「本日は、ありがとう。これは、オランダの焼き物です。記念にどうぞ。」と言ってプレゼントしてくれました。オランダの焼き物が日本の焼き物から影響を受けているとは知らず、デルフト・ブルーのオランダ風車だけが何か少しばかり私の心に残りました。

 

ナイメーヘンからの便り
銀座案内から一カ月が経ち、ナイメーヘンから一通の手紙が届きました。私の方も彼女に焼き物のお礼と思い、手紙の下書きを英和辞書と和英辞典と格闘しながら準備を進めいたのですが、自分の清書が間に合いませんでした。

手書き英文3枚の手紙で、歩け歩け大会参加、広島原爆ドーム、奈良の鹿、箱根芦ノ湖遊覧船等の印象が書かれておりました。

海外文通を経験された方ならご理解されると思いますが、手書き英文は何かと読みづらい。英単語の意味を理解する前に文字判読に時間がかかってしまいます。しかし、彼女の筆跡は、私のような英語学習初心者にもそれほど苦労せず読むことが出来ました。彼女の手紙の最後にローマ字でこんな風に書かれておりました。

「ORANDAWA、SAMUIDESU.WATASHINI TEGAMIOKAITEKUDASAI.」

当時私は、オランダより北欧のスウェーデンに強い関心(自動車VOLVO・音楽ABBA・スウェーデン社会政策・スウェーデン語等)があり、スウェーデンの女性看護師とも海外文通(英語)のやり取りをしておりました。彼女の私生活・スウェーデン人一般の日常生活に関する情報を彼女からの手紙で得ておりました。彼女と5回程海外文通した後、次回の手紙に私の写真を同封して下さいと依頼がありました。私は、彼女とより親密になれると思い、自分の写真を同封して手紙を送りました。しかし、それからは、彼女から手紙は不通になってしまいました。イケメン俳優の写真一枚でも送っておけば、今頃は私もスウェーデン語とスウェーデン社会の専門家になっていたかもしれません。憧れのスウェーデンは、片思いで終わりました。

しかし、オランダ女性は、私にチャンスを与えてくれました。お互いすでに面識があり、お互いのパーソナリティも理解しておりました。彼女からは、2ケ月度に手紙が届き、私も不慣れな英語で返信しました。1年半程文通を続けているうちに、ヨーロッパに旅行する機会があれば、是非、オランダにも来て、彼女の自宅にホームスティして下さいというお誘いを受けました。

 

初めての海外旅行でオランダの地を踏む
私が24歳になる時(1981年3月)、初めての海外旅行を経験しました。行き先は、オランダ・ドイツ・スイス・フランス。3週間の一人旅です。旅の一番の目的は、ドイツビール・スイスマッターホルン・パリシャンゼリゼではなく、彼女との再会です。

1980年代初頭は、まだシベリヤ上空をフライトする航空便が運行されておらず、ヨーロッパへは南周り便(東南アジア・中近東経由)又は北極便(アラスカ・アンカレッジ経由)を利用するのが一般的でした。成田空港夜9時30分発KLMオランダ航空アムステルダム行に搭乗しました。アラスカ・アンカレッジまでのフライト時間は、8時間。給油・乗務員交代のため、アンカレッジ空港ロビーで1時間待機。アンカレッジ空港から目的地アムステルダム・スキポール空港まで北極上空を通過して8時間。スキポール空港は、朝6時30分着。所要時間、17時間のフライトでした。

天気も薄暗く、早朝のためか空港内がとても静かな印象でした。彼女のいるナイメーヘン市に行くには、空港からアムステルダ中央駅まで電車で行き、中央駅でナイメーヘン行に乗り換えなければなりません。この初めて乗る電車こそ、とても「オランダ的」でした。

車体の色が、「黄色」であり、先頭車が「Dog’s nose=犬の鼻」の愛称で呼ばれる程、日本の電車には無い、ユーモラスなデザインです。

アムステダム中央駅からナイメーヘン駅までの所要時間は、約1時間40分。車窓から初めて見るオランダの風景は、自然豊かな平坦の土地です。運河があり、数多くの羊、乳牛が車窓に映ります。

ナイメーヘン駅到着後、彼女の自宅へ電話をしました。駅で待つこと、30分。

シトロエン2CV(フランスの大衆車。愛称は、“醜いアヒル”)を運転して迎えに来てくれました。本人と直接再開出来た喜びは、大きなものです。(銀座で出会い、俺は、今オランダにいる!!実感できないと言った感じです。)

彼女の自宅には3週間のヨーロッパ旅行中、最初と最後の各5日間ホーム・ステイさせて頂きました。

日中は、ナイメーヘン地区を彼女のシトロエンでドライブ案内してもらい、夜は、彼女の美味しいオランダ家庭料理です。又、彼女の友人宅へも案内してもらい、オランダ人の「日常生活」を見聞する機会も持てました。

 

30年続いたオランダ巡礼の始まり
私の人間性・品行が良かったのは分かりませんが、帰国時に彼女は、わざわざアムステダム・スキポール空港まで送ってくれました。空港で別れる時に、「来年も是非来てください。」と彼女から言われました。

この「是非」と言う言葉が、私のオランダ巡礼の始まりです。

翌年もオランダ・ドイツ(ブレーメン市)の2週間の旅行をしました。2回目は、彼女の地域の人的ネット・ワークのお蔭でより多くのオランダ人と接する機会を持つことが出来ました。地元大学の先生とその家族、スリナム人家族(旧オランダ植民地)、オランダ人家庭主婦等です。

2回目以降、オランダに計15回も渡航し30年間もオランダと接することになりました。

30年間も一国の「追っかけ」をしておりますと、いろいろと社会の変化が見えてきます。

1980年代前半のオランダは、経済情勢も良くなく、乗用車も高級車(BENZ・BMW)を見ることが少なく、フランスのCITROEN・PEUGEOT大衆車が大半を占めておりました。

もちろん、乗用車のメンテナンスも悪く、日本のように傷一つ無くピカピカに磨かれている状態ではありませんでした。当時、私が知り合ったオランダ人の多くも、オランダ及び西ヨーロッパ全体の未来に対して悲観的でありました。1980年代後半から1990年前半では、オランダ人の口から出た言葉は、「日本の経済力は凄い。オランダのTV経済ニュースでもTOKYO STOCK MARKET株価暴騰を連日特集している。」でした。

1989年・1990年、日本は最高潮でした。「横浜では一戸建ての価格が、8千万円以上します。」と話したら、あるオランダ人から「それは、プール付きの豪邸かい?」から真顔で質問を受けました。

1990年前半の日本経済のバブル崩壊から2000年前後に、オランダと日本の社会情勢が逆転したように思われます。知人の若手オランダ人科学者(2000年当時、32歳)が「アムステルダムで家族4人で住めるような手頃なマンションを探しているけど、価格が高騰して7千万円以上するんだ。無理だよ。不動産バブルだよ。」とため息をもらしていました。

2010年頃になりますと、日本よりオランダ社会の方がより活力があると感じるようになりました。それは、オランダの街中で見かけた若い女子のファッションがよりお洒落になっておりました。経済の専門家でもない私にも、地域の生活の変化を見れば経済の活力を判断出来ます。ナイメーヘン大学で教鞭をとっている同じオランダ人科学者に「可愛いオランダ人が増えたように思うが、大学ではどうですか。」と質問したところ、「10年前に比べお洒落な女子学生が多くなった。ファッションにもお金をたくさん使うようになった。」との返事でした。

私の前回のオランダ訪問は、2015年2月です。まず一番に驚いたことは、ナイメーヘン駅前で乗ったタクシー運転手の国籍でした。オランダ人ではなく、アフガニスタン人でした。アフガニスタンの内戦で生活が出来なくなり、家族でオランダに来たとのことです。アフガニスタンでは、内科医をしていたとのことです。(本当かな?)自動車ナビのお蔭でタクシー運転手の仕事が出来るとのことです。他のタクシーを利用した時も、運転手はオラダン人ではありませんでした。30年前のタクシー運転手は、全員オランダ人であったと思います。タクシー運転手の賃金が低いためなのか、人で不足のためなのか、判断は出来ませんが、「労働の国際化」です。

二番目驚いたことは、「キャシュレス」生活です。

普段の日常生活では、100EURO以上の現金を持たず、キャッシュカードで殆どの金銭処理を行うことです(金銭防犯もその目的一つです。)

30年間も一つの国を追っかけておりますと、その国の社会の変化及び自国日本社会変化も見えて来ると思います。TVや本からの情報も有益ですが、やはり、その国の人と接点を持ち「肌」で感じた方が自分の知識をより有機的にすると思います。

 

私のオランダ:小さな国・大きな世界
私のオランダ人の出会いそしてオランダへの旅について書いてきましたが、私のオランダに対する理解は、浅く表面的なものに過ぎないと実感しております。

その理由は、二つあります。一つは、私はオランダ人の国語であるオランダ語を全く勉強していないことです。オランダ人は、一般に英語に非常に堪能であり、私自身も英語で彼らとコミニュニケーションしてきました。しかし、その国の言語で相手と対話しなければ、その国民性又は文化の本質は、絶対理解出来ないと言うのが私の持論です。何故ならば、言語の中にその社会の特質が含まれていると考えているからです。

もう一つは、宗教です。

オランダを含めヨーロッパ社会の下地になっている「キリスト教」を理解せずして、ヨーロッパ社会を正しく知ることは困難であると考えるからです。私もドイツの社会学者マックス・ヴェーバーに関する書籍を通して、「プロテスタンティズム」を少し勉強してオランダ人の勤勉性・公共性の本質に興味を持ちましたが、私の理解は「本」から得た「知識」のレベルにしか過ぎません。

逆説的に言えば、「社会と言語」・「社会と宗教」の重要性を私に教えてくれたのも30年お付き合いしたオランダからもしれません。

オランダの人口、1,700万人。首都圏3,650万人(東京都1,375万人+神奈川県918万+埼玉県732万人+千葉県625万人)の総人口の約半分です。首都圏の半分の人口から世界トップ企業(航空KLM・電気PHILIPS・石油SHELL・化学AKZO等)が誕生し、又世界トップ100大学の中でデルフト工科大学を初め、オランダの大学が7校ランクインしているのも特筆すべきことです。(日本は、2校のみランクイン。)

作家・司馬遼太郎は、かつてこんな事を言ったと記憶しております、「江戸時代の日本の家庭教師であったオランダが、明治時代に英・独・仏各国の家庭教師の陰に隠れなければ、日本の近代・現代社会の様相はもっと違っていた。」と。

スポーツ・音楽・建築・園芸・美術等、様々な分野でオランダはその存在力を世界に示しております。国家としては、大変小さい国土ですが、非常に「重みのある」国家です。

現在、日本社会は、「少子高齢社会」へと移行しようとしおります。江戸時代の家庭教師であったオランダから今一度社会福祉政策・国家運営等を学ぶ時期に日本は来ているのかもしれません。

それにより、世界から注目される「日本版少子高齢安定社会」を誕生させるチャンスになるかもしれません。

最後に、私のお宝写真を披露して、このエッセイを締めくくります。当時の私の趣味のひとつに「海外短波放送聴取」がありました。その趣味を通して、オランダの人たちと温かい交流を育むこともできました。

第1回オランダ・ペンパル訪問時、趣味の国際短波放送局を訪問-1981年2月
オランダ国際短波放送局全世界英語圏・スペイン語圏向発行公式クリスマスカード—1981年12月
第2回オランダ・ペンパル訪問時、オランダ国際放送短波局を再訪